第8話 マグとコーヒー
「小さな恋の、何ですか?」
緊張しながら話をしていた私はよく聞き取れずに聞き返した。
「メロディ。小さな恋のメロディ。知らないの?さっき鼻歌で歌ってたじゃん」
哲司先輩は意外といった顔をしていた。
ていうか、鼻歌?歌ってた?私?
「え…、私、鼻歌歌ってましたか?」
恥ずかしさで頬が紅潮していくのを感じたが、幸い夕日が当たっていたので哲司先輩からはよく分からないだろうことを祈った。
「デッサンしながらね。まぁずっと同じフレーズの繰り返しだったけど」
笑いながら哲司先輩は鼻歌を歌ってみせた。
「あ、その歌、小さな恋のメロディって言うんですか。私、そこしか知らなくて。でも何でだか好きな曲でつい口ずさんじゃうんですよね」
確かに私は何かをする時、勉強をしたり、散歩をしたり、トロを撫でたりしながらいつもこの曲を口ずさんでいた気がする。
歌詞も知らないし、初めて曲名を知った。
「先輩も好きなんですか?」
夕焼けが眩しくて、細かい表情までは読み取れなかったが、哲司先輩は少し俯き加減でつぶやく。
「そう。好き」
私はずっと聞きたかったことを思い出して、教室の後ろに飾ってある絵の方を向いた。
「そういえば哲司先輩、この、「カササギ」と「声・夏の夜」って哲司先輩が描いたんですか?」
私がやや興奮気味で尋ねると、哲司先輩は少し移動して、テーブルの上のマグカップを手にとり温くなったコーヒーを口に運んだ。
「甘っ」
(え、それ斎藤先生のじゃ?)
そう思ったが何となく口に出すのが憚れた。
「そうだよ。サイン書いてあるでしょ」
笑いながら私の隣までゆっくりと歩いてくると、微かな風が生じて柑橘類の匂いがする。
「本物はもっと大きいよ。モネは60号、ムンクは40号くらいかな。俺のは二つとも30号のキャンバスだから、一回りくらい小さい」
私のすぐ隣で、哲司先輩はマグカップを持って、どうやら甘いらしいコーヒーを飲みながら教室の後ろの絵を見つめていた。
「ここにあるやつだと、あれも俺が描いたよ。ほら、右下にサインが入ってる」
体の割に骨ばった長い指が指したのはカササギの隣に飾ってある絵で、緑に囲まれて流れる小川の中に女性が仰向けになっている絵だった。
爽やかな画面の中にグレーのドレスと、手に持った花が印象的で優しく女性を引き立たせている。
「これはミレーの「オフィーリア」。あんまり上手く描けなかったから本当は飾って欲しくないんだけど」
「あ、オフィーリアってこの絵ですか?この間未怜と瑞希先輩が話してました。未怜のお母さんがこの絵が好きで、それで画家の名前から未怜って名付けたって。へー、本当に素敵な絵ですね。未怜、良いなぁ」
「え?あぁ、未怜ってミレーから来てるのか。良い名前の由来だな」
私は芹ヶ谷公園でのランチタイムを思い出していた。
(あれ、確か未怜は溺れないようにって言ってたけど、この人もしかして溺れてるのかな。それなのに何だか美しさを感じるのはすごいなぁ。)
哲司先輩はまたコーヒーを口に含んで、どこか遠い目をして話をしていた。
喉仏の動きでコーヒーが嚥下されていくのが分かる。
「私、体験入部の時にこの「かささぎ」と「声・夏の夜」を見て、感動して、それで美術部に入ろうって決めたんです」
ようやく言えた。
「感動」なんて我ながら拙い言葉だが、美術のことをよく知らない私にはそれ以外に伝えようがなかった。
「結奈、おまえ可愛いこというな。ありがとう。でも、本物はもっとすごいよ」
そう言って、哲司先輩はマグカップからピンク色の付箋を剥がして、微笑みながら今日描いた私のスケッチブックのマグカップのページに貼り付けた。
いつの間にか、やる気がないなら辞めればいいのにとか、下手って言われて腹が立っていた気持ちが嘘のように消えていた。
(何だか不思議な人。)
「そうだ、先輩、準備室にあったあの絵、もう一度見させてもらってもいいですか?先輩が描いて賞を取ったっていうやつ。眠られぬ朝の木漏れ日でしたっけ?」
そう言ってスケッチブックを受け取ると私は準備室へ足を向けた。
「今日はもう帰りな。明莉さん、会議が遅くなるからって言って俺に鍵を閉めるように言ってきたんだよ」
そう言いながら軽いため息交じりに窓のカーテンを閉めると、哲司先輩はマグカップを美術室内の水道に運び、洗剤で洗い始めた。
さっきまで浮かんでいた笑みは消え去り、何だか少し悲しそうな顔に思えた。
コロコロと表情が変わり、どうもつかみ所のない人だ。
有無を言わさぬ態度なので、私も残りのカーテンを閉めるのを手伝った。
夕日が落ちてあたりはだいぶ暗くなって来ていて、波打つガラス越しに、外灯が今日もチラチラと瞬いている。
「そうしたら、また今度見させて下さい。私、鍵返して来ましょうか?」
先輩の言うことには逆らえない。
お楽しみは次の機会まで取っておくこととした。
「いやいいよ。俺がやっておくから。もう暗くなって来たし、気をつけてな、お疲れ」
「お疲れ様でした。お先に失礼します。」
かばんを持って廊下に出る直前になってから、私は振り返った。
「哲司先輩、今日はありがとうございます。私、先輩の描く絵好きです。また色々と教えて下さいね!」
言わなければいけない気がした。
だって、何だか寂しそうな顔をしていたように思えたから。
でもお世辞でも建前でもなく、本心から出た言葉だった。
哲司先輩は洗い終わったマグカップを拭き終わったところで、微笑みながら手を振ってくれた。
それから私は窓から差し込む外灯が照らす旧校舎の軋む廊下を1人で歩きながら昇降口に向かった。
帰りの電車の中では、哲司先輩のことで頭がいっぱいだった。
(下手って言われた時にはショックだったけど、哲司先輩の言う通りだったな。悔しいけど。私の気持ちまで見透かされてた。絵と向き合うことは自分との対話、か。それにしても、あのコンクールの絵見たかったなぁ。)
電車の窓には、流れていく夜の風景を背景に入学当初より少し伸びた髪の毛が映っている。
早く絵が描きたくて堪らなかった。
こんな日は単線電車というのが嫌になる。
本数が少ないのだ。
電車を待っている間、私はまだ少し肌寒い4月の夜の空気に晒されながらずっと絵のことを考えていた。
帰宅すると、トロがいつものように出迎えてくれた。
あれから吐いたりすることはなく、ごはんもよく食べてくれている。
トロと一緒に部屋に上がり、二つに結んで下ろした長い髪のゴムを解くと、スケッチブックを開いた。
ページをめくっていき今日描いたマグカップのページを開くと、斎藤先生のメッセージ入りの付箋が貼り付けてあった。
付箋には折り目が付いていて、その裏にはいつの間に書いたのか男の人の文字でこう書いてあった。
「がんばれよ」
サプライズが好きなのは斎藤先生だけではなかった。
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