第19話 To Love Somebody

 翌朝、いつも通り目覚ましより先に目が覚めた。

 隣で寝ているトロはまだ夢の中のようで、私が起きても耳をピクッと動かして態勢を変えただけで、自分のクッションの上からは動こうとしない。

 


 だいたい1週間ぶりの早朝散歩の間、私は昨日の本について考えていた。

 哲学は私にはまだ早かった様で、頭の中を思考が駆け巡り考えはまとまらない。

 時間の流れには逆らえないし、私は現在高校生で学校もあれば試験もある。

 それが私の人生に何の意味があるのかは分からないが、結局は今を生きていくしかなかった。

 それでも、「何かやらなくては」という気持ちが昨日からどんどん大きくなってきた。


(人生…か、哲司先輩はあの本を読んでどんな風に感じたんだろう)



 本にあてられたのか、この土日は何だか色々と考え込んでしまってどこにも出かける気が起こらなかった。

 自宅でデッサンの練習は続けていたが、集中力があまり続かずにいい作品が書けなかった。

 トロは日中よく眠っている。

 窓辺で外の景色をじっと見たり、たまに私の足元にすり寄ってきて撫でて欲しいとせがんだり。

 猫は気ままでいいだなんて月並みなことを思いながら、家にある花瓶やコップをデッサンしたりした。



 日曜日。

 父も母も朝から出かけていて、私は1日中、1人と1匹で家の中で過ごした。

 トロが寝ている様子をデッサンしていると、今日も毛のつやがあまりよくなくパサついている様子だったので、私は念入りにブラッシングをしながら、気がつけばトロに話しかけていた。


「トロは好きな人いるかな?」


 そもそもトロは家から外に出ないので、自分以外に猫というものを知らないのだ。トロは私のことなどお構いなしに手足を舐めていたが、


「私はトロが大好きだよ。でもね…、私…好きな人ができたみたい」


 猫に恋の悩みを打ち明けたところで何も解決しないのは分かっていたが、私はこういった悩みを他人に打ち明けられるほど心が強くなかった。

 トロは私のことなどそのかわいいひげの先にもかけず、相変わらずお手入れを続けていた。


 夜になり、父と母が帰ってきた。

 おかえりと玄関まで迎えにいくと、二人は何だかニコニコしている。


「ただいまー。結奈、これ、お土産!」


 母から手渡されたのは赤いリボンでラッピングされた細長い箱で、手に取るとずしっと重い。


「ありがとう、何?」


 若干の期待を隠しながらリビングへと戻った。


「いいから、開けてみて」


 母が嬉しそうに笑っている向こうで、父は冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぎながら微笑んでいた。


 赤いリボンを解き、ラッピングのセロテープをそっと剥がしていく。

 すると、中の箱には絵の具の絵が描かれていて、蓋を開けると油彩のセットだった。

 一気に顔に血が上っていくのが分かり、急いで二人の方に顔を向けた。


「今度油彩をやるって言ってたでしょ。お父さんとお母さん、今日は美術館に行ってきたのよ。国立新美術館。結奈が美術部に入ったし、私たちも絵に触れてみようと思ってね。それに、モネの展覧会だったから、私たちも馴染みある名前だったし」


「モネ!?展覧会やってたの?どうだった?何の絵があった?」


 感謝の言葉を伝えるより先に、展覧会について聞いてしまった。


「沢山あったわよ。有名な睡蓮とか。展示目録もらってきたから、後で見てみたら?」


 そう言って、母はカバンから作品名がずらっと並んだ目録を手渡した。

 それを手に受け取ってからようやく感謝の言葉を伝える。


「ありがとう。私、せっかく中学でホルンを買ってもらったのに、高校では吹奏楽部に入らなくて謝らなくちゃって思ってたの。ごめんね」


 目録は学校で配られるプリントよりもはるかに良質で、それでもわずか数gもないであろうその文字だけの紙がなぜだか重く感じた。


「結奈、謝る必要なんかないよ。吹奏楽部に入らなくたって、ホルンはいつでも吹けるだろう。お父さんもお母さんも、中学時代、最後の方結奈が辛そうに楽器を吹いているのをみてすごく心配だったんだよ。だから、ここ1ヶ月の結奈をみて、美術部に入ってから目が活き活きとしてるのをみて、安心したところだったんだ。毎日を楽しく過ごしているのが分かってね。たった一度の人生なんだから、結奈のやりたいことをやりなさい」


 そう言って、父はミュージアムショップで買った睡蓮のマグネットを取り出して冷蔵庫に貼った。


「お父さんもお母さんも美術はよくわからないけど、展覧会、すごく良かったよ。油彩セット、毎日使うものだから、早く手に馴染むといいな。絵が描けたら見させてよ」


 ここのところあんまり話をしていなかったのに、父はどうしてこんなに私に優しいのだろう。

 ふと視線を落とすと、箱の中のキラキラした絵の具チューブが少し滲んでいるように見えた。


「お父さん、店員さんに沢山質問してたのよ。娘が油彩を始めるんです!って。ホルンの時もお父さん、散々調べてから行ったのに、結局3つもお店回ったんだから」


 耳元でこそこそと話す母の声はきっと父にも届いていたに違いないが、父は照れくさいのか反応せずに冷蔵庫のマグネットをじっと見ていた。

 父がホルンを買うのにそんなに一生懸命悩んでくれていたなんて初耳だった。


「2人とも本当にありがとう。大切に使うね。まだ下手くそだけど、絵、できたら見にきてね」


 私は精一杯の感謝の気持ちを込めて、そう声に出した。


「もちろん。楽しみにしてるわよ。モネ展、結奈も行ってきたら?すごく良かったわよ。ほら、夕飯、お弁当買ってきたから一緒に食べよう」


 そう言って母はお弁当をテーブルの上に並べた。

 私は目録にざっと目を通した。

 目がくらむほど作品が並んでいたが、その中にはカササギの名もあった。


 3人でお弁当を食べながら、父と母は今日のデートの思い出話に花を咲かせていた。

 2人はいつも仲が良くて、喧嘩をしているところも見たことがない。

 それでも、高校生にもなると父と母も人間だということがだんだんと分かってきて、私には見せないだけできっと色々と苦労しているに違いないと思うようになってきた。

 この間母が父との思い出話をするのを聞いて、私は何だか1人の人間として母と向き合えた気がして嬉しかった。


「お父さん、太宰治が好きなの?お母さんが言ってたよ」


「ん?あぁ昔全部読んだよ。結奈も読んでみるといいよ。お父さんの部屋にあるから、いつでも持っていっていいから。お母さんも好きだったよな」


「私はお父さんがしつこく勧めるから読んだのよ」


 2人は笑い合っていた。

 何だか照れ臭くて、早々にお弁当を食べ終えた私は油彩セットを手にとり、改めてお礼を言って自分の部屋に戻った。


 鏡の前で私は2人の会話を思い出した。

 好きな人が好きなものを、好きな人に好きなものを。

 共有できるのはなんだか素敵だなと思った。

 私は自分の部屋のテレビの上に置いたままになっていたDVDのケースを開いてプレイヤーにセットした。

 ベッドの上に座って、油彩セットを膝の上に乗せて再生ボタンを押す。

 映画が始まり、少ししてあの曲が流れてきた。


「泣き顔の女の子は誰?」

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