第22話 Give your best
少し坂道になったその道を、2人は笑い合いながら歩いていた。
哲司先輩は土曜日だというのに制服を着ていて、2人はスケッチブックの入ったカバンを持って芹ヶ谷公園の方へ向かって歩いて行った。
私は急に手に力が入らなくなって、つい、細くて力を入れれば折れてしまいそうに細いスプーンを落としてしまい、店員さんが新しいものを持ってきてくれた。
「大丈夫?結奈?」
未怜が心配して声をかけてくれた。
「え…、今の…、哲司先輩と明莉先生だったよね?…どういうこと?」
未怜は見てはいけないものを見てしまった様に、口元に手を当てながらしばらく呆然としていた。
私は溢れ出す気持ちに耐えきれなくなって、涙があふれそうになった。
瞳からこぼれないように飲み込んだ涙は胸の傷に沁みてズキズキと痛くて、喉の奥や耳の付け根が段々と熱くなってくるのを感じる。
それでも、涙を流さないように何とかこらえて、少ししてから、自分の気持ちを悟られないように未怜の方をみて笑ってみせた。
「……そっか、結奈、哲司先輩のこと、…好きだったんだね」
必死の努力もむなしく、未怜は何もかも察したようで、どこまでも優しい声でそう言った。
私は少し黙ってから答える。
「……うん、そうみたい。私…こんな気持ちになったの初めてで、どうしていいか分からなくて」
少しでも気を緩めると涙が止まらなくなってしまいそうで、私は必死で気を引き締めていた。
流れこそしなかったが、涙越しに未怜の顔が滲んでいる。
急いでハンカチをカバンから取り出し目に当てた。
最悪なことに、哲司先輩が国立西洋美術館のミュージアムショップで買ってくれた睡蓮のハンカチだった。
今は思い出したくなんてないのに、あの時の笑顔が浮かんでまぶたの裏から消えない。
「…そっか、いつからだったの?」
いつから?
そういえばいつからなんだろう。
思い返せば、夕暮れの教室で本を読むあの横顔を見た時から、私の心は哲司先輩に惹かれていたのかもしれない。
それとも、あの絵を見てから?
恋に落ちた瞬間なんて、映画やドラマみたいに都合よく思い出せなくていつの間にか好きになっていた。
気がついたら、私の中で哲司先輩を想う気持ちが追いつかなくなっていた。
どんどん、どんどん大きくなる風船の様で、最終的に破裂してしまえばいいのに、想いは際限なく膨れ上がるばかりだった。
慢性的な病が進行するみたいに胸の中で膨らむ気持ちが、心臓を押しやって圧迫して潰れてしまいそうだった。
優しく見守る未怜を前に、気持ちを整理しながら、一つ一つ、正直な気持ちを吐き出した。
自分の気持ちを口にするのはとても苦手だったが、途切れ途切れ言葉にするたびに、少しずつ心が楽になっていくのを感じた。
この切なさ、儚さ、虚しさ、苦しさ、それとは反対の慕わしさ、暖かさ、嬉しさ、愛おしさを、それらを全てまとめて恋と呼ぶのかもしれない。
私がぽつりぽつりと話すその間、未怜は急かすことなく、ただじっと私を見つめて話を聞いてくれていた。
1人で悩まずに誰かに相談するということはこんなに大切なことなんだと、15歳にして初めて知った。
「あの2人を初めて見たのは、未怜と瑞季先輩と買い物に行った帰りの電車。教師と生徒だし、そのときは見間違えかと思ったけど、その後、部活の後、教室でデートの約束してたのをたまたま聞いちゃって、…また別の日に芹ヶ谷公園でたまたま哲司先輩と会った時も先生と待ち合わせしてるって言ってた」
「…そうだったんだ。私…全然知らなかったよ。先輩たちは知ってるのかな」
「どうなんだろう…。でも、教師と生徒だし、あまり人には言わない方がいいと思って」
「うん。確かにそうだね。色々と問題になりそうだし」
「ねぇ未怜、こんなこと私が言うのもあれなんだけど、このこと誰にも言わないでもらってもいいかな?」
未怜はゆっくりとうなずいた。
そもそも秘密にしておきたいなら学校の近くを2人で歩くことなんかしなければいいのにと、少し怒りに近い感情が湧いてきたが、きっとこれは嫉妬なんだろうなと思った。
入部当初、明莉先生の事があんなに好きだったのに、今はこんな気持ちを向けている自分が心底嫌になった。
「この間、明莉先生が文部科学大臣賞とったっていう話をした後から、結奈の様子が変だなって思ってたんだ。気がつかなくてごめんね」
「未怜は謝らないで。私の方こそごめんね。私、友達にこういうこと話していいのかどうか分からなくて。明莉先生が文部科学大臣賞とったって聞いて、あの2人本当にお似合いだなって思って。私なんかが入り込む余地ないなって思って。でも、それでも私が絵が上手くなれば何か変わるかもって。それで」
私はハンカチで口元を覆いながらそう言った。
黙っていたことで、未怜の気分を害したりしていないだろうか、今、私の関心はあの2人のことではなく、未怜との仲が壊れたりしないかどうかに収束していた。
「……私、恋とかしたことなくていいアドバイスはできないんだけど、確かに、相談して欲しかったっていうのはちょっと寂しい気持ちもあるけど…、大丈夫だよ結奈。何があっても、私は結奈の味方だから」
そう言って、未怜は私の左手を握った。その小さな手から伝わってくるのは、体温だけではなかった。
アドバイスなんていらなかった。
未怜がそこにいてくれるだけでよかった。
言葉がなくたって、人は人を癒すことができるのだと思った。
気が付けばパフェはアイスクリームが溶けてドロドロになっていた。
「そうだ、明日は日曜日だし、今日はうちに泊まっていかない?着替えなら私の服着ればいいよ!色々と話したいし!」
液体となったアイスクリームをスプーンですくいながら、未怜がそう提案した。
他人の家に泊まるのはなんとなく苦手だったが、私は未怜の気持ちが嬉しくて甘えることとした。
未怜の部屋には、今まで描いてきたのであろう油彩画やデッサンが所狭しに飾られていた。
そこはまるで未怜の個展の様で、おそらく子供の時に描いたのだろう絵から、小学校、中学校とどんどん上達していく過程が目に見えて分かる。
「散らかっててごめんねー、荷物、どっかその辺に置いていいよ!」
そう言いながら、個展の主は床に散らばった雑誌などをまとめて本棚にしまった。
失礼かなと思いながらも、キョロキョロと部屋の中を見回して、未怜の作品たちを眺めた。
美術部でも上手いとは思っていたが、未怜は子供の時から絵が上手かった。
私の最初のデッサンなど、中学生時代の未怜の作品に遠く及ばないレベルで少し落ち込んだりもしたが、何より友達の家に行くのが久しぶりで、私は何だか嬉しくて浮かれてしまっていた。
「…絵、いっぱい飾ってあるね」
展覧会の会場は6畳ほどの小さなマンションの一角だったが、そこには画家の人生の軌跡が展示されていた。
「うん、私やっぱり絵が好きなんだよね。進路、芸大を目指してみようと思ってる。ずっとずっと、絵を描いていけたらいいなって」
少し照れくさそうにしながら未怜は私に作品の説明をしてくれた。
幼稚園で初めて描いた絵。
中学の美術部で描いた初めてのデッサン。
初めての油彩画。
中学3年、最後のコンクールに描いた絵。
どれも、未怜の生きてきた証の様に輝いている。
「私も、未怜みたいになれたらいいな」
私が小声でつぶやくと、
「…結奈、絵を描いている時の真剣な顔、すごく素敵だよ」
未怜はそう微笑んだ。
窓の外には数日ぶりの夕日が出ていて、未怜の横顔は茜色に照らされてなんだか少し頬が赤い様に見えた。
夕食を終えて、お風呂も借りた。
未怜がお風呂に入っている間、私はやはり未怜の絵を眺めていた。
「もう、結奈、お世辞なんて言わなくてもいいのに!」
お風呂から上がりドライヤーで髪を乾かしながら、夕食での会話について未怜が上気した顔で言う。
「お世辞じゃないよ。私の本当の気持ち。未怜には感謝してるんだ」
実際、今日未怜がいなかったら私は立ち直れなかったと思う。
私は未怜の勉強机の椅子に腰を下ろした。
「未怜のお陰で、美術部にも入れたし、絵も好きになったし。楽しいことを沢山教えてもらったよ」
「えへへ、そう言われると照れるな。私も結奈と友達になれてよかったよ。最初はさ、結奈、近寄りがたい雰囲気出してたから、話しかけにくかったんだけど、猫のキーホルダー見て、あ、猫好きな子なんだ!って思って気がついたら声かけてた。猫好きに悪い人はいないって言うしね!」
「あはは、そうなの?私ね、何だか今まで深く友達と付き合うのが苦手で。私の心の弱いところを知られるのが怖くて。だから悩みとか相談することができなかったんだ。こんなんじゃダメだって自分でも思ってるんだけど、なかなか変われなくて」
髪を乾かし終わった未怜はベッドに座りながら頷いて聞いてくれている。
「だから、今日、未怜に私の気持ちとか考えとかを聞いてもらうことができて、本当に嬉しかったの。話すことができた自分にもちょっとびっくりなんだけどね。未怜のおかげかな」
「結奈、話してくれてありがとね。結奈は何だか強がってる風に感じる時が時々あったから、私心配してたんだ。でも、今日話してくれて嬉しかったよ。人ってさ、無理やり変わろうとしなくても、気がついたら変わってるものなんじゃないかな。今日、結奈が悩みを話してくれたみたいに。私は今の結奈のこと大好きだよ。きっとこれからもずっと。私も結奈のおかげで高校生活楽しいから、感謝してるよ!」
未怜は照れくさそうに、長く垂らした髪をいじりながら話していた。
「ありがとう。私も、未怜大好き」
私たちは、未怜の卒業アルバムなどを見ながら、夜遅くまで色々なことを話した。
今日買ったサウンドトラックを聞きたいと未怜が言うので、ビニールを破いてCDコンポに入れた。
「あれ?これ、結奈がたまに口ずさんでる曲じゃん!」
「え、私、口ずさんでる?本当?めちゃくちゃ恥ずかしい」
「いやいやいつもうまいなぁ、さすが元吹部って思ってたんだよ。へー、この曲だったんだ、いい曲だね」
哲司先輩も好きなその曲。
いつの間にか大好きになっていた。
その後、私たちは未怜のベッドで一緒に眠った。
シングルベットは2人で寝るには小さかったけど、体温だけじゃない、未怜の暖かさを近くで感じられて何だか心地よかった。
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