第20話 True Colors
5月最終週の月曜日、私は油彩セットを持って学校に向かった。
もうあと数日で6月だというのに、今年は梅雨入りが遅れている様子で、いつまでも暑い日が続いている。
今日は席替えがあって未怜と席が離れてしまったことが残念だったが、前から5番目の窓際の席になった。
(哲司先輩と同じ席だ。向こうももう席替えしたかな)
窓から見える校庭の桜はすっかり葉桜になって、5月の風に吹かれて揺れていた。
放課後、未怜と一緒に美術室へ向かった。
吹奏楽部も部活動が始まっているようで、各々の楽器が自由に音出しをしているのが聞こえてくる。
3年A組の教室を通りがけに横目で覗くと、哲司先輩は見当たらなかった。
美術室に入ると、瑞季先輩と祐一先輩がすでに来ていた。
「2人ともテストお疲れ!どうだった?」
夏服姿の瑞季先輩が手を振って笑いながら尋ねる。
「私数学やばいですよー、赤点は回避したと思いますけど。でも地理は過去問のおかげでバッチリです!」
未怜も笑いながら答えた。
「良かったな。哲司さんにお礼言っとけよ。過去問取っておいてくれたのあの人だから」
祐一先輩も夏服姿だった。
(そうだったんだ。2年分しかなかったのはそういうことか。哲司先輩、後輩思いで優しいんだな)
なんやかやと話をしている間に、祐一先輩が私の油彩セットに気がついた。
「お、結奈油彩セット買ったの?一緒に頑張ろうぜ!」
祐一先輩がそう言うとすぐに、薄い水色のカーディガンを羽織った明莉先生が美術室に入ってきた。
「あ、明莉先生、こんにちは!」
未怜が元気よく挨拶をした。
気がつけば私たちは斎藤先生ではなく明莉先生と呼ぶ様になっていた。
「みんな中間試験お疲れ様!どうだった?」
未怜がふざけながら答える。
「まぁ赤点じゃなさそうなら良かったわ」
明莉先生も笑いながら答えた。
「そうしたら、早速作業に入りましょう!浅井さん、今日から油彩ね!」
明莉先生は私を見てにっこりと笑った。
油彩セットを購入した旨を伝えると、手を胸の前で合わせて心の底から喜んでくれた。
「うん、やっぱり自分のものを持っておいた方がいいわよ。早く手に馴染むといいわね」
嬉しそうに笑いながら、それぞれの使い方を教えてくれた。
「早速描いてみましょうか。そうしたら、これを描きましょう」
明莉先生はおもむろにカバンからりんごを取り出して、りんごを机の上に置くのかと思いきや私に手渡した。
「浅井さん、今日はりんごのどの面を書くのか自分で決めてみるといいわ。決まったら教えてね」
明莉先生はその大きな目でウインクをして、未怜の方へ歩いて行った。
手渡されたりんごは程よく赤く、顔に近づけると甘い香りがする。
(まずは観察…)
りんごは完全な円ではなく、様々に歪んだ形をしていた。
色合いも皮の質感もそのどれもが場所によって微妙な違いを持ってりんごを構成している。
その中で、私はいちばんりんごらしく見える面を選んで描くことに決めた。
「うん、決まった?いいわね。そうしたら、まずはりんごの輪郭を捉えて、それから少しずつ基本となる構成色を塗ってみましょう。油彩はね、やり直しが効くからまずは自分の思った通りにやるといいわよ」
イーゼルに載せたスケッチブックにりんごの輪郭を写していく。
デッサンだけでモノクロームの世界だったのが、初めて私のスケッチブックに色が足された。
それだけでかなり嬉しかったのだが、水彩のイメージで描いているのかなかなかうまく筆が運ばない。
「メディウムをもう少し加えると伸びが良くなるわよ」
明莉先生は私の筆使いを見ながら的確にアドバイスをくれた。
前に明莉先生が描いた絵を見たことがあったが、やはりすごく上手だったのを思い出した。
最終的に私の描いたりんごは、かなり不格好なものとなってしまって、デッサンはあれだけ上達したのにとても悔しかった。
「浅井さん、よく描けてるわよ。想像でりんごを描くんじゃなくて、ちゃんと向き合ったわね。最初はうまく描けなくても、それでいいのよ。技術なんて、後からついてくるわ」
みんなが一息入れたところで雑談となったので、気になっていたことを思いきってぶつけてみることにした。
「明莉先生って、うちの高校出身なんですか?」
「そうよ。卒業したのはちょうど6年前ね。でもどうして?」
「実はこの間図書室で画集を見ていたら、貸出カードに先生の名前があったのでもしかして本人かな?って思いまして」
やっぱり本人だったんだ!と私は何だか嬉しくなった。
「あー、当時は美術部に資料がほとんどなかったのよ。だから良く図書室で借りて読んだりしたわね。今は準備室にだいぶ資料が揃ってるから、持ち出すときはノートに名前を書いてくれれば、好きに見て大丈夫よ」
コーヒーをすすりながら明莉先生は答える。
「え?明莉先生うちの卒業生なんですか?ていうかうちの美術部だったんですか。じゃあ大先輩ですね!」
隣で聞いていた未怜も興奮気味だった。
「大先輩って年じゃないわよ、ただの先輩!」
笑いながら未怜を嗜める姿に、私は大人の余裕を感じた。
「あれ、2人とも知らなかったの?だって先生は文部科学大臣賞取ったのよ」
瑞季先輩がそう言うと明莉先生は照れながら答えた。
「そう、3年生の時にね。もうだいぶ前ねぇ、何だか懐かしい。この教室も当時から全然変わってないわよ」
そう話しながら、視線は窓の外に向けてどこか遠くを見ているようだった。
「えー!知らなかったです!すごい!!先生の絵見てみたいです!」
未怜は興奮がおさまらないようで、前のめりになって明莉先生に詰め寄る。
「家にあって、ここには置いてないのよ、機会があれば持ってくるわ」
再び未怜を嗜めながら、斎藤先生は微笑んでまたコーヒーを口に運んだ。
その後はみんなまた作業に戻り、やがて下校を知らせるベルが鳴った。
「明莉先生がうちの卒業生だったなんてびっくりだよね!しかも部活の先輩で文部科学大臣賞受賞者だったなんて!」
「うん、うまいなぁって思ってたけど、私もびっくりしたよ」
興奮冷めやまぬ未怜と対照的に、廊下を歩く私の足取りは重くなっていた。
(明莉先生が文部科学大臣賞受賞者だなんて…。哲司先輩が惹かれるのも当然だ)
隣り合った2つの眩しい光がまるで1つに見えるように、哲司先輩と明莉先生の間には少しの空間もないように思えた。
表情にはなるべく出さないようにしていたが、何故かさっきから哲司先輩のことが頭から離れなかった。
旧校舎の廊下はいつもより薄暗くて、今日は早く新校舎に入りたくて仕方がなかった。
自転車を押しながら並んで歩く未怜との会話はどこか上の空で、何を話したのかあまり覚えていなかった。
電車の中ではいつも音楽を聴くのに、イヤホンも付けずに線路のつなぎ目が響かせる規則的な音が空っぽの私の胸に響いて鼓膜を震わせた。
何だか体中の血液が抜けていくような、力が入らなくなっていく感覚が私の平衡感覚を狂わせて、入り口横の手すりにつかまっていないと何かの拍子に転んでしまいそうだった。
無意識に長い溜息が電車の窓を曇らせると、流れる街灯がハロとなって次々と視界から消えていった。
家に着くと、トロが変わらず出迎えてくれた。
心なしか元気がないように思えたのは私の気持ちの問題なのかもしれない。
顎の下を撫でてあげるといつもと変わらない声でゴロゴロと喉を鳴らしてくれた。
カバンを一度置いて、トロを抱き上げて抱きしめると、普段はしばらくすると嫌がるのに今日は私を慰めてくれているのか喉を鳴らしたままじっとしてくれている。
目を瞑るとトロの匂いが私を包んでくれているのに気がついた。
(うん…、私は大丈夫。せっかく油彩セットも買ってもらったんだし、頑張らないと)
深く長く深呼吸をして、一度上を向いてから精一杯明るい顔を作り、ただいまとリビングの扉を開けて母に向かって挨拶をした。
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