第12話 ラピスラズリ

 4月下旬、まだ少し肌寒さを残す空気は太陽に照らされて、気を抜けば瞼が落ちてきそうな陽気の中でその声は私の名前を呼んだ。


「やっぱり結奈だ。後ろ姿でそうかなーって思ったんだよ。人違いじゃなくて良かった」


 振り返ると、声の主は休日だというのに何故か制服を着ていて、ブレザーは着ずにワイシャツの袖をまくって、カバンとスケッチブックを持って哲司先輩が立っていた。


「一人?ここ、空いてる?昼飯食おうと思ったら席がなくてさ」


 返事を待たずに哲司先輩は私の向かいの席に腰を下ろすと、おもむろに鞄からどこか見覚えのあるビニールを取り出す。


(あ、あのパン屋さんだ)


 中からパンを出して食べ始めた。

 なんだか小さな葉っぱみたいな形が連なっているパン。


「あ、欲しい?結奈はもう昼食べた?」


 葉っぱをちぎりながらからかうように笑って尋ねる。


「はい、さっき。私も同じパン屋さんで買って食べました」


 私は几帳面に折りたたんだビニール袋を指差した。


「ここのパンうまいよな。何食べたの?」


「あの…、えっと、あんぱん…です」


 こんなことならもっとおしゃれなパンを買えば良かったと思い、恥ずかしさで顔が赤くなっていくのを感じる。


「好きなの?あんぱん」


 哲司先輩は優しい笑顔を浮かべながら尋ねた。


「はい。でも一人であんぱんを食べてたなんて、ちょっと恥ずかしいです」


 ついスカートの上で両手に力が入る。

 指の中で生地がくしゃくしゃになりそうだった。


「何で?好きなんだろ?自分が好きなら、人になんて思われようと関係ないじゃん」


 急に真面目な顔になって話すので驚いたが、そう話す哲司先輩の目があまりにもまっすぐに私を見据えるので、反射的に目をそらしてしまった。


「それにさ、おれも買ったよ。ほら」


 哲司先輩は袋から見慣れた形のあんぱんを取り出して笑って見せるので、その姿を見て何だか急に心が楽になった気がした。


 それから哲司先輩は、おすすめのパンについて教えてくれた。

 始めは取っ付き辛そうな人だと思っていたが話してみれば普通の人で、この人があんな素敵な絵を描くなんて、この公園にいる誰が想像できるだろうか。


「何か買ったの?」


 哲司先輩はあっという間に葉っぱのパンとあんぱんを食べ終わり、アイスコーヒーを飲みながらテーブルの上に置いてある画材屋さんの袋を見て尋ねた。


「はい、デッサン用の鉛筆と、今度から油彩を始めることになったので、何となく、気に入った色の絵の具を記念に買ってみました」


 私は袋から絵の具を取り出して哲司先輩に手渡す。


「フェルメールブルーか。いいね。俺も好きだよこの色」


 私の手から受け取った絵の具を、哲司先輩は空にかざしながらゆっくりと話した。

 空の色と絵の具の色はあまりにもかけ離れていたが、太陽に目を細める横顔と、空に伸ばした腕に浮かび上がる筋を見て私は少しドキッとした。


(…あれ?フェルメールって、確か画家の名前だよね)


「フェルメールブルーって何ですか?」


「あぁ、このウルトラマリンブルーはさ、フェルメールが好んで使った色だからそう言われるんだよ。ラピスラズリって知ってる?元々はその鉱石から作った絵の具」


「ラピスラズリ、聞いたことあります。鉱石から絵の具を作るんですか?」


 というより、私は絵の具が何からできているかなんて、今この瞬間まで考えたこともなかった。


「そう。今は代用品使って作ってるけど昔はかなり高価だったらしいよ。まずは美術部の画材使ってそれから少しずつ好きな絵の具揃えてみたら?それから気に入ったのとか気になった色を揃えていくと良いよ。俺もつい買っちゃうから、滅多に使わない色の絵の具結構持ってるよ」


 屈託なく笑いながら、絵の具を私の手のひらに優しく返してくれた。


(フェルメールブルーか。何だか素敵)


 何となく選んだ絵の具にそんな由来があったなんて、何だか運命的なものを感じて嬉しくなった。

 手のひらに載せた絵の具をみて、つい笑顔がこぼれる。


「何?デッサンしてたの?真面目だなー、ちょっと見せて」


 哲司先輩は私のスケッチブックを手に取ると、先ほどまでの笑顔は消えて急に真面目な顔になる。

 この表情の変化に私はどこか惹かれていることに気が付いた。

 絵に対してどこまでも真摯に向き合うその姿勢があれだけの作品を描ける秘訣なのかもしれない。


 期待と不安が心を行き交う中、哲司先輩はただじっとスケッチブックを見つめている。


「うんだいぶ良い。よく観察したな。まだ午前中の間に描いた空気感も伝わってくるよ」


 まさか褒められると思っていなかったのでとっさに反応ができなかった。


「上手くなったよ。よくできてる。技術だけじゃなくて観察もな」


 次々褒められるので、私は嬉しさと照れ臭さとで顔が熱くなっていくのを感じる。


「あ、ありがとうございます。何か、褒められると思ってなかったので、嬉しくて」


 目を合わせることができず、かろうじて声を出す。


「まぁ、褒められるために描くわけじゃないしな、でも、自分に自信持てよ。絵に現れるよ」


 自分に自信。

 大人たちの誰もが簡単にそう言うが、自分を信じられる要素なんて今の私にはあまり思い浮かばない。

 大体、大人たちこそ自分を信じているのだろうか?

 私には電車の中で出会うどの大人も、自分に自信を持って生きているようにはとても思えなかった。

 だけど、同年代の、それも圧倒的な才能を持った人が言う言葉にはそれなりの重さがあった。


(自分を信じる)


 簡単そうでなかなかできないことだ。

 そもそも自分の何を信じたら良いのか分からない。

 私が戸惑っているのを感じたのか、哲司先輩は話題を変えた。


「この噴水のモニュメントさ、いいよな、俺すごく気に入ってるんだよ」


 太陽の光を乱反射しながら輝くその動きは、たまに吹く風の力で様々な表情を見せていた。


「飯田善国って人の作品なんだよ。知ってる?」


 私は首を振る。


「まぁすごく有名でもないか。それでもさ、このモニュメントがこの公園にあることで、みんなが噴水に集まるんだよ。それで、周りの自然と調和しながら、その日の天気や風の強さなんかで毎日違った表情をする。美術に限らずにさ、世の中って誰かが一生懸命作ったもので溢れてるんだよ。そこから何かを感じ取れるのは自分次第だけど」


 噴水のモニュメントの作者なんて、気にしたこともなかった。

 誰かが情熱を注いで製作したものだということに、言われるまで気がつかない私も私だ。

 きっと今座っているこの机も、椅子も、公園のデザインや国際版画美術館の設計も、誰かが一生懸命行った仕事なのだ。


「そういう仕事って、素敵ですね」


 何だか、急に色々なものが生彩を放って存在しているように思えてきて、哲司先輩の方を見るのも忘れて私は辺りを見渡しながら呟くようにそう答えた。


「そうだな」


 ふと視線を感じて目をやると、哲司先輩は私の方をじっと見つめていた。

 片肘を机の上について、左頬を支えながら。

 たまに見せるあの優しい視線だった。


「結奈はさ、進路どうすんの?将来何かやりたいこととかある?」


「将来…ですか、まだ全然考えていなくて、とりあえず大学にはいかないとかなぁって思ってますけど」


 本当に何も考えていなかったので、それしか答えようがない。


「哲司先輩は、進路はどうするんですか?」


 会話のキャッチボールの基本通りに、私は聞き返すと、哲司先輩の腕時計のアラームが鳴った。


「あ、悪い、俺行かなくちゃ。明莉さんと待ち合わせてるんだ」


 哲司先輩は急いで机の上を片付けて席を立ち、カバンを持って私に背を向けたところで急に振り返った。


「あ、そうだ。モネの絵、すごく良かったって言ってただろ。俺の贋作だけど。国立西洋美術館の常設展行こうぜ。高校生無料だから」


「常設展ですか?」


「あぁ、モネも展示されてるよ。本物を見とくのも勉強だしな」


「ありがとうございます!是非行きたいです!」


 突然の話にどぎまぎしながらも、生でモネの絵を見られる喜びの方が優ってしまい満面の笑みで答える。


「そっか、それじゃあ、5月4日の10時に上野駅の改札集合な。あ、学生証忘れるなよ」


 哲司先輩はそう言い残してカバンを肩にかけて走って行った。


(え…もしかして、二人きり?)


 急に心臓がドキドキしてきた。男の人と二人きりで出かけるなんて初めてだ。


(というか、斎藤先生とは一体どういう関係なんだろう?また聞きそびれちゃった。こないだの美術室でも何だか親しげだったし、休日に先生と生徒があったりするのって、やっぱり普通じゃないよね)


 いつのまにか、飲みかけだったカフェオレはすっかり氷が溶けてかなり薄い味になっていた。

 1口、口に含むとシロップの甘さも、コーヒーの苦さも分からないほどだった。

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