第15話 上野動物園
公園の喧騒の中、私たち4人を包む新緑の木々は肌を焼くような初夏の日差しを和らげてくれた。
「これからどうします?去年は動物園行きましたよね」
瑞季先輩がアイスティーのカップを両手で持ちながら尋ねる。
結露した水滴が瑞希先輩の手を伝って地面に落ちた。
「そうだなぁ、恒例行事にするからには去年と同じルートで行くか。よし、じゃあ動物園行こう」
食べ終えた後のゴミをゴミ箱に捨て、私たちは動物園へ向かうと右側には何やら美術館らしい建物が見えた。
瑞季先輩は祐一先輩と後ろで話していたので、歩きながら指をさして哲司先輩に尋ねる。
「哲司先輩、あの建物も美術館ですか?」
「あれは東京国立博物館。博物館だけど、美術の展示もやってるよ。2年前の北斎の展覧会は良かったな」
「葛飾北斎ですか?浮世絵の?哲司先輩、西洋絵画以外も見るんですか?」
今まで哲司先輩の油彩の作品しか見てこなかったので、なんとなく意外だった。
「あぁ、もちろん見るよ」
何でもないことのように、哲司先輩は軽く答える。
「やっぱり、色々見て勉強してるんですね。私も頑張らないと」
私は前を向きながら、少し決意を込めて手を握った。
「まぁ、勉強っていうか、楽しいから?前に偉そうに勉強とか言った気もするけど、俺はそんなに真面目に考えてないよ。ただ楽しいから見るだけ。もちろん嫌いな画家や作品もあるし。」
「えーそうなんですか?私、勝手に美術ならなんでも好きなのかと思ってました」
「そんなことないよ。まぁ嫌いってのは言い過ぎか。俺はキリコの絵がちょっと苦手なんだよなぁ。なんかこう、不安になるっていうか」
「きりこ?日本人ですか?」
「ジョルジオ・デ・キリコ。イタリア人だよ。シュルレアリスムの。みたことない?建物の間から影がのぞいてて、女の子の影が車輪を転がしてる絵。「通りの神秘と憂鬱」っていうんだけど」
「あ!この間美術の参考書で見ました!確かにちょっと不安になる絵ですよね」
そう言った私の方を向いて、哲司先輩は優しく笑いかけた。
「結奈、美術部員らしくなってきたな。でもさ、別に教科書に載ってる画家を全部覚える必要ないよ。自分の印象に残ったり、好きな画家や絵を見つければいいよ。そのために色々と作品に触れるのは大事だけどな。さっきさ、祐一も言ってたけど、年を重ねていくと同じ作品を見ても受ける印象って変わるんだよ。技法やタッチに新たに気がつくこともあるけど、その時の感情や気持ちによっても感想が変わるんだよな。絵をみて嬉しくなることもあれば、慰めてもらうこともあるし。絵を見ることで、心の調律をしてる感じ?俺はさっきのモネの睡蓮が好きでさたまに一人でも見に来るよ。結奈も、そういう絵が見つかるといいな」
噴水をバックに語るその姿は、少し西に傾いた日差しを浴びて何だか少し眩しく思えた。
背景の空と雲の境界は曖昧で、どこから雲なのか、空なのか分からなかった。
「心の調律か、先輩、詩人なんですね」
「茶化すなって」
哲司先輩はそう言ってまた優しく笑った。
本当はその言葉に感動したのに、からかうように言ってしまった。
私は先輩のあの絵が好きだなんて、なんとなく恥ずかしくて口に出せなかった。
動物園自体久しぶりだったのもあって、これだけ多くの動物を間近にみるのは新鮮だった。
相変わらず太陽が容赦無く照らしてくるので、きっと日焼けをしてしまうなと思いながらも楽しさに勝てずに先輩たちにくっついて回る。
私は哲司先輩とペアのような形で隣り合って歩くことが多くて、色々な動物を見ながら、笑ったり、感心したり、驚いたり、まるで幼い頃の夢の様によく変わるその表情を私は時々横目で見つめたりした。
一通り園を見て回った私たちは再び象の前に戻ってきた。
器用に鼻でホウキを持って掃除する姿はとても賢く、愛らしい。
子供の頃見た象はもっと大きく感じたが、高校生になってみると思ったほど大きくはなかったけれど、それでも優しい瞳は当時と変わらないように思えた。
「瑞季―、もう行くぞ!」
柵から乗り出しそうなほどに象を眺める瑞季先輩の目は輝いて頬が緩みきっている。
瑞季先輩が象の前から張り付いて動かないので、祐一先輩が急かす。
「えーもうちょっとだけ見させて!」
それほど象が好きなのか、こんな強情な瑞季先輩は初めて見た。
「仕方ないな、去年もこうだったしな。じゃあ俺ちょっと寄るとこあるから、これで解散にするか」
「すみません、また連休明けですね!」
祐一先輩は瑞季先輩の保護者のように付き添っていた。
「そうだ結奈、ちょっと付き合ってよ」
哲司先輩は急にそう言って、私の手を取り、2人に手を振りながら出口へと向かった。
私は急な展開に頭がついて行かず、混乱しながらもとりあえず瑞季先輩、祐一先輩に挨拶をして、手を引っ張られながらなんとか方向転換をした。
「ちょ、ちょっと、哲司先輩!先輩たちほっといていいんですか?」
早足でなんとか追いつきながら言うと、哲司先輩は私の手を離した。
「いいんだよ。あの2人、お互い好き同士なのに中々進展しないから、ちょっとした縁結び」
哲司先輩はいたずらをした子供のように笑っていた。
「え、そうだったんですか?全然気がつきませんでした」
「去年の冬くらいからかな、祐一から相談されたんだけどさ、あいつあれでちょっと臆病だから告白とかできないらしいんだよな。瑞季は瑞季で、側からみてあれほど好意が分かりやすいやつもいないと思うけど、まぁお互い近くにいすぎると気がつかないものかな」
(そうか、それで2人きりにしてデートをさせてあげたのか)
今日は哲司先輩に対する印象がだいぶ変わる1日だった。
放課後、一人で本を読んでいる大人びた姿、内閣総理大臣賞まで取る絵描きの姿、今目の前にいる少年のように無邪気な高校生の姿、どれが本当の哲司先輩なんだろう。
「よし、それじゃあ俺たちもデートするか!」
急にそんなことを言うので、やっと少し落ち着いた頭がまた混乱してしまった。
(デート?2人で?)
「俺行きたいところあるんだけど、いい?」
返事も待たずに私の背中を叩いて不忍池の方へ足を向けた。
子供みたいに天真爛漫なその姿に私は苛立つこともなく、何だかかわいいななんて思いながら、早足で駆け寄って柑橘類の香りの隣に立って歩いた。
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