第4話 白黒のりんご

 4月第2週の金曜日。

いつもの様に散歩の後にトロに朝ごはんをあげて、自転車に乗って駅へと向かった。

 いつもと同じ時間の電車は今日も時刻表通りに運行している。

 いつもと同じ顔ぶれの乗客、流れる景色もいつもとさほど変わらない。

 けれど心なしか心が躍っている様に感じるのは、今日から美術部で絵を描くことができるという期待からだろうか。

 普段は不快な電車での通学時間も、気の持ち様一つで全く違った時間を過ごせるのだ。


 電車の窓からは柴犬がそっちには行きたくない、留まろうと踏ん張っているのが見えて、首輪で首の皮が寄せられて何だかライオンみたいに見えて可愛かった。

 毎日同じ時間の同じ電車の同じ車両の同じ位置に乗り同じ景色を眺めていても、同じ日は1日とてなく、日々新しい発見に満ちているのかもしれない。

 


 学校に着いてからは未怜とたわいもない会話で盛り上がり、放課後ついに美術部の時間がやってきた。


 美術室のドアを開けるとまだ誰も来ておらず、校庭から聞こえる生徒たちの笑い声が旧校舎の木造の壁に吸い込まれていく。

 するとすぐに斎藤先生がやってきた。


「あら、早いわね。2年生はもう少しかかるみたい。先に始めてようか。はい、りんご、持ってきたわよ」


 斎藤先生は小さめの台を持ってきて、その上に白い布を敷いてりんごを乗せた。


「麻生さんは自分の道具を持ってきたのね。そうしたら浅井さんはこれを使うといいわ」


 準備室から新品の鉛筆とスケッチブックを持ってきてくれた。

 濃い緑と山吹色が表紙のスケッチブック。

 鉛筆なんて持ったのは小学生以来で、懐かしい木の感触と匂いはまだ心のどかかで不安を抱える私に安心感を与えてくれた。


「そうしたら、今日は2人ともこのりんごを描いてみましょう。浅井さん、デッサンの基本は観察よ。これはただのりんごだけど、普段気にしていないことでも観察をすることで見えてくるものがあるわ。まずはよくみることから始めてみましょう。「見る」じゃなくて「観る」よ」


(なるほど、「観る」か)


 りんごを見ることや食べることはあっても、観察したことは今までなかった。

 白い布の上に置かれた赤いりんごはただ赤いのではなく、光の当たり方で白く輝いている部分もあれば、ヘタの付近や下の方は少しずつ黄色に近いグラデーションを作っている。

 りんごといえば「丸」と思っていたが、実際には、正円ではなくヘタ側がやや大きな弧を描いていた。

 沈むにはまだ早い太陽が作るりんごの影は、りんごに近いほど濃く、遠いほど薄く布に溶け込んでいる。

 隣では未怜が早くも筆を進めていた。


(どこから手をつければいいんだろう)


 デッサンなんてしたことのない私は、りんごのどの部分から描き始めればいいのか途方に暮れていた。


「観察、できた?よーく観通すの。りんごの中を芯の走行、周りの種、蜜。表面だけがりんごじゃないわ。硬さはどれくらい?梨とはどっちが硬いかしら。皮の表面もよくみると傷があったりするわ。とにかく観察をするの。観察と同時に想像もしてみて。これから描くのは「りんご」というものではなくて、浅井さんの眼の前にある「このりんご」よ」


 斎藤先生は腰を曲げたので、椅子に座った私の顔の隣に先生の顔がきた。

 うっすらと香水が香り、ちらっと眼を向けると先生の眼はりんごをまっすぐに見つめていた。

 私も改めてりんごに眼を向ける。

 観察。観察。

 

 私は窓から光が差し込んでいる側からりんごの輪郭を画用紙に描いていく。

 少し膨らんだ緩やかなカーブ、布との設置部位。

 たった1本の線を引くのにこれほど集中力を使うとは思わなかった。

 緊張が抜けて思わず深くため息をつく。


「うん、いい線が引けたわね。鉛筆の持ち方だけどね、好みもあるんだけど字を書くときみたいに持つのではなくて、いろいろな持ち方を使い分けるといいわ」


 先生は様々な持ち方を実際に握って見せた。

 先生のスケッチブックにはみるみるうちにりんごが現れてきていた。

 未怜も自分の世界に入って黙々とりんごを落とし込んでいる。

 私のは線を1本引いただけでまだまだりんごとは言えない。


「浅井さん、誰かの描いた絵を参考にするのはあまりよくないわ。うまく描けなくてもいいの。あなたの絵で、あなただけのりんごを描いてみるのよ。浅井さんに視えているりんごと、私や麻生さんが視ているりんごは同じものだけど別のものなのよ。さぁ、集中集中!」


 そう言われて、私は再びりんごと目を合わせた。

 少しずつ少しずつ、りんごを写し取っていく。

 消しゴムでたまに修正を加えながら、輪郭、陰影、感触を写し取ろうと必死になってデッサンをした。


 私のりんごが完成した頃には、気がつくと窓からの光は色味を増して、りんごの影は長く伸びてきていた。

 心なしか描き始めた時よりもりんごの表面が赤くみえる。


「うん、できたわね。よく描けているわよ。言った通り、しっかりと観察したみたいね」


「はい、こんなにりんごとにらみ合ったのは人生で初めてだと思います」


 私はいつの間にか鉛筆で黒くなった右手で前髪を梳かしながら答えた。


「結奈、できた?見せて見せて」


 未怜の右手は不思議と私ほど汚れていなくて、上達すると色々な違いが出てくるのだなと思った。

 気がつくと、瑞希先輩、祐一先輩が来ていて未怜と一緒に私の描いたりんごを見ていた。


「おー、いいじゃん!俺が初めて描いた時より全然うまいよ!」


「うんうん。よくりんごを表現できてるよ。ちゃんと観察したのがわかるよ」


 2年生の先輩達も褒めてくれた。

 お世辞と分かっていても何だか無性に嬉しくて照れ臭い。


「技術はね、後からついてくるから。美術は表現なのよ。自分が表現したいことを、表現してくれる方法で創造していくの。だから、まずは観察が大切よ。これからは、身の回りのものが全く違ってみえてくるわよ。見過ごしてきた教室の柱の木目、道端に咲いた花の花びらの一枚一枚、自分の手、目の前の人の表情。今まで見えていなかったもの、いえ、見ようとしてなかったものが見えてくると、世界がどんどん広がるわよ。楽しみね」


 窓から刺す夕焼けの中で優しく微笑む斎藤先生は絵を描いている時とは別人の様だった。私の絵はまだまだ下手くそだけど、画用紙の上のりんごも嬉しそうに見えた。


「ありがとうございます。私、これからももっと絵を描いてみたくなりました!」


 高校1年生にもなると社交辞令も覚えて中々自分の意見も言えなくなるが、この時出た私の言葉は本心からのものだった。

 せっかく美術部に入ったのだから、うまくなりたい。

 たくさん練習しよう。

 ふと気がつくと、哲司先輩の姿がない。


「そう言えば哲司先輩、今日は来てないんですね?」


「あー、今日は哲司さんあれの日じゃなかった?」


「そうそう、月、水、金はね。哲司先輩、毎日は来てないけど、今度来た時にそのりんご、見せてあげるといいよ!多分、火曜日には来ると思うから」


 微笑みながら先輩達はそう言った。


「そうだ結奈、明日は土曜日でしょ?予定空いてたら一緒に画材屋さんに行ってみない?鉛筆とかスケッチブックとか必要になるし!」


「あ、未怜いいね!私も行きたい!ちょうど絵の具が切れてきたころだったから。ねぇ私も一緒に行ってもいい?」


 未怜の提案に瑞希先輩も乗ってきた。


「ぜひ一緒に行きたいです!色々アドバイスしてください!」


 私もその提案を快く受け、明日の朝10時に小田急線町田駅南口改札で待ち合わせることとなった。

 今日描いたりんごの絵は、斎藤先生がスケッチブックから切り取ってくれた。


「浅井さん、あなたが初めて描いた作品よ。これから先、沢山の絵を描くと思うけど今日の気持ちを忘れないでね。スケッチブックに向かうあなたのまっすぐな眼差しはとても素敵だったわ。描き上げた時の達成感、絵を描く喜び、いつかあなたを支えてくれる時が来るわ」


 斎藤先生は優しく微笑みながら、少しいびつにゆがんだ白黒のりんごを手渡してくれた。

 モノトーンなのに、りんごは何だか赤くなっている様に思える。

 まるで緊張が解けた私の頬の色と同じ色をしているようだった。

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