第16話 旧岩崎邸

 不忍の池に到着し、私たちは弁天堂の近くの屋台でソフトクリームを買って一休みした。

 夏場ではないにしても、じりじりと照らす太陽のもと歩き疲れた体に甘さが染み渡っていく。

 木陰に入り涼みながら、少し足を休ませる。

 歩いているうちは気にならなかったのに、ソフトクリームを半分も食べたところで、何だか急に2人きりということを意識してしまい恥ずかしくなってきてしまった。

 遠くの池からボートに乗った子供たちの笑い声が風に乗って響いてきている。


(どうしよう、2人きりだ。本当にデートみたい。何話そう?)


 意識し出すと止まらない。


「そういえば、先輩の行きたいところって、どこに向かってるんですか?」


 必死で頭を働かせて考え抜いた割には間の抜けた普通の質問だった。


「あぁ、知りたい?」


 今日の哲司先輩はどうも少しいじわるだ。


「内緒。それ食べ終わったら行こう」


 私が返事に困っていると、子供のように笑った。



 不忍の池を抜けて、ビルの間を少し歩くと右側に長い塀が続いている。

 その中には木が沢山生えていてまるで森の様で、少し歩いていくと入口があった。


「ここ、何なんですか?」


「旧岩崎邸って言って、明治時代の洋館。みどりの日は無料なんだよ。俺雰囲気が結構好きでたまに来るんだけどさ、結奈も好きそうかなって思って」


「洋館、ですか。何だか素敵ですね。行きたいです!」


 洋館に入ることなど滅多にないので、私は歩き疲れた足のことも忘れて一気にテンションが上がった。

 入口から木々に囲まれた坂を少し登っていくと、外国映画に出てきそうな洋館が建っていた。

 アイボリー色の外壁は陽の光を浴びて白く輝いていて、よく見るといたるところに細かい装飾が施されている。


 中に入るとひんやりと空気が引き締まる様子で、明治時代に建てられた建物がまだ残っていることに感動を覚えた。

 床には絨毯が敷いてあったが、その下の床材には歴史を感じさせる木が敷いてあり、歩くたびに少し軋む音がするのはどこか旧校舎の廊下を思い起こさせる。


「先輩、素敵な場所ですね。こんな家に住めたらなぁ」


 階段ホールで2階から続く階段を見た時には、今にも西洋の舞踏会でも開かれそうな感じで日本にいることを忘れさせた。

 3つ並んだ窓から差し込む光はどこか幻想的で、それが柱から見え隠れして魔法をかける様にホールを照らしている。

 2階のベランダに出ると、荘厳な建物内とは違って少し涼しくなった空気が風になって私の髪をなびかせて、少し緊張の糸がほぐれた。


「こんな場所があったんですね!連れてきてくれてありがとうございます!」


 私は非日常を味わって、どこか浮かれていた。


「いい場所だろ。喜んでもらえてよかったよ」


 ベランダから見上げた5月の空はどこまでも澄んでいて、遠ざかる様に雲が流れていく中で、私はいつまでも風に吹かれていたかった。


「よし、じゃあ行こうか」


 そう言って再び建物の中に入り私たちは順路を進んだ。

 しばらく行くと、洋館は和風の建物に変わり急に日本情緒を感じさせる作りとなった。


 それから私たちは襖に描かれた富士山を見て、宇治抹茶のかき氷を食べてから建物の外に出た。


 いつの間にか日が傾いていて、少し肌寒いくらいだった。

 薄暗くなった道を上野駅の方へ向かって歩いていく。


「結奈、付き合ってくれてありがとう。疲れたろ?大丈夫?」


 不忍の池の街灯は、歩くたびに哲司先輩の影を長くしたり短くしたりして照らした。

 午前中より少しゆっくりと歩く歩幅は、1日歩き回った疲れなのか、それとも私に合わせてくれているのか。

 時速何キロで歩いているのか分からないけれど、哲司先輩の隣で歩くこの速度はなぜだが心地よかった。


「ううん、大丈夫です。まぁ、ちょっと、疲れましたけど。すごく楽しかったです」


 少しだけ痛いふくらはぎを無視するようにして、笑いながら答える。


「そうか、良かったよ」


 そう言って前を向いた横顔は、街灯の逆光で表情が読み取れなかったが優しい声が響くのが聞こえた。


「そうだ、これ。朝のお詫び」


 哲司先輩はカバンから何かを取り出して私に手渡した。

 白いビニールの中を覗くと、モネの睡蓮をイメージしたハンカチが入っている。


「いい色だろ。トイレ行ったついでにミュージアムショップ寄って買ったんだよ。あ、貸してくれたハンカチは洗って返すから」


 手の中で広がる淡い色合いと、西日と街灯が合わさって何だかシャボン玉の様にふわふわと私の心を揺れ動かした。


「ありがとうございます。綺麗な色。大切にしますね」


 私は睡蓮色のハンカチを無くさない様にカバンに大事にしまった。



 不忍の池を通り、階段を登って上野公園に入ると、日中とは違い少し薄暗い森の中にいるように感じる。


(そういえば瑞季先輩たちはどうしたかな)


 そう思いながら動物園の前を通りがかる時、何とちょうど出口から二人が出てくるところだった。


「あ、哲司先輩!結奈!」


 瑞季先輩が私たちに気がついて大きく手を振る。


「おー何?今まで動物園にいたの?すげーな瑞季」


 哲司先輩はそう言って笑いながら二人に近づいた。

 何だか少し恥ずかしい気がしたけど、私も一緒になって歩いていく。


「哲司先輩と、結奈は?どこ行ってたんですか?」


「私たちは不忍の池でソフトクリーム食べて、それから旧岩崎邸を見学して、かき氷食べました」


「何それ、食べすぎじゃね?太るぞ」


 祐一先輩がからかうように笑った。


「旧岩崎邸かぁ、私は行ったことないや。哲司先輩、結奈とのデートはどうでした?」


 瑞季先輩はニヤニヤとしながら哲司先輩を見つめた。

 私はデートと言われて顔が赤くなっていくのを感じたが、


「あぁ、いいデートだったよな?」


「はい!沢山食べられたし、楽しかったです!」


 哲司先輩が臆面もなく笑うので、私もつられて満面の笑顔で返事ができた。

 今まで、人と話すことが苦手だったけどここでなら不思議と自然体で居られる気がした。


「そっか!結奈、良かったね!」


 瑞季先輩も屈託無く笑うので、私もその笑顔につられてさらに笑った。

 



 家に帰るとトロが出迎えてくれた。

 そのままリビングに入ると、母がおかえりと言ってくれた。


「どうだった?美術館。何だか楽しそうな顔ね」


「うん、美術部の先輩達と行ったんだけど、すごく楽しかったよ」


 私はトロを抱っこして撫でながら答える。


「そうね、瞳が輝いているもの。綺麗なものを沢山見ると、瞳も綺麗になるんだって」


 母は微笑みながら私の頭を撫でた。


「え?何の話?」


「昔の小説の話よ。結奈、あなたの瞳、とても綺麗よ。いい先輩達と出会えて良かったわね」


 微笑みながら母はキッチンに戻っていった。


「夕ご飯は?食べるの?」


「うん!沢山歩いてお腹空いちゃった。すぐ着替えてくる!」


 私はトロを抱っこして私の部屋へと急いだ。

 バックを置いて、リビングへ降りようとした時、ふと姿見が目に止まった。

 ゆっくりと近づいて、自分の瞳を見てみる。


(綺麗なものを見ると瞳も綺麗になる、か。そう言われると、今日は沢山綺麗なものを見たな。先輩達の真面目な顔や笑う顔も素敵だったな)


 そんなことを思いながら鏡と向き合うと、不思議といつもより瞳が輝いているように見えた。

 今日のことを思い出しながら鏡の中で指と指が触れると、頭に浮かぶのはなぜだか哲司先輩のことばかりだった。

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