第2話 彩りの美術室
家に帰るとトロが出迎えてくれた。
私が5歳の時に拾ったから今年で10歳になる。
カリカリのフードをお皿に入れてあげる間、トロは私の顔をじっと見つめる。
私はこの瞬間がたまらなく好きで、ついついゆっくり食事の用意をしてしまう。
あまり焦らすとトロは恨めしそうな目で私をみて、
「にゃー」
と、いつもより少しだけ低めの声で鳴く。
「ごめんごめん」
カリカリを食べるトロの小さな額を撫でてから、制服に着替えるのも私の日課だ。
4月になり初めて制服に袖を通した時は、2ヶ月前までの受験勉強の苦しみと、1月前の卒業式の思い出を忘れさせるように、これから始まる新生活への期待と若干の不安を合わせたような匂いがした。
しかし1週間もするともう新しい服の匂いは消えて、うっすらとシャンプーや制汗剤の香りが移っていた。
高校生活の滑り出しは私の中では順調で、元々派手好きではない私は校則に則った範囲でおしゃれをして、新しくできた友人との時間を楽しく過ごしている。
麻生未怜は出席番号が私の後ろで、入学式の後に未怜の方から話しかけてきてくれた。
私は自分から人に話しかけるのが苦手で同じ中学出身の子のいない高校に通うのは少し不安だったのだが、未怜がその不安を拭い去ってくれた。
未怜は高校まで自転車で通っていて、底抜けに明るい性格かと思えば、引込み思案の私と気が合ったりもする不思議な子だった。
「ねえねえ、浅井さんも猫が好きなの?私も猫が好きなんだけど、うちはマンションがペット禁止で飼えないんだよね」
初めての会話のきっかけは猫についてだった。
それからは宿題のこと、放課後はどこに寄ろうかなど、些細な日常なのに未怜と話すと何だかすごく面白いことのように思えた。
いよいよ部活動を決める時期となりクラス全員に入部届けが配られた。
私の高校は今時珍しく全員何らかの部活動に所属をしなければならないため、机に向かいながらどこに入部をするか思いあぐねいていると、未怜が後ろの席から机に乗り出して顔を出す。
「結ー奈!私は美術部に入ろうと思うんだけど、結奈はどうするか決めた?もしまだなら美術部、一緒に見学してみない?」
未怜は小さい頃から絵を習っていたらしく、中学でも美術部に所属していたとのことだった。
私は中学時代には吹奏楽部でホルンを吹いていたのだが、この部活特有とも言える少しギスギスした人間関係が苦手で高校では別の部活に入ろうと決めていたところだった。
「でも私、絵のことってよく分からないし。それに、私、絵、下手くそだし」
照れ隠しに笑いながら英語のノートに猫の絵を描く。
動物だということは分かるが、犬か猫かはっきりしない。
我ながら本当に下手くそな絵。
「えー可愛く描けてるじゃん!それに絵のうまい下手なんて関係ないよ!描きたいと思ったものを描けばいいんだよ。小さい頃、何も考えずにクレヨンで落書きしたでしょ?あの感じ!うーん、でも、これはこうすると猫っぽくなるよ」
未怜が私の描いた猫の眼をさっと手直しを加えると、黒い点で表現していた眼は縦長の楕円形に修正され本当に猫になった。
「すごい!猫だ!」
未怜が調子に乗って、
「我輩は猫である」
なんて言うセリフをつけたので、私たちは2人で大笑いした。
笑いながら、私は未怜と一緒なら何だか気負わずに過ごせそうだと思って、誘いを受けることとした。
その日の放課後、未怜とともに美術部の見学に向かうことにした。
私たちの高校は古びた旧校舎と今年建てられたばかりの新校舎があり、私たち1年生は新校舎に教室があった。
美術室は旧校舎にあり2年生と3年生がそこで授業を受けている。
旧校舎は何と木造の建物で、よく言えば歴史を感じる重厚な作りで、悪く言えばぼろっちかった。
焦げ茶色の木に囲まれた薄暗い廊下は歩くたびに床が軋み、少し緊張しながら歩くと、中学3年の夏休みに学校見学に来た時、旧校舎の少し波打っている古いガラスを通して見た景色がただの葉桜なのに何故だかすごく幻想的に思えたものだったのを思い出した。
美術室は旧校舎の2階、3年生の教室の廊下を通った突き当たりにあった。
3階には音楽室があるらしく、階段の上から聴き慣れた木管楽器や金管楽器、メトロノームの規則的な音が聞こえている。
期待と緊張を飲み込んで、未怜とともに美術室に入ると壁には沢山の絵が飾られていて、大小様々な絵が独自の色彩を放つ中、私はその内の2枚に目を奪われた。
1枚目は真っ白な雪景色。
一面の雪景色を表現するのに、幾重にも重ねられた絵の具から伝わる温度感。
窓の外では桜が咲いているのに、この絵の中には冬が閉じ込められていて、冬の朝の冷たい空気を感じて思わず背筋を伸ばしてしまった。
柵の上にいる鳥は寒さに縮まりながらも、上がってくる太陽を楽しみにしているように見える。
2枚目は女の人が夜の湖畔に佇んでいる絵。
月の光が揺蕩う水面をバックに佇む女性。
表情は描かれていないけど、湖畔で涼んでいるのかな、なんて思ったり、声なんて聞こえるわけもないのにどこからか鼻歌のようなメロディーが聞こえてきた気がした。
今まで絵画なんて興味のなかった私には、この2枚の絵から伝わる感情を正確に言葉にすることはできず、ただ、ぼうっと眺めていると、美術の斎藤先生が体験入部の名簿を見ながら声をかけてくれた。
「浅井さん、だったかしら?この絵が気に入った?」
「…あ、はい。私は絵のことは何も分からないんですが、何ていうか、こう、引き込まれるような感覚?があって…。先生もこの絵がお好きなんですか?」
「そうね、とても好きな絵。雪景色の絵はね、クロード・モネの「カササギ」という絵。もう一つはエドヴァルド・ムンクの「声・夏の夜」。ほら、ムンクの「叫び」って聞いたことあるでしょ?」
斎藤先生は叫びのポーズを真似して見せた。
「えーと、浅井さんは中学時代には吹奏楽部に入っていたのね。うちは美術部で、私はその顧問なんだけど、うちでは絵の評価を私から伝えることはしていないの。音楽も美術も、受け取り方や解釈は人それぞれで、固定の評価に落とし込む必要はないと思っているのね。だから、浅井さんが今この絵を見て感じたことをうまく表現できなくたって、その気持ちを忘れずいることがとても大切よ」
窓の外のまだ少しだけ冷たい春の陽気の中、少し花びらの少なくなった桜をバックに話す斎藤先生はとても優しく微笑みながら話をしてくれた。
「実はね、うちの美術部、部員が3人しかいないの。3年生が1人、2年生が2人。ほら、あそこにいるのが2年生よ。女子が菊池さん。うちの部長さんよ。メガネをかけた男子が広瀬くん」
斎藤先生の視線の先には、体験入部に来た他の新1年と話す2人の姿があった。
菊池先輩は小顔でロングボブの髪型がとても似合っていて、ややゆっくりとした口調で話しかけている顔には優しい笑みが浮かんでいる。
広瀬先輩は冗談を言って笑いながら話しているようだ。
「え、2年生が部長さんなんですか?3年生の先輩は?」
「吉井くんは幽霊部員だから今日も来てないわね。体験入部があるから絶対来るように言っておいたのに。部長とか面倒だからやりたくないって言って、それで菊池さんが部長になったのよ。とにかくね、今年新入部員を確保しないと廃部の危機なのよ。浅井さん、期待して待っているわよ」
笑いながらそう言い残して、斎藤先生は他の生徒に話しかけに行った。
(廃部の危機か、もしかしてにこにこ笑っている先輩達、実は怖い人だったりするのかな)
体験入部とは名ばかりで、その日は部の説明と見学だけで終わった。
未怜と校舎を出るともう辺りは薄暗くなっており、昼間の陽気とは裏腹に少し寒いくらいだった。
「結奈、美術部どうだった?私はやっぱり入部しようと思うんだけど」
駅までの道中、歩きの私に合わせて未怜は自転車を引きながら尋ねた。
自転車のライトが車輪の動きに合わせて忙しそうに瞬いている。
「うん。すごく素敵な絵があったし、斎藤先生も先輩達も優しいから入部しようかなって思っているんだけど、部員が少なくなって廃部になりそうっていうから、何だか入部すると先輩達が豹変して厳しくなったりするのかな、とかちょっと不安」
「あーそのことか、それね、多分3年生の先輩のせいだよ」
私がうつむきながら答えると、未怜は何でもないことのように軽く口にした。
「え?どうして?」
「いや、先輩のせいではないか。今日は来てなかったけど、吉井先輩って言ってね、1年生の時に高校生国際美術コンクールで、内閣総理大臣賞を取ったすごい人がいるんだよ」
「内閣総理大臣賞!?コンクールのことはよく知らないけど、それってめちゃくちゃすごいんじゃない?でもその先輩と部員が少ないことに何か関係があるの?」
私はつい興奮して質問してしまった。
「うん、本当にすごいと思うよ。私もコンクールの作品見に行ったんだけど、受賞作、圧倒的だった。それでね、私も小さい頃から絵を描いてきたから、自分の絵には結構自信持ってたんだよね。…でも全部打ち砕かれたように感じた。こんな絵を描く人にはかなわないって。それでも私は絵を描くことが好きだから今でもこうやって描き続けてるんだけど、中には自分との実力の差を見せつけられるとやる気が失くなっちゃう人もいるんだよ」
「そうなんだ」
「中学の時も結構そういう子いたよ。うちの美術部も一昨年は結構部員がいたみたいなんだけど、吉井先輩の絵と比べちゃってみんな辞めちゃったんだって。吹奏楽部はそういうのなかった?」
いつの間にか駅の入り口に着いた私たちは、時々ちらちらと点滅する街灯の下で話を続けた。
「そういうことかぁ。吹部は何ていうか、合奏だし。…でも、コンクールに誰が出るかとか、ソロを誰が吹くかとかで揉めることはあったかな?でも楽器を辞めようと思ったりする子はあまりいなかったよ。今日いた2年生の先輩は残ってるんだね」
「もちろんみんながみんな自信を失くすわけじゃないしね!私も吉井先輩の絵をみて、創作意欲が湧いてもっと頑張らなくちゃって思ったし、先輩達もそういう感じなんじゃないのかなぁ」
なるほど、と私は思い、電車のアナウンスが聞こえたので未怜と別れの挨拶をして改札への階段を走って登った。
ギリギリ間に合って乗れた電車の中で、私は少し息を切らしながら窓の外で流れていく街灯をぼーっと眺めていた。
(内閣総理大臣賞か、想像もつかない。何だかすごい人がいるんだな。吉井先輩、いったいどんな先輩何だろう。それにしてもみんな絵が好きで入ったんだろうし、部活を辞めちゃうなんて、何だかもったいない。吉井先輩が部室に来ないのも、もしかしてみんなに気を使っているのかな。それにしても今日教えてもらった絵は素敵だったな。モネのカササギと、ムンクの叫び、じゃなくて声・夏の夜か)
電車はいつの間にか門沢橋に着いて、自転車の灯りを点けて田んぼだらけで薄暗い道を通り帰宅した。
ただいま、と玄関を開けるとトロが出迎えてくれた。
私は今まで美術に対して特段興味がなかった。
正確にいうと吹奏楽部の練習が忙しくて他のことに気を回すことができなかったのだ。
(陳腐な表現だけど、絵を見て感動する、なんて本当にあるんだなぁ)
その日私は、高校でもらったばかりの美術の教科書を読んでみた。
まだほとんど使用していないその本はページがくっついてめくりにくい。
色々な絵があるんだなぁとページをめくっている内に、吸い込まれるような雪景色、夏の夜の湖畔に揺らぐ月明かりを思い出しながら、いつの間にか眠りについた。
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