第9話 森の中で

 放課後の美術室にはいつも絵の具の匂いが立ち込めている。


 普段はおしゃべりな未怜と祐一先輩は作品と向き合う時にはもの静かで、校庭から聞こえるノックの音や、耳を済ませば聞こえる程度の音楽室からの音の他には、筆を走らせる音が室内に響き渡っているくらいだった。

 私も鉛筆を走らせる音を加えて、静かな合奏に参加をする。


 今日は珍しく哲司先輩が来ていたが、みんなが作品と向き合う中哲司先輩だけは準備室から持って来た画集を眺めている。

 机の上に寝転びながら、両手で画集を持っているので表紙の文字があまり見えない。

 かろうじて画集の下の方の文字が見えた。


(TASCHEN?ってなんだろう?)


 私はこの間の仕返しに、静かに近寄って声をかける。


「哲司先輩、何の絵を見てるんですか?TASCHENっていう人の絵ですか?」


 哲司先輩は突然の問いかけに驚いた様子で、先ほどまで細めていた眼を見開いたのだが、それを悟られたくないのか意外にも落ち着いた声で、寝転びながら眼だけを私に向けた。


「TASCHENていうのは、ドイツの出版社の名前。これはクリムトの画集」


 今しがたまで見ていた画集のページを寄越した。


 私は美しく輝く金色の琴のような楽器に眼を奪われた。

 背景の夜空に様々に光る星は画面に精彩を加え、力強い顔の石像のようなものと、琴を弾く女性との対比が美しい。

 タイトルを探したが、全て英語で書かれていて、すぐには見つけられなかった。


「音楽っていう絵だよ」


 少し開いた窓から吹き込む風が前髪を揺らしている。

 哲司先輩はそう言いながら机から上半身を起こすと、そのまま窓際へと向かいみんなの雑談に加わった。


 私は画集を手に持ったまま、ページを何枚かめくってみた。

 そこには独特のタッチで描かれた様々な作品が載っていて、極彩色のエキゾチックなその世界観に引き込まれてしまった。


 遠くで未怜の声が聞こえた気がして、急激に意識が旧校舎2階、美術室に引き戻される。


「結奈、中間試験の勉強始めた?」


 美術室に引き戻されるだけでなく、現実に直面させられた。

 そうだ、私は高校1年生でゴールデンウイークを開けるとすぐに中間試験が待ち構えている。


 試験への恐怖に怯えながらも、その後は再び各自制作活動に戻りしばらくして18時のチャイムが鳴った。

 新校舎と旧校舎ではチャイムの音が違っていて、私は機械的な新校舎よりも、どこか人の温かみを感じる旧校舎の方が好みだった。

 人と接することが苦手なのに、人の温かみを求めてしまうのは矛盾だった。


 荷物をまとめて教室の外へ出ると、昇降口を抜けて未怜の自転車の鍵を開けたところで私は腕時計をしていないことに気がついた。

 母が入学祝いに買ってくれた私のお気に入りで、デッサンの時に汚れないように、外して机の上に置いておいたのだ。


「ごめん、未怜!先帰ってて!時計忘れてきちゃった」


 そう言って未怜に別れを告げ、入学当初より少し長くなった黄昏の中を旧校舎へ向けて走る。


 急いで階段を駆け上り、新校舎の2階から旧校舎へ繋がる渡り廊下を渡って軋む廊下を走り抜けて美術室へと向かった。


 廊下の先の美術室のドアからは、光が薄暗い廊下に漏れていたので、私は走るのを止めて、息を整えながらゆっくり歩くことにした。

 美術室の前まで来ると、ドアが少し開いていて中から話し声が聞こえる。


「哲司くん、次の土曜日はどうする?」


「あぁ、もちろん行くよ。ゴールデンウィークに入っちゃうし」


(斎藤先生と、哲司先輩だ。)


 そういえば、この間町田駅で2人を見かけたのにすっかりそのことを忘れていた。


(もしかしてこの2人、付き合ってたりするのかな。どうしよう、入りにくい)


 迷っているうちに斎藤先生のヒールの音がドアへ向かってきたので、反射的にドアの開いていた教室のクラスの中まで走って逃げてしまった。

 幸い電気が消えていて、廊下からは気がつかれにくいはず。

 斎藤先生の足音が、廊下に響きながら旧校舎の奥へと吸い込まれていく。

 息を殺して隠れていると、心臓がばくばくして張り裂けそうだった。


(デートの約束してたのかな。いつも何だか親しげだし。それに斎藤先生、哲司くんって下の名前で呼んでた!)


 何だか色々な考えが頭に巡っては消えていき、ふと時間を見ようと思い左手を見たところでようやく私は時計を取りに来たことを思い出した。

 斎藤先生に見つからないようにしゃがみこんでいたため、少し痺れ始めていた重い足を運んで、私は美術室へと向かった。


 そっと、ドアの隙間から中を覗き込んでみた。

 哲司先輩は窓に向かってスケッチブックをイーゼルに立てて椅子に座っている。

 集中しているのか私には全く気がつかない様子だった。

 私は一度深呼吸をしてから、ドアを開けた。


「すみません、忘れ物しちゃいました」


 何だか不自然な声だった気もするが、とにかく私はドアを開けて中に入った。


「あぁ、結奈か。これだろ?さっき机の上で見つけて、結奈が座っていた場所だったからきっと忘れたんだなと思って。明日、朝一で美術の授業が入ってたから俺が持っておいて、教室まで行って渡そうと思っていたんだけど、来てくれてよかったよ」


 哲司先輩はゆっくりと振り向き椅子から立ち上がると、私の腕時計をワイシャツの胸ポケットから取り出し手渡してくれた。

 受け取った時計を早速左手首に通すと、バックルの金属質な音が音のない静かな美術室に響いた。

 哲司先輩は何だか機嫌が良さそうに見える。


(デートの約束をしたから機嫌がいいのか)


 などと思っているうちに、スケッチブックを片付けて、準備室へと消えてしまった。

 私はお礼を言いそびれたことに気がつき、準備室へと急いだ。


「哲司先輩、ありがとうございます。これ、母が入学祝いにくれた時計で、お気に入りなんです」


「そうか、もう忘れるなよ」


 準備室の入り口で後ろ姿に向かってそう言うと、微笑みながら振り返った哲司先輩は今まで見たことのない優しい顔をしていた。

 先輩はスケッチブックを片付けているところで、たまたま伸ばした腕が立てかけてあった絵の布にあたり、するすると地面に落ちると辺り一面は燦然とした光が差し込む森に包まれた。


「あ、先輩、この絵」


 例の、「眠られぬ朝の木漏れ日」だった。

 心臓の鼓動が早まるのを感じて、校庭からも3階からも何も音が聞こえない準備室に私の心臓の音だけが響いている。


「あぁ、これ。この間見たがってたっけ。今見る?」


 哲司先輩は布を床から拾い上げて絵の正面に椅子をおいて、背もたれに腕を乗せて座った。

 気がついたら森の中に深く踏み込んでいたので柑橘類の香りがすぐ隣から香ってくる。


「この絵、哲司先輩が描いたって聞きました」


 私は絵から視線を外すことができず、かろうじて口にした言葉がそれだった。


「そうだよ。サインもあるでしょ」


「内閣総理大臣賞を取ったって聞きました」


「そうだよ。1年の時にね」


「こんなに素敵な絵が描けるなんて、先輩にはどんな風に世界が見えているんですか?」


 何だか喉の奥が熱くなってくるのを感じながら、必死で空気から声を作った。


「俺はさ、絵を描くときに絵の具を塗っているわけじゃないんだ。絵の具に乗せて、その時、その瞬間の自分の考えや気持ち、感情をキャンパスに閉じ込めているだけ」


 しばらくの沈黙の後、森の中の隣人は光に吸い込まれるような声でそう言った。


 感極まると言うのはこういうことを言うのか。

 中学時代、吹奏楽部の合奏でみんなの息がぴったりあった瞬間、鳥肌が立ったりすることが何度かあった。

 でもそれとは少し違う、どこか、頭が揺れているようで考えがまとまらない。

 指先は痺れているように重くなり、力が抜けていく足を必死で踏ん張って、何か伝えたいのに上手く言葉にならなかった。


 静寂の森の中で心臓は相変わらず高ぶっていて、先輩に聞こえてしまわないかと、それを考えるとさらに鼓動が早くなるパラドックスだった。


「木漏れ日ってさ、英語でなんて言うか分かる?」


 唐突な質問に我に返った。

 哲司先輩は私の方も見ずに、腕に顎を乗せてただまっすぐ絵を見据えている。


「え、と、木漏れ日ですか?うーん、分からないです」


 私がそう言うと、哲司先輩は腕の上で頭を横にして、からかうように笑った。


「訳せないんだよ。木漏れ日っていう英語はないんだ」


「えー、何ですかそれ、ずるい」


「日本人特有の感覚なんだよ。そういうの、何か良いと思わない?」


 再び絵に視線を向ける。


「俺が言いたいのはさ、別に人種に限った話じゃなくて、モネにしても、ムンクにしても、ドガもクリムトもピカソだってそう。自分の世界、感覚があってそれを表現しているってこと。でも、彼らだけじゃなくて、誰だって自分の世界や感情っていうのは持ってる。別に絵に限らなくても、言葉だっていい。それを表現することができるかどうかなんだと思う。表現できたとしても他人に伝わるかどうかは分からないけどね」


 哲司先輩は深く眼を瞑りながら、何だか少し寂しそうな表情をしている。


「…私、この絵を初めてみた時、感動したのに、今もまた感動しています。あの光、何だかお母さんに優しく抱き締められているみたい」


 哲司先輩はしばらく黙って、腕から顔を上げて私の方を見つめた。


「結奈さ、」


 そう言いかけた瞬間に、見回りの先生が美術室のドアを開けた。


「まだ誰か残ってるのか?」


 デリカシーのかけらもなく、勢いよく響いたその音で私たちは森の中から追い出されてしまった。


「はーい、今帰りまーす!ほら、行くぞ」


 哲司先輩はすぐに椅子から立ち上がって、カバンを肩にかけた。


 美術室の電気を消して鍵をかけると、旧校舎の廊下は2人分の体重で大きく軋んで音を立てている。

 もうほとんど生徒は残っていないらしく、旧校舎の廊下の年代物の暖かな明かりだけが、等間隔で私たちの先を照らしていた。


「俺、職員室に鍵返してくるから。じゃあな」


 そう言って、哲司先輩は階段を降りていった。

 渡り廊下を通って新校舎に入ると、蛍光灯の人工的な灯りが廊下を無機質に冷たく照らしていた。


 私の中にも哲司先輩の言うような世界があるのだろうか。


(というか私、どうして美術部に入ったんだっけ?)


 未怜も一緒だからとか、絵が上手くなりたかったとか色々と考えたが、頭に浮かんできたのはあの時の2枚の絵だった。


「私の世界。描きたいもの、か」


 そう呟いて、もうすっかり暗くなった駅への道を1人歩いた。

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