第17話 放課後の図書室

 連休はあっという間に終わり、学校で未怜と会うと未怜はとても悔しがっていた。


「もー!みんなで出かけるなら先に言っておいてくれれば良かったのにー!私も超行きたかったー!」


 パズルが解けなくて駄々をこねる子供の様に未怜は口を尖らせた。


「本当にね、私もびっくりしちゃったよ。うちの部活の恒例行事にするんだって。来年は瑞季先輩達と私たち2人で盛り上げていかないとね」


「そうだね、もー絶対楽しい会にしてやるから!」


 未怜は機嫌が直ったのかいつもの笑顔に戻った。

 この切り替えの早さも、美玲の好きなところの一つだ。


「それで?どうだった?楽しかった?」


「うん、国立西洋美術館の常設展を見たんだけど、モネの絵も飾ってあってすごく良かったよ。高校生、無料なんだって!すごくない!?」


「常設展かー、そういえば行ったことないかも。今度行ってみようかな」


「そのあとは動物園行って、瑞季先輩と祐一先輩の縁結びするとか行って2人きりにして、私は哲司先輩と旧岩崎邸っていうところ行ったんだ。あの2人、どうだったのかなぁ、帰りの電車であった時は特に変わりなかったけど」


 そう、特に変わった様子はなかったのだ。

 でも、2人の顔は幸せそうに見えたので、告白をしなかったとしてもお互い素敵な時間が過ごせたのだろう。


「何?あの2人そういう感じなんだー、いいね!てかさ、それって結奈と哲司先輩も2人きりじゃん!どうだった?」


 未怜がニヤニヤとからかうように笑うので、私は照れてしまった。


「うん、男の人と2人で出かけるなんて初めてだったから、緊張したけど、何か、楽しかった」


 拙いながらも思っていることを素直に伝えた。


「そうか、結奈、良かったね。最初は美術部に無理やり誘っちゃったかな、なんて思ってたんだけど、結奈が楽しそうにしてるのを見ると安心するよ。私の選択は間違いじゃなかった!って!」


 途中珍しく真面目な顔になりながら未怜は優しい声で笑うので、私も一緒になって笑った。

 本当に、未怜には感謝してもしきれないほどだ。



 連休明けの部活は1週間ほどしかなく、瑞季先輩と祐一先輩のその後が気になったがそれを聞く勇気は私にはなかった。

 哲司先輩は相変わらずほとんど部活に来ずに、私たちが部室に向かう時、時々教室で本を読んでいたり友達と談笑しているのを見かけた。

 本当に時々美術室に来ては、画集を眺めたりみんなと雑談をしたりしていた。



 それから、中間試験前は部活が休止となり、あっという間に試験本番がやってきた。

 先輩達からもらった過去問のおかげで、無事に試験を乗り切ることができた。

 試験中も部活は休止だったので、ようやく油彩を始めることができると思うと、試験終了後の高揚感も手伝って早く部室に行きたくてしょうがなかった。

 今日は金曜日だから、いよいよ月曜日から部活再開になる。


 私は高揚感を持て余してしまい、家に帰るのももったいないと感じていたし何だかお腹も空かないし、部室には鍵がかかっていると思ったのでまだ行ったことのない旧校舎の図書館に行ってみることとした。


(美術の画集とかもあるといいな)


 図書館は旧校舎2階の美術室とは反対側の廊下の突き当たりにある。

 試験後でまだガヤガヤしている新校舎内を離れて渡り廊下を渡って旧校舎に入った。

 入部当初、上履きの色で人目で1年と分かる私は旧校舎に入るのが何となく気が引けていたが、今ではもうあまり気にならなくなっていた。

 というより、音楽室も旧校舎にあるので吹奏楽部の1年も沢山見かけるし、上級生達も思ったほど他の人を気にしている様子はなかったのだ。

 3年生の男子生徒達がはしゃぐ廊下を抜けて、図書室へと足を踏み入れる。


 図書室のドアを開けるとほぼ人はおらず、図書委員と思しき女子生徒が貸し出し口に座ってカウンターで本を読んでいた。

 カウンターにはパソコンが2台置かれており、「本の検索はこちらで!」と手書きのポップが添えてある。

 初めて入る図書室で勝手が分からなかったが部屋の中は本の香りに満ちていて、学校の教室はその使途に応じて様々に表情を変えるのだなと実感した。

 相変わらず歩くと軋む旧校舎の床は、図書室という性質上ふさわしくないように思えたが、まばらにいる生徒達の誰もが私の足音など気にも留めない様子だった。

 私は校庭を見下ろせる窓際の席にカバンを置いた。

 校庭からは下校している生徒達の開放感に溢れた声が響いてくる。


(美術書はどこかな)


 思っていたよりも広い図書室は、立ち並ぶ本棚の数がとても多く美術書のコーナーを探すのに少し手間取った。

 本棚の側面にはカテゴリーが記されていて、1つずつ1つずつ、ゆっくりと確認しながら図書室の奥へと誘われていく。


(美術書、美術書)


 美術書のコーナーは一番奥の角にあった。

 様々な画家の画集に加えて、絵の描き方、デッサンの基本練習、美術史など様々な本も一緒に置かれていた。


(あ、TASCHEN。哲司先輩が読んでたやつだ)


 ドイツの出版社らしいその会社の本は、充実の品揃えだった。


(モネ、マネ…この2人名前が紛らわしいなぁ)


 そんなことを思いながら、背表紙のタイトルを流し読みしていく。

 モネ、マネ、ピカソ、ドガ、ピカソ、ルノアール、ムンク、フェルメール、ダリ。

 沢山の画集が並んでいて、どれから読もうか悩んでしまった。

 それでも、やはりこの間実物を見たばかりのモネの画集を選んで手にとる。

 本棚が席から離れていたので、ついでにムンクも持っていってしまうことにした。


(人少ないし、良いよね)


 本2冊分重くなった体重で床を軋ませながら私は席に戻った。

 あまり開かれない本らしくページは少しくっついてしまっていて、サラサラと捲って流し見することはできなかったが、それが逆に次の絵への期待感を膨らませていく。

 同じ画家でも年代によって作風に違いがあったり、同じモチーフを描いた連作もあったりと、気がつけば私は没頭して眺めていた。

 ページを捲るたびに目に飛び込んでくる様々な作品は、私に試験勉強の疲れを忘れさせた。

 薄いカーテンを通した柔らかな午後の日差しは少し眠気を誘ったが、目の前に広がる夢のような世界が私に眠ることを許さなかった。


(あ、睡蓮だ。睡蓮って、こんなに作品があるんだ。お気に入りのモチーフだったんだな)


 国立西洋美術館で見たのがついこの間のように思い起こされる。

 もう3週間も前のことだったが、あの時感じた圧倒的な存在感、繊細な筆の運び、透き通るような色彩、肌寒さなど、今でも鮮明に思い出すことができた。

 改札での不安感も、先輩と合流できた時の安心感も、木陰での昼食後の満腹感も、不忍の池でも緊張感も、歩き疲れた倦怠感も、哲司先輩と並んで歩く幸福感も、同時に感じた斎藤先生への少しの罪悪感もが全て一挙に押し寄せてくる。

 心の安寧は凪のような精神状態が導くもので、常々そうありたいと思っていたのに、美術部入部以降の私の心は常に揺れ動いていた。

 寄せては返し繰り返す波のように、かき乱しては去っていく、この気持ちに何と名前を付けたら良いのか分からないが、確実に着実に、私の心の大部分を占めるようになっていた。


 画集を最後まで読み終わると貸出カードが入っていた。

 本の検索はパソコンできるのに、貸し出しはカードで管理しているアナログなところが旧校舎らしいなと一人で小さく笑いをこぼす。

 何の気なしに貸出カードを取り出して眺めてみると、年季の入った、少し黄色がかったカードには沢山の名前が並んでいる。


(斎藤明莉?あれ?斎藤先生ってうちの高校出身だったのかな?同姓同名?今度聞いてみよう)


 よく考えたら私は斎藤先生のことを何も知らなかった。

 正確な年齢も分からなければ、出身校、進路、趣味、恋人の有無など。

 他人のプライベートに興味を持つのは何となく恥ずかしいことのように感じていたので、私は友達にもあまり沢山質問をしたりすることもできなかった。

 でも、瑞季先輩と祐一先輩のことが気になるように、仲良くしたい人のことをもっと知りたいと思うのは恥ずかしいことなのだろうか。


 最近、今までの私が思っていたこと、考えていたことが少しずつ崩れてきているように感じる。

 私は「私」という人間をいつの間にか築き上げてしまっていて、その塀の中からしか世界を見ていなかったように思えた。

 高校に入学して、未怜と出会って、美術部に入って、斎藤先生や先輩達と出会って、美術館にも行って、それらの経験が私の塀を外から少しずつ、少しずつ壊してくれているのに、塀がなくなってもその中で私がいつまでも閉じこもっていたのでは何も変われない気がした。


(恋人…か。哲司先輩と付き合ってるのかな?)


 最近、無意識に哲司先輩のことを考えることが多くなってきた。

 特に、上野に行った後からはあの時のことを思い出しては、胸が高鳴り、締め付けられ、苦しくなることもあった。

 鼓膜から聞こえているのか、体の中から聞こえているのかは分からないが、心臓がとても大きく早く脈打っているのを確かに感じる。

 私は今まで15年の人生の中で恋というものをしたことがなかった。

 小学校では誰と誰が両想いとか、中学では誰と誰が付き合っているとか、そんな話はいくらでもあったが、私がその中心となることはなかった。

 恋なんて、大人になれば自然とするもので、今はその時期ではないと勝手に思い込んでいたのだ。

 生まれたばかりのこの感情が恋なのだとすれば、私の初恋は終わったも同然だ。

 哲司先輩にはきっと斎藤先生がいる。

 年の差はあっても、来年には哲司先輩は高校を卒業するし、美術のセンスもあって趣味も合うお似合いの恋人同士に思えた。


(短い…初恋だったな)


 そんな風に諦められればどんなに楽だろうか。

 恋人がいて私には手が届かないと頭では分かっていても、心臓の高鳴りが止まらない。

 ドラマや映画、漫画では恋をすることは素敵なことのようだったが、初めから成就しない恋というのはただ苦しいだけだった。

 哲司先輩のことを考えないようにすればするほど、絵と向き合うあの真剣な顔が、たまに優しく微笑みかけるあの笑顔が、上野駅の改札での荒くなった息遣いと肩に置かれた熱い手が、夕方の教室で本を読む横顔が胸を満たして締め付ける。

 締め付けるというよりは、私のこの薄い胸の奥から果てし無く膨張するという方が正しいかもしれない。


 さっきまで画集を読んでいた時の気分はいつの間にか消え去ってしまっていた。

 もう一度モネの睡蓮を見てみても、国立西洋美術館で見た時のような感情は少しも浮かんでこなかった。


(心の調律、か。哲司先輩が言ってたことってこういうことだったのかな)


 気がつけば日はだいぶ傾いてきていて、さっきまで白く柔らかかったカーテン越しの光は、ほおずきみたいな薄いオレンジ色となって図書室に差し込んでいる。

 急に、美術部入部の日、哲司先輩が教室で読んでいた本が気になり始めた。


(一体どんな本を読んでるんだろう。何ていう本だっけ、確か…)


 趣味や特技、友達とどんな話をしているのか、休みの日は何をしているのか、好きな食べ物、思想や哲学。

 好きな人のことを知りたい。

 深く知りたい。

 それっていけないこと?

 私はそんな疑問が頭を過ることもなく、受付横のパソコンで慣れないキーボードを使って検索をしてみた。


「人生の短さについて」

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