第11話 my favorite things

 最悪なことに昨日はあのまま眠ってしまい、12時過ぎに眼が覚めてそこからとりあえず洗顔と歯磨きだけはして眠ることにした。


 今朝は早くお風呂に入りたくて、早朝散歩も手短にした。


(そうだ、せっかく休みだし、自分だけで画材屋さんに行って、それからこの間の公園に行ってみよう)


 朝ごはんを食べるトロを眺めながら、我ながらいい考えが思いついた。


(せっかく美術部なんだし、外で絵も描いてみたら面白いかも)


 今朝の寝起きは汗っぽくて最悪だったが、これからいい1日になりそうな予感がする。

 トロは朝ごはんを2粒残していた。


「あれ、トロ珍しいね。ほら、まだ残ってるよ」


 そう言いながらドライフードを手に乗せて口元に持っていくと、仕方なさそうに食べてくれた。

 早速、シャワーを浴びて髪をドライヤーで乾かし着替えを済ませ、まだ少し早いが街の探索もしてみようと思い、9時半過ぎには家を出ることにした。

 


 ゴールデンウィークなだけあって、電車は同年代の中高生や大学生、子供連れの家族で賑わっていた。

 ドアに寄りかかって、ふと外を眺めるといつの間にか桜の木は葉桜となって枝も身軽になっていて、気がつかないうちに季節は巡っていくのだなと少し感慨深い。

 新緑の緑の中、電車の窓からよく晴れた空が流れていくのを眺めながら、私は中間試験のことなど頭から追い出して早く公園に行きたくてうずうずしていた。



 町田に着くと、私はまずは画材屋さんに向かった。

 この間は未怜と瑞希先輩と3人で来たが、今日は私1人。少し緊張しながらビルに入る。

 だいぶ短くなったデッサン用の鉛筆を購入して、後は油彩のエリアを冷やかしてみようと思い移動すると、端から端まですべて絵の具で満たされたその空間に圧倒されてしまった。

 ここから自分の使いたい色を選ぶのかぁと思いながら何となく色を見ていく。

 綺麗なグラデーションに並べられた絵の具たちはそれ自体がまるで芸術作品の様で、見ているだけで段々とウキウキしてきた。

 せっかくだから何か1色買ってみようと思い、散々悩んだ挙句、深い青色のウルトラマリンブルーを購入した。



 画材屋さんを出て、私はすぐにこの間のパン屋さんへ寄りお昼ご飯を買っておくことにした。

 今日こそはおしゃれなパンを買おうと決めていたのに、結局あんぱんを買ってしまった。

 ドリンクもまたカフェオレ。

 この間シロップを入れて飲んだら結構美味しかったのだ。


 未怜に連れられた道を思い出して、古着屋さんが多い大通りを北に歩いて芹ヶ谷公園へと向かう。

 公園はお昼前なのもあってそれほど人はいなくて、南中に昇る前の陽の光はまだ柔らかく、公園の中に広がる木々を照らして居た。

 葉の間から溢れる木漏れ日を見て、私は哲司先輩を思い出していた。

 舗装された道をわざと外れて土の上を歩くと、体重で少し沈みこむ私の足元は、枯葉や小枝が雑然と並んでいて踏み出すたびに様々な感触を伝えてくれる。


(あの絵、どんな風に描いたのかなぁ)


 そんな風にぼんやりとしながら歩いていると噴水の広場に到着した。

 まだ若干東から刺す日差しは噴水のモニュメントに反射して、周囲にランダムに光彩を放っている。

 今日の風は緩やかで、噴水からの水滴もそれほど飛散してはおらずなるべく噴水近くのテーブルを陣取って荷物を下ろした。

 早速カバンからスケッチブックを出し、先ほど購入したばかりの鉛筆と絵の具が入った画材屋さんの袋と一緒に机の上に置く。


(うーん、何を描こう)


 今日はデッサンをしようと決めていたので、私は家にある身近なものでデッサンの練習になりそうなものをカバンに詰め込んできていたのだ。


(よし、ここはやっぱりりんごにしよう)


 おもむろにカバンからりんごを取り出して、ハンカチを敷いた上に置く。

 以前の私なら、公園でりんごを丸々一個机の上に置いて絵を描いている人をみたらどう思っただろう。

 そんな人の目も気にならないほど、今の私は絵を描くことに夢中になっていた。


(この角度がいいかな。うん、完璧)


 陽の当たり方、葉の影の被り方などを私なりに考慮して、デッサンを始めた。

 自宅であらかじめカッターで削ってきた鉛筆を使った。

 前回りんごの絵を描いてからほぼ1ヶ月。

 これまで沢山のモチーフを描いてきたが、りんごはあえて選ばなかった。

 りんごを描く練習をするのではなく、絵を描きたかったのだ。

 その成果の見極めが、私にとってりんごを描くことだった。


 夕日の中と違って今日のりんごは何だかすました顔をしている。

 蛍光灯と自然光では表面の色彩、温度感も変わってくるものだと気がついた。


(観察、観察…)


 あの日哲司先輩に言われたことを思い出しながら私はりんごとにらみ合った。

 1本1本、丁寧に線を引きながらりんごの姿を写し取っていく。

 だらだら過ごす時間はとても長いのに、何かに集中していると時間が経つのはとても早い。

 その作業が完了したのは、太陽が2、3度、西に傾き始めた頃だった。


(よし、できた!)


 完成した絵は初めて描いた絵よりもかなり形も整っている様に思えた。

 皮の質感や空気感、りんごの重さもよく表現できた気がする。

 楽器も同じだが、始めのうちは辛くとも上達してくると一気に楽しくなるものだ。

 私は2時間ほど日光の下で身じろぎひとつしなかったりんごを心の中で褒めてあげた。


(よしよし、よく頑張ったね)


 そう思いながら、陽が当たって少し暑くなった頭の部分を優しく撫でた。


 描き終えて緊張感が取れるとすぐにお腹が鳴った。

 パン屋さんの袋からあんぱんを取り出し一口かじりつくと、糖分が少なくなっていた脳細胞が徐々に活発になっていくのを感じる。


 カフェオレにストローを刺し、なんとなくシロップを入れずに飲んでみると、やはり苦い。

 反省してシロップを入れてからもう一度口に運ぶ。

 コーヒーの苦さがミルクで中和されて、舌の上に甘い味が広がっていく至福のひと時。


 ふと気がつくと、噴水の広場の周りには多くの人が集まってきていた。祝日なのもあって子供連れが多い。

 甲高い声で笑う子供達は、悩みなんてなくて毎日をとても楽しそうに過ごしているように思えた。


(いや、子供でもそれなりに悩みを持ってたかな)


 私は自分の子供時代を振り返ってそう思い直した。

 幼稚園でうまく友達の輪に入れなくて、毎日行きたくないと泣いて母を困らせていた私。

 あれから10年ほど経って、愛想笑いも作り笑いも空気を読むことも覚えた。

 大人になるってこういうこと。

 中学時代は話題のテレビは見逃さず、流行りの歌もチェックして、みんなの話題に置いて行かれないように努力した。

 でも、そんな自分がどこか嫌いだった。


 高校に入り、未怜と出会って、初めて気取らずに話ができた気がする。


(未怜、素敵な名前の由来だったな。今度、オフィーリアの絵について話してみよう)


 未怜は絵が好き。

 猫が好き。

 お昼になる前に、こっそりとコロッケパンを買ってきて食べていたこともあった。

 それを指摘すると嫌味のない笑顔をして笑った。

 一転して美術部でキャンバスに向かうあの真剣な顔。


 そんな未怜と出会って、私は本当に救われた思いだった。

 未怜のおかげで、私は今ここでりんごの絵を描いている。

 以前からは想像もできなかった未来に立っているのだ。


(私の好きなものってなんだろう)


 トロが好き。

 トロだけでなく動物全般が好き。

 ホルンが好き。

 あんぱんが好き。

 そして最近、絵が好きになった。

 それでも、クラスの他のみんなの話題に置いて行かれないように、今でも特段興味のない話題のテレビや好きでもない流行りの歌のチェックをしている。


(私が心から好きなものってなんだろう。私の世界って。みんなが好きでも私が好きでないものも沢山あるけど、輪を乱さないように口には出さない。本当に好きなものだけを好きと言えたらずっと心が楽になるのに)


 哲司先輩は、どうなんだろう。

 70年代の映画音楽のことを話題に出すくらいだから、きっと好きなのだろう。

 同年代の子たちの一体何人があの曲を知っているだろうか。

 教室で読んでいる本もベストセラーの小説ではなく難しそうな本だった。


(あれ、なんで哲司先輩のこと考えてるんだろう)


 なぜだか頭から離れない。

 夕焼けの旧校舎の、教室の窓辺の席に座って本を読む横顔のあの真剣な眼差しを、絵の具の匂いに囲まれた準備室の一角にある暖かな木漏れ日を頭から追い出そうとして、緩やかな風に吹かれて揺らぐ噴水のモニュメントを眺めながらカフェオレをストローでかき回して一口飲む。

 冷たい液体が喉を流れて、カップの中で積み重なった氷が音を立てて崩れた。


「あれ、結奈?」


 その時、突然背後から声が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る