第10話 風薫る

 次の日、4月最後の登校日。

 早朝の散歩時はまだ涼しいが登校時間ともなるともうすっかり暖かくなり、ブレザーを着ているとうっすらと額に汗がにじむ気温となった。

 トロに挨拶をして今日も学校に向かう。


 放課後、明日から始まるゴールデンウィークへの期待と、その後の中間試験への不安が入り混じりながら、私は未怜と美術室へ向かっていた。

 美術室にはもう2年生の2人が来ていて、窓辺に座りながら楽しそうに話をしている。


「あ、2人とも!過去問持ってきたよー!」


 私たちに気がつくと、瑞希先輩が手を振って挨拶をしてくれた。

 祐一先輩も机に肘をつきながら、右手をあげた。


「このファイルね。2人分コピーしてきたからあげるよ。地理は毎年問題ほとんど変わってないからこれやっとけば楽勝だよ」


「やったーありがとうございます!コピー代払います!」


 未怜は飛び跳ねて喜びながらファイルを受け取った。

 ファイルには瑞希先輩の文字で「ファイト!」と書いた付箋が貼ってあり、その下に祐一先輩の落書きが書いてある。

 どうもこの部活の人はみんなこういったことが好きみたいだ。


 しばらく雑談をして、それぞれが制作活動に入っていく。

 私もモチーフを選んで、鉛筆を削り始めた。勉強からの現実逃避かも知れないが、普段シャーペンを使っている分、指先から伝わる鉛筆の木の温もりがどことなく懐かしさを呼び起こしてくれる。

 

 今日は斎藤先生の勧めで自分の左手を描いてみることとなった。

 普段から見慣れているはずの左手なのに、じっと観察すると何だか自分の手ではないように思えてきた。

 うっすらと時計の跡を残すように日焼けをしている。

 薄く透けた血管には今も血液が送られていて、私の意思で筋肉も動かすことができる。

 どの構図で描くかを決めるのに手を開いたり閉じたり、手のひら、手の甲を代わる代わる見て、結局手を開いて手の甲を描くことにした。


 頭の中のイメージをダイレクトに右手に伝える。

 初めて単純な形でないものを描くので緊張したが、思っていたよりスムーズに線を引くことができた。


(私の世界、か)


 昨日哲司先輩に言われたことがふと頭をよぎる。


(そういえば、最後、なんて言おうとしたんだろう。今日は来てないな)


 余計な考えを頭から振り払うように、紙パックのアップルティーを一口飲んでまたスケッチブックに向かった。



 やっと完成した頃には、もう17時半を回っていた。

 左手を動かさないでいたので、やや痺れて関節が固まったようで、動かすのに少し苦労をした。

 緊張が解けて、絵のモデルの人はこれが全身なのか、大変だな、などとくだらないことを考えたりした。


「うん、だいぶよくなったわね。解剖の知識が身につくともっとよくなるわよ。浅井さん、中間試験が終わったら油彩に挑戦してみましょうか」


 私のスケッチブックを手にとりながら、斎藤先生がいつもの笑顔よりはやや真面目な顔をして言った。


「え、油彩ですか?私、何にも分からないんですけど、大丈夫でしょうか?」


「うん、基礎はだいぶ固まってきたから。浅井さん、伸びるの早いわよ。少しずつ描いていってみましょう」


 にこりと微笑むと、斎藤先生は未怜のもとへと歩いていった。

 さっきまで不安だったのに、左手に血が戻ってきて暖かくなるにつれて、ついに油彩が描けるという思いが強くなってきた。



 18時のチャイムがなり、部活は解散となった。


「明日からゴールデンウィークだから、みんな中間試験に向けてしっかり勉強するのよ。どこかへ出かける時も、事故や怪我に気をつけてね!」


 斎藤先生は手を振りながら廊下へと消えて行った。



 私は未怜と帰りながら、ゴールデンウィークの予定を話し合った。

 未怜は毎年家族で山梨の田舎に帰るらしい。


(ゴールデンウィークか、私はどうしようかな)


 厚木駅で相模線を待っている間、私はぼんやりと予定を考えていた。

 勉強するといってもずっと勉強ではつまらないし、かと言って中学時代の友達と遊ぶ気にもなれない。

 そんなことを考えているうちに、電車が到着した。



 家に帰ると、今日もトロが鳴きながら出迎えてくれた。


「ただいまートロー!」


 顔を擦り付けようと足元でウロウロするトロを持ち上げて部屋に向かう。

 気のせいか、トロは何だか少し軽くなったように感じた。

 荷物を置いて、部屋着に着替えてリビングへと階段を降りるとトロもスタスタと後を追いてくる。


 リビングでは、母が夕食の支度をしていて、私の好物の海老フライを揚げているところだった。


「おかえり。明日からゴールデンウィークね。とりあえず、高校生活1ヶ月間、お

疲れ様。今日はお父さん早く帰ってくるって」


 そう言いながらダイニングテーブルに座った私の前にご飯を置いてくれた。

 母は昔から何かにつけてお祝いをする。

 その場合には決まって私の好物の海老フライが食卓に並ぶことになっていた。

 つい最近では入学式だ。

 入学式の日、風に吹かれて桜の花びらが少しずつ散っていく、絵に描いたように完璧な入学式なのに、満開の花に軋む枝は私の心の不安を表しているようだった。

 あの時は高校生活の始まりに不安ばかり感じていたが、1ヶ月後、こんなに楽しく過ごしているなんてあの時の私は夢にも思っていないだろう。

 ましてや、自分が美術部に入っているなんて。


「お疲れ様って、別に普通だよ」


 私は愛想なく答える。


「あら、普通だっていいじゃない。どんなことでも、お祝いしたり、幸せを感じられるようになるのが幸せへの第一歩よ。今日はケーキ買っておいたからあとで食べよう」


 夕飯を一緒に食べながら、ふと母に尋ねた。


「そういえば、小さな恋のメロディって知ってる?」


「もちろん知ってるわよ。良い映画よねー」


「え?曲の名前じゃないの?」


 私は海老フライに母特製のタルタルソースをつけながら答えた。


「あぁ、曲の名前でもあるわね。ビー・ジーズ。映画、お父さんが好きでよく見てたじゃない。結奈も隣で一緒に見てたわよ。まだ小さかったから覚えてないかな?ストーリーが分かっているんだか分かっていないんだか、真剣に見てたわよ」


 そう言いながら、母も海老フライを口に含んで笑っていた。

 すると、玄関の開く音がして、父が帰宅した。


「結奈。1ヶ月お疲れ様」


 リビングに入るとすぐに、ネクタイを緩め、スーツのジャケットを脱ぎながら私に声を掛けた。


「うん、お帰り。ありがとう」


 すぐに父も食卓に加わり、家族3人での久々の夕食が始まった。

 何となく父とは話しにくさを感じていたが、特別な理由もなく、反抗期なのか思春期なのか。

 自分でもよく分からない。


「お父さん、結奈が小さな恋のメロディって知ってる?って」


「あれ、結奈覚えてないのか。結奈小さかったからなぁ、最近、観てないし。何でまた急に?」


 付け合わせのスパゲッティサラダを食べながら父が尋ねる。


「別に、何となく。昔の映画なの?」


 鼻歌を先輩に聞かれたなんてことは恥ずかしくて言えるはずがなかった。


「71年だからだいぶ昔だな。最近の映画もいいけど、あの感じがいいんだよなぁ、DVDあるからいつでも見ていいよ。」


「お父さん、お気に入りの映画だから、ビデオテープも持ってるくせにDVDまで買ったのよ。もう」


 昔から思っていたが、父と母は仲が良い。

 暖かい父と優しい母、そんな家庭で育ったのに、何でだか私は人付き合いが苦手だ。

 遺伝?環境?人の性格の形成には一体何が影響するのだろう。


「ありがとう。連休の間に見てみるよ」


 夕ご飯を食べ終え、私は早くケーキが食べたくてそわそわしていた。

 椅子の下ではトロが丸くなって眠っている。

 遅く食べ始めた父ももうあと1口といったところだったので、母が食器を片付け始めていた。

 

 やがてケーキも食べ終わり、ケーキ皿とフォークを流しに持っていき、高校生活1ヶ月お疲れ様会はお開きとなった。


「お父さん、さっきの、DVDってどこにあるの?」


「あぁ、テレビボードの引き出しに入ってるよ」


 父は洗い物をしながら両手を泡まみれにしながら答えた。

 軽く礼を言い、テレビボードを探すと簡単にDVDは見つかった。

 外国人の男の子と女の子が写っているパッケージだった。


(ゴールデンウィークか。本当、何しようかな)


 ベッドに仰向けになり、天井の木目を目で追いながらそんなことを考えていると、段々と睡魔に襲われてしまった。

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