右隣の住人

貴舟塔子

右隣の住人

 どうして唐突にあんな夢を見たのだろう。とても非現実的で情動的な夢だった。アイツのあんな屈託のない笑顔を見たのは小学校三年生の時以来だ。

 あの頃はいつも悪戯っ子みたいな笑みを浮かべてあどけなさが残る一方で、誰よりも物知りで頭が良かった。正義感が強くて不正が大嫌いだったが、病弱で学校を休みがちだった坂東由佳が隣の席だった間、アイツは彼女が自分の答案用紙をカンニングしているのを分かっていて黙って見過ごしていた。そんなアイツの生来の優しさをふと思い出した。それからというもの何かにつけてアイツのことを意識してしまう。


 小学校五年生の時に母親が男を作って出て行った。それからアイツは変わった。十三歳になったばかりなのに、既に少し大人びた顔つきをしていた。登下校はいつも一人。しかも通学路ではない私道を勝手に使ってショートカットしている。人付き合いが無いわけではないが、馴れ合ったりもしない。ただ自分の都合を最優先するだけだ。授業中はいつも気怠そうで、居眠りばかり。授業態度は悪いのにテストの成績だけは良いものだから教師たちからはすこぶる嫌われていた。アイツも大人が嫌いだった。大人のことを心底馬鹿にして憎んでいた。アイツは大人の誰からも救われることはなく、しかしながら大人になることを強いられた。何もかもが大人の身勝手な都合だ。


 三学期の体育の時間、雨で校庭が使えなくて体育館で急遽バドミントンをすることになった。みんな真面目にスマッシュの練習をしている中、アイツは相変わらずつまらなそうな顔でサボっていた。誰かがアイツの名前を呼んだ。その呼び声にアイツが反応して振り返った瞬間だった。

 少し鈍い音がした。スマッシュの素振りをしていた山科恵美のバドミントンのラケットのフレーム部分がアイツの右眼を強打した。アイツはその場に倒れ込んで声を発することもなく悶えていた。右眼から涙が止めどなく溢れ出ていた。痛くて泣いているわけじゃない。眼球を保護するための生理現象だった。

 山科恵美はアトピー性皮膚炎持ちで、夏でも長袖のジャージを着る。それが原因で一部の男子から虐めを受けていた。狭量な虐めっ子たちは自分が普通だという基準を持ち、その基準から大きく外れた異質なものを排除しようとする。今回の件も虐めっ子にとっては山科恵美をさらに追い詰めるための格好の口実になった。アイツは山科を責めなかったが、山科を庇いもしなかった。それは自分の役割ではないと判断したのだろう。確かにそれは大人の役割だ。


 それよりもアイツの右眼の怪我は深刻だった。網膜剥離と緑内障。しかも出血箇所が悪くて手術することができず、自然治癒力に頼るしかなかった。アイツの右眼はいつも出血していて、たまに目薬を刺して固まった血液を溶かしていたが、その真っ赤な右眼は異様だった。アイツはそれを嫌って眼帯で右眼を隠すようになった。

 当初は半年ほどで自然治癒するだろうと言われていたが、三ヶ月ほどして結局アイツは右眼を失明した。利き目だった右眼を失い、左眼だけで物を見るようになってアイツは狂っていった。光の刺激にさいなまれるようになった。光過敏からくる頭痛で入退院を繰り返したが、画像診断などでは異常は見られず、何の治療の手立てもなかった。

 学校帰り、あまりの頭痛に耐え切れず左眼をも抉り出して潰そうとしているアイツを見たとき、何故だか私は胸が高鳴り涙を流していた。声をかけずにはいられなかった。


ゆずる? 大丈夫……、じゃないよね」

「群発頭痛かもと言われたけど、どんな痛み止めも効かないんだ。光が目に突き刺さる。左のこめかみから痛みが頭全体に拡がる。こんなのがずっと続くなんて耐えられない」


 強がりなアイツが自分の弱さを初めて私にさらけけ出した。アイツは心が折れかけていた。私は無力だった。アイツに何をしてやることもできなかった。


「オレが怪我をしたとき、親父は何て言ったと思う?」

「何て?」

「『避けられなかったお前が悪い』って。オレは何も言い返せなかった。オレのせいで山科に嫌な思いをさせた」

「山科さんの不注意だってあるよ。だってあんな至近距離でスマッシュの素振りする? 危険だよ」

「まぁ、別にいまさらどうでもいいよ。頭痛さえなかったらなぁ……」


 それからアイツは髪の毛を伸ばすようになった。前髪が左眼にかかると負担になるからだ。元来女子のような中性的な顔立ちだったが、眼帯にロン毛姿、みんなから気味悪がられ誰もアイツに近付かなくなった。


 アイツは笑わなくなった。私にはそれがとてつもなく心痛かった。アイツの子供のような笑顔が好きだったのだと気付いた。

 アイツは確かに不真面目だけど、誰かを傷付けたり弱い者虐めなんてする奴じゃないし、自分が避けられるようになっても一々気にも留めない強さも持っている。なのにどうしてここまで苦しまなくてはならないのだろう。アイツが一体何をしたというのか?


 アイツはただでさえ授業をサボりがちだったが、左眼を休ませなければならなかったので、連続して授業を受けることができなくなった。授業を休んでアイマスクとヘッドフォンを付けて音声だけで一人で勉強をしていた。体育の授業も一人だけ別行動だった。

 虐めっ子たちはこぞってアイツの右側を狙った。廊下でわざと身体を打つけてきた。アイツは華奢だったが背丈が高くて喧嘩は強かった。だが一人じゃ何もできない虐めっ子たちは徹底してアイツの右の死角ばかりを狙った。

 私はそれが我慢できなくて担任に訴えた。だが担任はアイツをこれっぽっちも守ろうとしなかった。日頃の行いが悪いからだと相手にしなかった。

 そして今度はアイツを庇った私が揶揄からかわれるようになった。


庵原いはらさぁ、二階堂のこと好きなんだろ?」

「寄ってたかって障害者を虐めるだなんて、卑怯で最低よ。目障りなの。見ていて吐き気がする。人間のすることじゃない」


 私は堂々と自分の意見を述べた。こいつらはどれだけ自分が愚かで醜い行為をしているかまったく無自覚だ。それを諫める大人も誰もいない。アイツが嫌悪している醜い世界そのものだった。

 誰が誰を好きだのと子供じみた恋愛話が大好きな中学生の間で、私とアイツとのことは瞬く間に噂になった。

 美術の時間だった。アイツは目を酷使してしまうから絵が描けなくて、いつものようにヘッドフォンを付けて聴覚情報に頼って一人だけ別の勉強をしていた。


「二階堂君は庵原さんの絵しか描けないそうです」

「庵原さん、モデルになってあげなよ」


 虐めっ子グループの粕谷たちが授業中に堂々と私とアイツをいじり出した。それに乗じて面白がってクスクスと嘲笑う声があちこちで漏れていることが堪らなく不愉快だった。

 だがアイツはヘッドフォン越しに粕谷が何を喋っていたのかをしっかりと聞いていた。ヘッドフォンを外してアイツは静かに席を立った。察した美術教師が慌てて止めに入った。


「止めろ二階堂」


 アイツは凍り付くような冷たい声でそっと答えた。


「止めるわけないでしょう」


 アイツは私たちを茶化した粕谷の顎を体重をかけた右の拳で勢いよく打ち抜いた。ストレートの直撃を受けてよろけた粕谷は一瞬にしてヒートアップして、凄みのある声で啖呵を切った。


「テメェ、もう一方の目も潰してやるよ!」

「やってみろよ!」


 被せ気味にアイツも凄んだ。完全にアイツが圧倒していた。その様が私は怖かった。アイツが粕谷にタックルを決めてそのままマウントを取ると、まるで粕谷の援護をするかのように急にみんなが止めに入った。


「二人とも止めろ!」


 アイツは強引に引き離されるまで冷静に粕谷の顔面を殴り続けていた。粕谷は興奮して呼吸が乱れ鼻血に塗れていた。受け身を取り損ねて右腕の骨にひびが入っていた。

 だがアイツはそれだけで済まさなかった。その日の下校途中、アイツは一人で粕谷を待ち伏せしていた。


「逃げんなよ。もう一本の腕はきっちり折ってやるから、『やってみろよ』って言い返せよ」

「ふ、ふざけんなよ」


 粕谷は及び腰になっていたが、利き腕を使えない彼をアイツは容赦無く叩きのめしていた。一方的に痛めつけていた。私はとても見ていられなくて止めに入った。


「讓、止めてよ!」

「売られた喧嘩を買っただけだ」

「もう勝負はついたでしょ!?」

「だとよ。おい、聞いているか。勝負はついたのか?」

「わ、悪かったよ……」


 痣だらけの顔をした粕谷が消え入るような声で自分の非を認めると、アイツはそそくさと立ち上がって一人で帰っていった。


「大丈夫? でも粕谷が悪いよ。もうアイツに構うのよしなよ。誰も得しないよ。早く病院行きなよ」

「……」


 粕谷は黙っていた。私は彼に羞恥心というものがあることを願った。


 その日以降ますますアイツには誰も近付かなくなった。教師もクラスメイトも話しかけもしない。腫れ物のような扱いだ。だけどアイツにとってはかえって過ごしやすそうな日々だった。

 いつからか学校にKindleを持ち込んで、ダークモードで独学や読書ばかりするようになった。アイツは一人、自分だけの世界を構築して楽しんでいた。私もそんなアイツの世界の住人に加わりたかったのかもしれない。私は一人で下校するアイツを追いかけてなるべく一緒に帰るようになった。決まって私はアイツの右側を歩いた。いまさら周りに茶化されてもどうでもよかった。

 

「ねぇ、讓。恋愛とかしてる?」

「学校中から忌み嫌われているのに」

「そうかな? 女子の中には讓のことかっこいいっていう子もいるんだよ」

「眼帯ロン毛の陰キャが?」

「眼帯ロン毛の陰キャがだよ」


 アイツはほとんど表情は変えなかった。最初はウザがられるのではないかと不安だったが、心なしか私との会話を楽しんでくれているように見えた。


「左眼に少しは慣れた?」

「まったく。蛍光灯はもちろんLEDの光すら駄目。日の光も。家に帰ったら真っ暗な部屋に引き籠るんだ。本当は遮光用のサングラスが必要なんだけど、そんなもん付けて学校に行けないだろ」

「先生には説明してあるの?」

「診断書は渡してある」

「じゃあ、いいじゃない。光に悶え苦しむよりもサングラス使いなよ」

「似合わないから嫌なんだ。それに眼帯を付けたままじゃサングラスをかけれない」

「そんなこと気にしていたの?」


 似合わないサングラスをかけるくらいなら悶え苦しむ方を選ぶアイツのことがかわいいと思えた。アイツなりの強がりと矜持なのだろうか。


「とっくに失明しているのに出血だけは止まらない。いちいち目薬刺すのも面倒になってきた」

「もう笑うこともできなくなったの?」

「笑うほど愉快なことなんてあるか。いやあったな」

「何?」

「つい先日夢を見たんだ。夢の中ではオレは両眼がきちんと見えていて、それで」


 アイツは一呼吸入れた。


「それで?」

由比ゆいの笑顔を見ながら笑っていた。お前の笑顔なんて長いこと見てないのに」


 アイツは少しも照れる素振りを見せず、目を閉じて真剣な口調でそう言った。本当は何も変わっていなかった。ど天然で不器用だ。


「見せてあげようか」


 私はアイツの正面に歩み寄った。そしてそっと眼帯を外した。アイツの右眼は凝固した血液でブラッドルビーのように真っ赤になったままだった。私はアイツの両目をしっかりと見つめてにこりと笑ってみせた。アイツも私を見て笑った。私はアイツの笑顔を久しぶりに見ることができた。あの悪戯っ子みたいなキュートな笑顔を。


「由比、お願いがあるんだ」


 仄かに頬を紅潮させたアイツが、らしくない言葉を口にした。明らかに今度は照れていた。それを隠そうともしていない。私も自分の胸の鼓動の脈打つ間隔が短くなっていくのが分かった。初めての経験だった。


「なぁに?」


 少しあざとく粘り気のある言葉使いでアイツの願い事を聞いてあげることにした。アイツがこれから願うことを私は受け入れる覚悟ができていた。


「オレの左側を歩いてくれないか」


 その言葉は歪曲的ではあったが、私には何を意味するのかを瞬時に察することができた。そして急にアイツのことがより愛おしく思えてきた。


「嫌だ。私は讓の右側を歩く」


 流し目は許さない。私をしっかりと正視して欲しい。だから私はアイツの右側に立つ。

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