第18話 人生の短さについて
旧校舎の雰囲気と相容れない雰囲気を持つその四角い箱は、私のおぼろげな記憶の中のタイトルを1秒とかからずに探し当てた。
その本は図書室の棚の中で古典とも言える本の並びの中にあった。
青い背表紙の、小さな文庫本。
「人生の短さについて セネカ著」
(うん、この本だった。人生の短さについて、か)
私の身長よりも少し高い位置にあったその本を背伸びして取り、再び自分の席へと戻った。
表紙には美術準備室にある石膏像のような写真が載っている。
どうやら古代ローマ時代の哲学者の書いた本のようだった。
真っ先に裏表紙の裏の貸出カードを調べる。
「吉井哲司」
あった。
哲司先輩だ。
あまり人気のない本なのか、このカードに書かれているのは哲司先輩の名前だけだった。
貸出日時は1年前だった。
教室で読んでいたのはついこの間なので、図書室で借りたわけではなかったようだ。
文庫本サイズのその本は意外にも薄く、文体は少し難解ながらもなんとか私でも理解できそうだった。
(よし、読んでみよう)
そう思って表紙をめくろうとした時、下校のベルが鳴ってしまった。
気がつけば図書室に残っているのは図書係を除けば私一人で、いつの間にか夕焼けの色はかなり赤くなっていて、カーテンの隙間から漏れる光が強いオレンジ色の線になって図書室の壁を照らしている。
私は急いで画集を元の棚に戻した。
さっきの本は借りて時間をかけて読んでみることにした。
受付に本を持っていき、貸出カードに名前を書く。
哲司先輩の名前の下にできる限り丁寧に「浅井結奈」と記した。
なんだか緊張して、ペンを持つ手が少し震えてしまう。
私の思いとは関係なく貸出作業はあっけなく終わり、私はカバンに本を大切にしまって図書室を後にした。
何となく、電車の中では本を開かないまま家に帰った。
そういえばお昼を食べていなかったのですごくお腹が空いている。
家に帰るとトロが駆け寄って迎えてくれた。
心なしか毛のつやが悪くパサついている気がしたので、しっかりと手櫛で整えてあげた。
「後でブラッシングもしようね」
喉をゴロゴロ鳴らすトロを抱きあげながら、私の部屋に入り部屋着に着替えてリビングに降りた。
キッチンでは母が夕飯の支度をしている。
「あら、遅かったわね。試験、お疲れ様」
母は中学に入ってから、私に試験の出来を聞いたことはなかった。
自分で言うのも憚れるが、私は成績がいい方だったので点数をそれほど心配していなかったのもあるかもしれないが、試験の出来を聞かれるのは誰だっていい気はしないだろうから、母なりの優しさなのかもしれない。
「うん、図書室で本を読んでたら遅くなっちゃった。お腹空いたー、夕ご飯何?」
「エビフライよ。今日で試験終わりでしょ」
分かってはいたが、やはり好物を食べるのは嬉しいものだ。
特に、お昼を抜いてお腹が空いていたのでこの日のエビフライは特別おいしかった。
今夜は父は遅くなるらしく、母と二人でケーキも食べた。
「お母さんは本とか結構読むの?」
ふと気になって聞いてみる。
「そうねー、好きな本は読むわね」
「そういえば、この間、綺麗なものをみると眼が綺麗になるって話してたよね?あれ、何の小説なの?」
「太宰治よ。女生徒っていう小説」
「太宰治か…、走れメロスとか、人間失格の?お母さん好きなの?」
「あぁ、好きよ。と言うより、お父さんが好きだったのよ。まだ結婚する前、大学生くらいの時に、お父さんがハマっててね。太宰の作品は全部読んだらしいわよ。そのうちのおすすめの話を教えてくれて、それで私も読んだのよ」
そう話す母の顔はどこか遠くを見ているようで、きっと思い出の中に浸っているのだろうと思った。
「へー、それは仲が良くて良かったね」
私はニヤニヤしながらからかうような口調で話した。
当たり前のことだが、母にもそんな時代があったのだと思うと何だか不思議な気がした。
生まれた時から母は母でしかなかったのだ。
同時に、今私の置かれている状況と何だか似たような話だなと思って、少しだけ心臓が強く深く脈打ったように感じた。
夕飯とケーキを食べ終わって、食器を洗うのを手伝いすぐにお風呂に入ることにした。
試験明けの疲れた体が湯船の中で癒されていくのを感じる。
湧き上がる蒸気をよく見ると、細かい粒がものすごく沢山集まっていることに気がついて、不規則にゆらめく動きをじっと見ていたら少しのぼせそうになってしまって急いでお風呂を上がった。
パジャマに着替えてから部屋に戻るとトロが足元で顔をこすりつけてくるので、ブラッシングをしてあげると喉を鳴らして寝転んだ。
ひとしきりブラッシングをすると満足そうに手足を舐め始めたので、私はカバンから例の本を取り出して、机に座って読み始めた。
(人生の短さ…か。哲司先輩、どうしてこんな本を読んでいるんだろう)
15年生きてきたが、人生について真剣に考える機会など私にはなかった。
生き物だしいつかは死んでしまうことが分かっていても、その瞬間は今ではなく、いつかの未来だとしか思っていなかった。
小さい頃は死について考えることがとても怖くて、意図的に考えないようにしていたように思える。
それでも夜中にベッドの中で死を考え出すと、私のこの体がどんどん暗闇に吸い込まれていくようで、たまらなく不安になってしまい母と一緒に寝たこともあった。
母の匂いの中、暖かい布団に包まれると不思議と恐怖感はなくなりいつの間にか朝を迎えていたのだった。
人生は短い。
けれど、有意義に使えば十分に長い。
人生が短いのではなく我々は無駄なことで人生を浪費している。
人生を短くしているのは我々自身なのだ。
乱暴にまとめるとこういった内容の話だった。
どこかで聞いたような言葉だが、この言葉を2000年以上前の古代ローマ人が考えそれが今に伝わっているというのが衝撃だった。
現代も過去も、人の本質は何も変わっていないのかもしれない。
私は自分のたった15年の人生を少し振り返ってみた。
保育園、トロとの出会い、赤いランドセル、初めての制服、ホルン、全国大会、そして美術部。
気がつけば15年も生きてきていて、私はあとどれくらい生きるのだろうか。
生きている間にこれからどんな経験をするだろうか。
私が死ぬ時、どんな気分で死ぬだろうか。
ベッドに入ってそんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか眠りについてしまっていた。
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