第23話 The Seventh night of July
いつもの習慣で私は朝早く起きてしまった。
夜更かししたせいかまだ少し眠い。
隣で眠る未怜は静かに寝息を立てている。
未怜の部屋には窓があって、カーテンを軽く開けると少し薄暗いが街の様子を見下ろすことができた。
5月の日差しが嘘のように、少し肌寒い6月の空気は湿気を含んでいる。
朝霧にぼやける景色とは反対に、私の心は昨日よりもはるかに澄み渡っていた。
(色々悩んでいても仕方ないし、今の私にできることは、絵を描くことだ)
上半身を起こして壁に寄りかかり、改めて未怜の部屋を眺めてみると、カーテンの隙間から入る光の中、未怜の今まで生きてきた証のように作品が並んでいる。
(いいなぁ、私も頑張らないと)
まだ、昨日のショックは抜けきらないが、それでも少し前に進もうという気になれたのは未怜のおかげだった。
しばらくして未怜が目を覚ました。
「あれ、おはよー。結奈、早いね」
まだ眠たそうに瞼をこすりながら、未怜が起き上がった。
と思ったら、ベッドから落ちた。
「痛ったー、そうか、2人で寝たんだった。忘れてたよ」
少し恥ずかしそうに笑う未怜を見て、私も笑った。
その後未怜の家族全員と朝食を食べて、私たちはまた出かけて夕方まで街をぶらぶらした後に家に帰ることにした。
「あのさ、よく考えてみたんだけど…あの2人、本当に付き合ってるのかな?」
別れ際に未怜が真面目な顔をして呟くと、私は心臓が早くなるのを感じた。
「だってさ、教師と生徒なのに、あんなに堂々としてるのってやっぱりおかしくない?」
確かにその通りなのだ。
私も、明莉先生だって教師という立場にあるんだし、生徒と付き合うのなら遠くで会ったり、バレないようにするべきだと思っていた。
「うん…、でも何回も見てるし、何だかあの2人、特別な雰囲気だし」
「うーん、それはそうなんだけどね…。でも、私はやっぱり本人に直接聞いてみるのがいい気がするよ。私たちの勘違いかもしれないし。私が聞いてみようか?」
「ううん。大丈夫」
心配気にそう言う未怜を遮って、私は首を振った。
「私が自分で聞いてみるよ」
たった1日では強くはなれなくても、強くなろうと思うことはできる。
次の日、昨日まで止んでいた雨はまた降り出していた。
校舎に着いてビニール傘を閉じる手が何だか冷たくて、それは気温のせいなのか、美術部への緊張のせいなのかわからない。
今日は月曜日。
きっと哲司先輩は部活に来ない日だけど、明莉先生と会うのが何だか怖い。
放課後、運の悪いことに日直だった私は未怜に先に部活に行ってもらうよう伝え、提出物をまとめて職員室に運んでいた。
新校舎の廊下は雨の日でも明るいが、やはり人工的で私はあまり好きになれなかった。
(あ、そうだ、図書室に本を返さなくちゃ)
人生の短さについて。
今日が返却期限だったのだ。
忘れずにカバンに入れてきたので、私は日直の仕事を終わらせて、旧校舎への渡り廊下を通って美術室とは反対側へ曲がった。
3階からは吹奏楽部の合奏の音が聞こえてくる。
音から遠ざかるように図書室に入り、受付カウンターに返却を申し出た。
返却はあっさりと終わり、貸出カードが事務的に戻され本は返却スペースに置かれた。
私は一度立ち止まり、図書室の扉の前で一息つく。
(よし、部室に行こう。未怜もいるし、大丈夫)
そう自分に言い聞かせて図書室から出ようとした時、いきなり扉が開いて人とぶつかってしまった。
後ろによろけた私の手を掴んだのは哲司先輩だった。
「あれ?結奈いた。美術室に行ってもいないから、教室行こうと思ってたんだよ。あ、ちょっと待ってて」
そう言って、哲司先輩は手に持っていた本を受付で返却した。
ちらっと見えたタイトルは、「絵画療法:理論とその実践」だった。
返却を終えると哲司先輩はすぐに振り返って、私の背中を押して図書室を後にして、私の少し前をどんどん歩いて行く。
旧校舎の廊下は相変わらず薄暗くて、いつもは心地よい筈の木の軋む音がその度私の心臓を締め付けるようで、何も話さないその背中に向かって心の中で嘆願していた。
(お願い。早く何か話して)
右手を強く握りこんで、手のひらに爪の跡が残ってしまった。
ようやく渡り廊下まで来ると、哲司先輩は振り返る。
「…日直、もう終わったの?」
やっと口を開いた。
どうやら美術部で未怜に聞いたらしい。
「はい、借りてた本を返したところで、これから部活に行こうと思ってたところです」
何だかよそよそしい話ぶりになってしまった。
「そうなんだ。何の本借りてたの?」
言うべきか言わないべきか悩んだが、結局言うことにした。
「……人生の短さについてっていう本です」
「あぁ、セネカ!俺の名前貸出カードに書いてあったでしょ。哲学好きなの?俺あの本好きでさ、自分で買っちゃったよ。いつも持ってる。ほら」
そう言いながら、カバンの中から本を取り出して見せた。
(そうか、自分で買ったから、貸出カードの日付が1年前だったんだ)
先輩が読んでいたから、私も読んでみたんです。
何て、口に出すことはできなかった。
「結奈さ、この曲のタイトル知ってる?」
土曜日のことを聞かなくちゃと思っているうちに、渡り廊下の窓に向かって手をついて先輩は目を瞑りながら上を指差した。
どうやら吹奏楽部の合奏のことを言っているようだった。
合奏の頭出しが合わなかったようで、スネアのリムショットから始まるイントロから始まった。
すぐにテンポの早い主題が始まり、キラキラと輝く天の川のようにグロッケンの音が響いて、印象的なメロディーが流れるように展開していく。
「あぁ、これはたなばたっていう曲ですよ」
「たなばた、か。吹奏楽部、毎年この時期この曲を合奏してるんだけど、俺、吹奏楽部に知り合いいなくてさ。ずっと気になってたんだ。ありがとう。この曲すげー好きなんだよね。結奈は演奏したことあるの?」
先輩は目を開いて私を見つめた。
あの、優しい目だった。
こんなに優しい眼差しなのに、私の心は鷲掴みにされたみたいで苦しくなる。
「はい、中学の時にやりました」
そんな私の気持ちを悟られまいと、かろうじて声を振り絞った。
「…ところで、先輩、私を探してたんですか?」
これ以上普通に話すのは無理だと思い、早く用件を聞いて終わらせようと思って私は話題を変えた。
「あー、そうそう。これ、渡そうと思って。遅くなっちゃったんだけど、はい、サンキューな」
カバンから取り出したのは、国立西洋美術館で私が貸したハンカチだった。
綺麗に畳まれて、外国製の包み紙が綺麗な飴が1つ添えてある。
「…ありがとうございます」
あの時の楽しかった思い出が蘇って辛くなってしまい、ハンカチと飴を受け取って足早にその場を去ろうとする。
「待って!結奈、これも渡したかったんだ。一緒に行こうよ」
振り返ると、哲司先輩は珍しく照れているのか視線を少し窓の方へ投げかけながら細長い紙を私に差し伸べていた。
紙は美術館のチケットのようで、日傘をさす女性の絵が描かれている。
「国立新美術館 大回顧展MONET」
(…あれ、これって。確かお母さんたちが行ったやつだ)
「これさ、カササギも展示されてるから。前売券もらったから行こうぜ。7月2日まで。俺7月2日の昼しか行けないんだけど、どう?」
「…7月2日って、月曜日ですよ?学校、いいんですか?」
「いい訳ないだろ、不良だな、結奈。課外授業だよ!」
そう言って、先輩はまた子供みたいに笑った。
やっぱり私は先輩のことが好きだ。
この笑顔に全て持っていかれてしまう。
学校をサボるなんて、ちょっと怖いけどこの日に決着をつけようと思って誘いを受けることにした。
「それじゃあ、朝は普通に登校して、2限が終わったら体調不良ってことで早退な。俺は良いけど、朝からサボると、連絡行って結奈の親が心配するだろ?」
(私のこと…考えてくれてるんだ)
「じゃあな、俺、しばらく部活行けないから。体調悪い演技、頑張れよ」
そう言うと先輩は走って去って行った。
私は綺麗な柄の包み紙を開いた。
飴玉を手に取って覗いてみると、窓の外では見慣れたはずの校庭が飴色に染まった雨で輝いている。
飴玉をそっと、口の中に含む。
優しく広がっていったのは、甘酸っぱいレモンの味だった。
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