第7話 Melody Fair
それから数日が経ち、毎日放課後には美術室へ向かい、スケッチブックと睨み合う日が続いていた。
初めのうちは、鉛筆をカッターナイフで削るのに苦労したが、未怜が一緒になって教えてくれた。
慣れない内は芯を折ったりして勿体無いことをしてしまったが、今では時間はかかっても鉛筆を無駄にすることはなくなった。
鉛筆を削っているときは集中力が高まり、スケッチブックに向かう前の儀式のようだと思った。
スケッチブックは早くも半分に到達しようというところで、毎日自分の技術が磨かれていく感覚は達成感がありとても楽しかった。
各々が自分の作品を仕上げている間、哲司先輩は一度も美術室には現れなかった。
ある日、2年生は課外授業、未怜は家の都合で部活に出られないとのことで私は1人で部室に向かった。
旧校舎の空気も少し暖かくなってきていて、もうブレザーを羽織ったままでは少し暑く感じるほどだった。
今日も階段の上から吹奏楽部の合奏の音が聞こえる。
ワシントンポストだ。
テンポの良いマーチが閉じられた音楽室のドア越しに、少しくぐもった音で私の歩みを促してくれた。
ふと3年生の教室、3年A組を見ると、哲司先輩がまた窓辺で本を読んでいた。
タイトルは、遠すぎて見えない。
(哲司先輩、今日も部活に来ないのかな。やる気ないなら他の部活に行けばいいのに)
なんて嫌なことを考えている自分が少し嫌になった。
私のいた吹奏楽部では、「やる気がないなら辞めたら?」という言葉が日常的に使われていた。
全国を目指す部活には、和を乱す部員がいると全体の士気が下がるのだ。
私も3年間、同じ環境に身を置いていたことでそんな考えが身に染み付いてしまっていたのかもしれない。
美術室のドアを開ける前に、深呼吸をして頭の中に浮かんだネガティブな気持ちをリセットした。
ドアを開けると斎藤先生が窓から校庭を見下ろしていた。
サッシに肘をつき、少し前かがみで外を眺めるその姿は、女の私でも少しドキっとするほど魅力的だった。
「こんにちは。今日は未怜が家の事情で来られないみたいなので、私1人なんです」
髪をかき上げてこちらを振り向いた先生はニコッと笑う。
「あら、そうだったの。実は今日私も職員会議が入ってしまって、ずっと部室にはいられないのよ。会議が終わったらまた部室に来るから、それまでデッサンをしていてもらえる?そうね、今日はこのマグカップをモチーフにしてみましょうか」
そう言って、私がかばんを置いている間に、斎藤先生はコーヒーの入った白いマグカップを布の上に置いて手を振りながら廊下へと去っていった。
コツコツと響く音が次第に遠くなっていく。
(ようし、今日は一人きりだけど、頑張ろう)
私は窓際のマグカップから見て教室の後ろ側の窓際に椅子を運び、スケッチブックを開いた。
まずは鉛筆をカッターナイフで削る。
シャッシャッと規則的な音が、校庭から聞こえる野球部の練習の声に混じって美術室に響き渡っていく。
(よし、削れた!今日こそは上手く描いて、斎藤先生をびっくりさせよう)
まだうっすらと湯気が立ち上るマグカップと向き合い、斎藤先生に教えてもらった技術を駆使して画用紙に写し取っていく。
陶器の材質を意識して陰影を付けていくと、マグカップから香るコーヒーの匂いに混じってうっすらと柑橘類の匂いがした。
どれくらいの時間が経っただろう。
いつの間にか湯気は無くなっていた。
「できたー!」
カップから伸びる影を描き上げて、私はスケッチブックを持ち上げた。
「お疲れさん」
するとすぐ後ろから声がしたので、私は驚いて勢いよく立ち上がって椅子を倒してしまった。
焦って椅子を起こしながら声の方向に目をやると、哲司先輩が机に座っている。
「びっくりした?結奈、全然気が付かないから面白くなっちゃってずっと見ちゃったよ」
哲司先輩はブレザーを脱いで、相変わらず第1ボタンを外したワイシャツだけの姿で無邪気に笑っていた。
いつの間にか茜色になった夕日の中で、青色のネクタイが膝の間に揺れていた。
「びっくりしましたよ!いつからいたんですか?というかどこから入って来たんですか?」
まだ心臓がばくばく脈打っていて、嫌な汗がじわっと出てくるのを感じる。
「半分くらいから?準備室から入ってきたんだよ。書けた?見せて」
そんなに長い時間後ろに人がいるのに気が付かない私も私だ。
「ど、どうですか?私の絵?」
相手は内閣総理大臣賞受賞者。
私は恐る恐るスケッチブックを手渡した。
哲司先輩はそれを受け取ると、長いまつげを時々揺らしながら、机に座ってスケッチブックをめくった。
少しの沈黙の間、私の心臓はさっきよりも激しく動いて、俯き加減のその顔を何故だか直視できなかった。
「うーん、下手」
哲司先輩は笑いながらそう答えた。
ショックで目の前が真っ白になった。
もう少しで倒れるところだったが、悔しさを足に沈めて何とか持ちこたえる。
「あの…、どこが悪いですか?教えてください!」
気がつくと哲司先輩の前まで進んでいた。
「あー、ごめん。正確には下手になった」
(どうして?あんなに練習したのに最初の頃から下手になってるなんて。)
「結奈さ、最初に明莉さんから何て言われたか覚えてる?って俺はその場にいなかったけど、あの人はみんなに同じことを言うんだよ」
「よく観察する…ですか?」
「そうそう。祐一も去年同じこと言われてた。結奈の絵さ、このスケッチブックの初めの頃から比べれば技術は確かに上がってると思うよ。だけど、感情がない。このマグカップさ、上手く描こう、上手く描こうとしか考えてなかったんじゃない?」
言われた通りだった。
技術を身につければそれを使ってみたいと思うのは当然のことで、今日の私は斎藤先生に褒められたい一心でマグカップと向き合っていた。
「結奈が描いたのと反対側の面、見た?」
この人は何を言ってるんだろうと一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐにテーブルの上のマグカップの反対側へ回ってみると、そこには小さなうすいピンクの付箋で、
「浅井さん、絵と向き合って、頑張ってね」
と、ハートマークと一緒に斎藤先生からのメッセージが添えてあっり、びっくりして哲司先輩に向き直る。
「明莉さん、それもよくやるんだよ。サプライズとか好きなんだよあの人」
哲司先輩は笑いながら続ける。
「絵はさ、上手く描こうと思うと不思議とダメになっちゃうんだよ。結局は、キャンバスに向き合うことは、自分との対話だから」
哲司先輩の話は少し難しくて理解ができなかったが、確かに今日の私と入部したての頃の私は絵を描く目的が違っていた。
少しでも上手く。
少しでも上手く。
段々とそんな感情が強くなっていっていたのだ。
「うん、でもまぁ、技術は良くなってきてるよ。よく練習してるんだな。これ、家でも描いてるんだろ?猫。よく描けてるよ」
哲司先輩は伏し目がちに眼球を左右に動かして、ページを丁寧にめくりながら言った。
トロが丸くなって寝ている絵だ。
「これはいいよ。よく向き合ってる。可愛がってるんだな」
クスクスと微笑みながらそう言う目元はどこか少年のようで、それでいて、まだ大人になれない男子高校生の蒼さを携えて私を見据えた。
「うちの猫です。トロっていいます」
私はトロを褒められたようで少し嬉しかった。
哲司先輩は目を細めて優しく微笑んでから、
「ところでさ、好きなの?小さな恋のメロディ」
机から降りると、窓際に移動して夕焼けをバックにそう尋ねた。
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