第3話 夕焼けと木漏れ日

 麗らかな空のお陰で少し上機嫌で学校に着いて、まだ新しい校舎の階段を登り、教室で後ろの席の未怜と挨拶をすると、未怜の明るい声で今日もたわいもない会話が始まる。


「そういえばさ、美術部の件考えた?」


 未怜はにこにこと笑いながら尋ねた。


「うん、ちょっと悩んだけど、昨日色々な絵を見て何だかすごく新鮮だったし、入部してみようと思う!」


 今朝の散歩はレンゲ畑を見ながらそのことで頭がいっぱいだった。


「やったー!そうしたら今日放課後に一緒に入部届けを出しにいこう!」


 未怜が心の底から嬉しそうに笑うので、私もつられて嬉しくなって笑った。



 この日の授業中は放課後のことばかり考えてしまい、時々先生の言っていたことが頭に入ってこなかった。

 ノートを取りながら、端っこに猫の絵を落書きしてみる。

 昨日未怜に教わった通り、瞳孔の形を意識したら猫っぽくなった。

 どことなく少しトロに似ている気がする。

 絵を描くことってこんなに楽しかったっけ。


 あっという間に放課後になったが、残念なことに日直だった私は先生にプリントの回収を頼まれてしまい、未怜は先に美術室へ向かうこととなった。


 集めたプリントを職員室に運び、少し茜色になった空の中旧校舎へと向かうと、美術室へ続く少し軋む廊下には生徒もまばらで、階段からは吹奏楽部の合奏の音が聞こえてきた。


(あ、詩的間奏曲だ。懐かしいな。ホルンのソロがいいんだよなぁ)


 昔散々練習した曲を遠くに聞きながら、入部届けを手に持って美術室へと急ぐ。

 このA4のわら半紙を提出してしまえば、もう合奏をすることもないと思うと少し後ろ髪を引かれる思いだったが、今は昨日の感動の方が上回っていた。


(やっぱり吹奏楽部もいいな。ホルンもしばらく吹いてないから、休みの日にでも吹いてあげないと)


 なんて浮かれたことを考えながら歩いていたら、窓から吹いてきた風に入部届けを飛ばされてしまった。

 あと数メートルで美術室なのに。

 仕方なく入部届けを拾いに廊下を戻ったのに、入部届けはまた風に飛ばされて、ドアが開いていた3年生の教室に入ってしまった。


(あ、大変!3年生、人が残っていないといいけど)


 後ろのドアから恐る恐る教室を覗くとほとんど人は居ないので、安心して入部届けを拾いに行こうとすると、唯一、前から5番目の窓際の席に男子生徒が座って本を読んでいる。

 どうやら集中しているらしく、幸い私には気付いていないようだ。

 入部届けを回収するため、気付かれないようにそっと、静かに歩いて教室に入った。

 男子生徒はまだ気がつかない。

 真剣な眼差しを持っている文庫本に向けている。


(何の本を読んでいるんだろう?)


 あまりに真剣に本を読んでいるので何だか興味が湧いてきて、白と青で彩られた表紙の本のタイトルを読み取ろうとして少しだけ近づいてみた。

 旧校舎は教室の窓も少し歪んで波打っていて、さっきより濃くなった茜色に照らされた男子生徒の横顔と、音楽室から少し遠く聞こえる詩的間奏曲の切なく叙情的なメロディーが合わさって、夕焼けで茶色く染まる髪が、文字を追う目の動きが、時々瞬きする長い睫毛が、ページをめくる細長い指が、私の心臓の鼓動を早めた。

 花が散り始めた桜の樹は歪んだ窓の向こうでまるで昨夜教科書でみた印象派の絵画のように背景を飾り、音楽室からのBGMもクライマックスを迎えたその時、教室の床がぎしっと鳴った。


(ヤバい!気付かれる!)


 入部届けをさっと拾って、夕焼けに照らされたせいか心なしか顔が赤くなっていた私は振り返りもせずに急いで教室を出て美術室へ向かった。



 まだ心臓がドキドキしている。

 私の入部届けを飛ばした風が入ってきた半開きの窓から少しの間外を眺めて、涼しい空気が頬の紅潮を沈めてくれたのを確認してから美術室のドアを開いた。


「遅いよー結奈―!」


 ドアの音で振り返った未怜がすぐに声をかけてくれた。

 他にも新入部員がいるかと思ったが、どうやら私たち2人だけらしい。


「麻生さんから話は聞いたわ。入部希望ね。浅井さん、ようこそ景星高校美術部へ」


 斎藤先生が髪を耳にかき上げながら笑顔で出迎えてくれた。


「おー!これで廃部はまぬがれたー!宜しく!えーと、浅井さん下の名前は?」


「祐一くん、まずは自己紹介からでしょ。私は2年で部長の菊池瑞希。こっちの男子が同じく2年で広瀬祐一くん」


 菊池先輩は私から入部届けを受け取る。


「浅井結奈さんね。結奈って呼んでいいかな?うちの部活、人数が少ないからみんな仲良くて下の名前で呼び合ってるんだ。私たちのことも下の名前で呼んでね!」


 瑞希先輩は笑顔で手を握ってきた。


「はーい、私は1年の麻生未怜です!中学も美術部でした!宜しくお願いします!」


「未怜はさっき聞いたよ!宜しくね!」


 未怜はいつもの調子でよく通る声で挨拶をした。

 誰と接する時でも変わらない態度、私は未怜のこういうところが好きだ。


「は、はい。1年生の浅井結奈です。えーと、中学時代は吹奏楽部に入ってました。美術のことはよく分かりませんが、一生懸命頑張りますので、宜しくお願いします!」


 緊張して声が裏返ってしまった。

 人前だとどうも緊張してしまう。


「俺も美術のことはよくわからなかったけど、何とかなってるから大丈夫!結奈、宜しく」


「祐一くんは本当に何も知らなかったもんねぇ」


 瑞希先輩はクスクスと口元に手を持っていき笑った。


「改めてよろしくね、結奈!」


「はい!よろしくお願いします!」


 あぁ、よかった。

 瑞希先輩も祐一先輩も2人ともすごくいい先輩だ。

 私も精一杯の笑顔を作ったが、緊張で少し引きつっていなかったか少し不安だ。


「はい、それじゃあ自己紹介も済んだところで、浅井さんは何がやりたいかしら?美術部といっても油彩、水彩、アクリル、彫刻とか、興味があるものはある?」


「私は中学では油彩やってたんだよね。高校でも油彩やるつもりだよ!」


 斎藤先生の質問に未怜が割って入る。


「はい。……昨日見た、モネとかムンクとかは油絵ですか?」


「そうよ。浅井さんは気に入っていたものね。それじゃあ油彩にチャレンジしてみたら?画材はまずは部のものを使ってみたらいいわ」


「ありがとうございます。あの、ちょっと、もう一度あの絵を見てみてもいいですか?」


「もちろん。自分が好きな作品を見つけて、何度も見ることが美術を始める第一歩よ。まずは思う存分見てきなさい」


 優しく笑うと、斎藤先生は未怜と話し始めた。

 美術部員の中では油絵じゃなく油彩と言うのか。


 私は壁に掛けられた様々な作品をじっくり眺めることにした。

 部員が少ないため美術室は思ったより広く、絵を立てかけるスタンドが数個並んでいて、描きかけの絵が乗っている。

 ぶつからない様に注意をしながら、教室の後ろへと進んで壁に掛けられた絵を見つめる。

 昨日見た「カササギ」と「声・夏の夜」をじっくりと見ていると、絵の中の世界に入り込める様な気がした。

 美術室の壁には他にも様々な絵が飾られていて、視線を廊下側から窓側まで移していくと、美術準備室へと繋がるドアが開いている。


 誘い込まれる様に中を覗くと、ベージュ色の布を被せた大きな絵が立てかけてあった。

 マジックの様に鼻を指す微かな絵の具の香りと夕陽の光線に浮かぶこまかい埃の舞う中で、私は一体どんな絵なのか好奇心が抑えられなくなりそっと準備室に入り、布をめくった。

 横の長さが私の左手の指先から胸の中心を超えて右の指先までの大きさのその長方形の絵は、どこかの森の中の景色の様だった。

 額縁に題名が書いてある。


「眠られぬ朝の木漏れ日」


 青々と茂った木々の枝や葉は、透き通る様な、しかしそれでいて鮮烈な青い空を割る様に巡らされ、その間から漏れる光が優しく森の中を照らしている。

 窓から差し込む強い夕焼けの光と対照的な、まるで深い森の中に迷い込んだ私を柔らかく包み込む様なその光は、蒼く、白く、どこまでも優しく、しばらくの間私に瞬きを忘れさせた。

 窓の外から野球部の練習の音が聞こえてくるその部屋で、その瞬間私は間違いなくその森の中にいたのだった。

 この光を描くのに一体いくつの色が塗られているんだろう、もっと近くで見てみたいと思い絵に近づこうとした時、


「こら!ここで何してる!?」


 突然の背後からの声に一気に現実に引き戻された。

 優しい光に包まれた森は幻の様に消え、冷たい表情をした古い偉人たちの石膏像や積み重ねられた画材に囲まれた、窓からの夕焼けが差し込む、電気も付いてない薄暗い美術準備室に戻ってきたのだ。



「びっくりした?あれ?さっき教室に入ってきた1年じゃん」


 急いで声の方向を振り返ると、声の主は笑いながら美術室へと繋がるドアに寄りかかりながらこちらを見ていた。

 窓のそばのドアには先刻よりも茜色を増した夕陽が差し込んでいて、その強い光に幻惑しながら、私は声の主を観察した。

 少しだけ長めの髪は栗色に輝いて波打ちながら細い首筋へと流れている。

 シャツのボタンは1番上だけ外されていて、そこに最上級生を示すブルーのネクタイが緩く締められていた。

 紺色のブレザーを羽織ってこちらを見つめるその顔は、ついさっき、入部届けを取りに迷い込んだ教室で本を読んでいた男子生徒だった。


「す、すみません!ドアが開いていたものだから、つい出来心で」


 私はつい謝ってしまった。

 何も悪いことをしていないのにすぐに謝罪するのは良くないと、未怜にいつも言われているのに。


「出来心?」


 男子生徒はうっすらと笑みを浮かべながら準備室に入ってくると、私の横を通り過ぎた。

 絵の具の香りで満たされた空間に、ふわりとした一筋の柑橘類の香りが漂う。

 背は私より頭一つ分くらい高く、いつの間にか握りこんでしまっていた布を私の手から優しく受け取ると森の絵に被せながら背中越しに話した。


「浅井結奈さんでしょ?そこで明莉さんたちに聞いたよ。何度か声をかけたんだけど、聞こえなかった?」


「え、すみません!全然気がつきませんでした!」


 また謝る。

 緊張と照れで顔が上気しているのを感じた。


「謝らなくてもいいって」


 男子生徒はこちらを向いて微笑みながら話していた。


「俺は3年の吉井哲司。ようこそ美術部へ。瑞希から聞いているだろうけど、うちは下の名前で呼び合うことになってるから、結奈って呼ばせてもらうよ」


「は、はい!1年の浅井結奈です。今日から宜しくお願いします!」


「美術部は初めてなんだって?」


 そう言って哲司先輩は美術室に戻っていったので、軽く返事をしてから私も後に着いていった。

 少し視線を上げると、ワックスでセットされた髪が歩くたびに軽く揺れている。


(…この人が内閣総理大臣賞受賞か)


 美術室ではみんながワイワイと話している姿を、斎藤先生が微笑ましそうに見つめていた。

 私たちが戻ってきたのに気がつくと、斎藤先生は年の離れた弟をたしなめる様に咎めた。


「吉井くん、昨日は体験入部だから絶対に来てねって言っておいたでしょう。もう!」


「そうですよ哲司さん、人数足りなくて大変でしたよ」


「ごめんごめん、昨日はちょっと用事があって。まぁ祐一や瑞希がいれば平気だと思ったし、それに明莉さんもいるし。結果的に2人も新入部員が入ったならオーケーでしょ」


「だから明莉さんと言うのは辞めなさい。斎藤先生でしょ!」


「はいはい、すみませんでした明莉先生」


 私はさっき哲司先輩が言っていた明莉さんって斎藤先生のことだったのかとようやく気がついて、親しげに話す姿から2人の間は特別な仲の様に感じられた。

 それにしても、廃部の危機を目前にして、新入部員確保の機会よりも大切な用事ってなんだろう。

 どうしてみんな怒らないんだろう。


(何だか適当な人なのかな、やっぱり部員が辞めてしまうのは哲司先輩にも原因があるんじゃないかな)


 なんてすぐ悪い方向に考えてしまうのは私の悪い癖だ。


「まぁまぁ、とにかくこれで全員が揃ったことですし、今年も1年間頑張って活動していきましょう!」


 瑞希先輩のまとめが入り、ちょうどいいタイミングでチャイムが響いて今日の活動はこれで終了となった。


(私、今日は結局何もしてなかったな。元はと言えば、日直のせいだ。でも入部届けが飛ばされなければもっと早く部室に来れたのに。あぁ、明日からは頑張らないと)


 一人で心の中で反省をしていると、髪を下ろした斎藤先生が近づいてきた。


「浅井さん、明日はまずは静物画のデッサンから初めてみようか。麻生さん、あなたの実力も知りたいし、まずは一緒に静物画を描くことから始めましょう」


「はーい!モチーフは決めますか?ベタにりんごとか?食べられるし」


 未怜はカバンを肩に掛けながら笑って答えた。


「そうね、初めは球体や立方体がいいけれど、物から始めてもいいかもね。そうしたらりんごにしましょう。私が用意するわ。果物ナイフもね」


「宜しくお願いしまーす!」


「宜しくお願いします」


 未怜と私は美術室を後にした。

 いつの間にか廊下の窓は閉められている。

 窓から見える景色は暗くなり始めていて、3階からは合奏の終わった吹奏楽部員たちの笑い声や、各個人で吹いているバラバラの旋律が聞こえてくる。

 私たちは旧校舎を出て昇降口で革靴に履き替えて自転車置き場まで歩いた。


「結奈、どうだった美術部初めての日!ってまだ何もしてないけど。うまくやっていけそう?」


 自転車を押しながら未怜が尋ねる。


「うん、何だか雰囲気も良いし、新しいことを始めるのってワクワクするから頑張ってみるよ!」


 実際、ここ2日の体験はとても新鮮だった。

 まるで初めてホルンの音が出たあの日の様に自分の世界が広がっていく感覚、久しく忘れかけていたものだった。

 準備室で見たあの絵もだれか有名な画家の絵なのか、未怜に聞いてみようと思っていたのに、運がいいのか悪いのかタイミングよく電車が来たため私は階段を急いで駆け上がった。

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