第七十八話『天焦がす獣の咆哮』

「なあ、君」

「……マリアナ、さん?」


 降る雪が強くなりつつある戦場、僕を守るようにして描かれた弧は薄い、されど頑丈な膜を張り獣の攻撃から僕を守った。

 戦場に新たに現れたのは、顔なじみ。


「君がいるところになら、いつでも駆けつけるよ」

「来るのが、少し遅いですね」


 というのもアブラナさんはもう力尽きてしまっていて、雪に埋もれている。

 まだ、死んでいないことを祈るばかりだ。


「何してるんですか」

「ん?準備だよ、準備」


 杖を雪上に突き立て、鼻歌まじりにその準備とやらに取り掛かっている。鼻歌の選曲は歓喜の歌、交響曲第9番。

 いったい、どういった心情なのだろうか。


「猫が一掃しに来るからね」

「はぁ!?」


 歓喜じゃない、悲哀だ、悲哀。

 猫が通る場所には、塵も残らない。敵も見方も関係なく、等しく抹消される。

 正しく天災。


「大丈夫さ、彼女も手加減を覚えたからね、場にいる味方のことも考えて、うまくやってくれるさ」

「うまく、ですか……」


 適当な返しは、余計に僕の不安を煽る。

 しかしうねる触手は町を蹂躙している、町が触手に飲み込まれるのも時間の問題だった。

 触手の下敷きになって死ぬか、猫の巻き添えになって死ぬか。

 うーん、なかなか迷うところではある。


「にゃっとぅ!!」


 猫が来た。

 狼の巨体を踏み付け、どこからともなく現れた猫。その影響で巻き起こった突風が、吹雪を掻き乱した。

 勢いの増した吹雪が、身体を刺して痛い。


「バリアから出ないようにね」

「はいって言おうとしましたけど、あ、そうだ、アブラナさん」


 吹雪で視界が真っ白な中、アブラナさんの姿をうっすらと確認できた。まずい、あのままだと雪に埋まるよあの人。

 低体温症、窒息死。それより先に、猫が空の彼方に吹っ飛ばしそうだけれど。


「僕が、連れてきます!待っててください!」

「あ、ちょっと志東くん!」


 迷っている暇はなかった。

 マリアナの制止を振り切って、僕は雪上を走った。触手が邪魔だ、雪に足がとられる。

 前が見えない、アブラナさんはどこだ、雪に完全に埋まってしまったのか。


 ここら辺に、居たはずだ。手で雪を掘るしかない、既に手の感覚は無くなっている。感覚が無いわりには手の痛みをひしひしと感じる。


「アブラナさん、アブラナさんっ!」


 ようやく見つけたアブラナさんは、生きてはいるみたいだけれど虫の息だ。

 急いでマリアナの元へ連れていかなければならないのに、重い。間に合うだろうか、気を失っている人間を運ぶのは少し大変だ。


 僕はガタイが良くない、どちらかというと細身だ。こういう時ばかりはヴァニタスさん辺りが羨ましいと思う。


「にゃぁぁぁぁあ」


 空気中の魔力が、沸騰したかのように揺れている。雪がいっそう強く吹雪き、烈風は猫を囲うようにして全てを飲み込んだ。

 膨大なエネルギーが猫に蓄積されていく、鳥肌立って皮膚がピリピリして言い知れぬ漠然で莫大な不安感が襲う。


 それに気を取られていたせいで、黒い触手が自身を潰そうとしていることに気が付かなかった。

 気づいた時には、僕に思いつく範囲の選択肢が全て失われていた。


「あのさ」

「マリアナ」

「気を失った人間ひとりを運ぶより、私を運んでくれた方がよかったんじゃないかな」


 顔を上げるとマリアナが立っていた、振り下ろされた触手を杖で払い除けたのだ。声色には、静かな怒りがほんの少しだけ込められていた。


 何か気の利いたことを言おうとしたけれど、言葉に詰まる。そんな僕にマリアナは目を合わせようともせず、ただ杖を地に突き立てながら、静かに言った。


「一応言っておくけど、私はそんなに重くないからね」


 その言葉からは、静かな怒りは消えていて。残っていた悲哀と、寂しげな感情が滲んでいた。

 こういう時に、何を言っていいのか分からなくなる。


 何と言うのが正解なのか、何と言えば穏便に済ませることが出来るのか。きっとそういうことばかり考えているから、いつまで経っても答えが出ないんだ。

 何も言わないというのが、ある種の正解なのかもしれない。


「くる」


 マリアナがそう言ったのは、猫が高く飛躍した直後だった。

 そして、何度か経験したことのある感覚が訪れた。何度経験しても、慣れることの無い、感覚。

 五感が全て停止して、身体が熱く冷えきって、背筋に高温なのか低温なのか判別のつかないものが突き刺す感覚。


「にゃぁぁあ、おーーーーーーん!!!!!」


 そんな咆哮が聞こえて、すぐ後のこと。

 吹雪よりも白い光が、無音と共に、僕を無理解へ引きずり込んだ。

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