第8話 その奇妙な店は、空と雲の隙間にありました

『あわてんぼうの、サンタクロース』


キャンドルの炎が揺らめくリビングに、かなでのやわらかな歌声が電話機のスピーカーを通して室内に流れ始めた。

息を吸い込む際の呼吸音は、鼻炎に悩まされていた凛子が口呼吸をしてしまう時の癖で、正博にとっては愛おしい響きだった。


「あわてんぼうの、サンタクロース。クリスマスまえに、やってきた」


翔太がもっと幼い頃、クリスマスが近付くと凛子はこの歌を歌っていた。翔太を抱っこして微笑むその表情が正博の脳裏に浮かぶ。

翔太は透明な涙を零してはいたが口元は固く閉ざされていた。

野沢は翔太を抱いたまま、かなでの歌声に合わせて身体を揺らした。


「いそいでリンリンリン。いそいでリンリンリン。鳴らしておくれよ鐘を。リンリンリン。リンリンリン。リンリンリン」


凛子の女友達は皆泣いていた。

凛子は今まさにこの場に存在している。

匂いも体温も、記憶の全てもひとりひとりに存在している。それは生きているのと変わらなかった。


「翔太~」


翔太はサンタクロースの野沢の胸に顔を埋めてちいさく返事をした。


「ぅん」


「翔太~」


「ンん」


野沢の胸元が翔太の涙で熱く濡れていく。

それはじんわりと広がっていった。


「サンタさんにね、お願いしたんだあー。翔太~、ずぅっとがんばってくれたんだよねー」


「ぅン」


「だからね。神様がね。ごほうびくれたんだよ翔太。クリスマスだもんね」


翔太は顔をあげた。


「ママはどこにいるの?」


「翔太を見ているんだよ。おそらと、くもさんのまんなかかな」


「そこにいるの?」


「そうだよ。ママの夢を叶えてくれるお店やさんがあるんだ。そこから翔太を見ているんだよ」


お店やさんと言う表現は、翔太がついこの前まで使っていた言葉だった。


「ママねえ。翔太のおかあさんに生まれて、とーってもしあわせだったなあって思っているの。いつかきっと、また生まれかわれるなら、翔太のおかあさんで生まれたいなって思っているんだよ」


「ぅん」


「だからね、翔太」


「ンん」


「やさしい翔太のままでいてね。そして時々でいいの。ママのことを思い出して欲しいな」


「ンん」


翔太は腫れ上がった瞼を何度も擦った。

野沢は翔太を床に降ろし、その逞しい背中を撫でながらサンタクロースとして言葉をかけた。

あまり長い時間を費やしてはいけないと、とっさに思ったのだ。


「翔太くん。ママに言わなくちゃ!」


翔太はこくりとうなずいて大声で言った。

抑えきれない感情と、ママとの想い出全てをその言葉に詰め込んだ。


「ママあ!」


翔太は思いっきり深呼吸をした。

ほっぺたがまんまるく膨らんだ瞬間、翔太の想いは弾け飛んだ。


「ハッピーバースデー!」


穏やかな時間が流れてゆく。

ひとが存在しなくなる時期は、想い出が完全に消えた時 ー それは、その人と関わった沢山の人間が命を全うした瞬間だということを正博は感じ、思わず叫んでいた。


「凛子!」


正博のからだは震えていた。

容赦無く、涙が溢れ出ていた。

ずっと我慢をしていた。

限界だった。

翔太と同じく、想いの全てを言葉に詰め込んだ。


「メリークリスマスイヴ」


凛子の声がハッキリと聴こえた。


「あははー。メリークリスマスイヴ。正博さん」


紛れもなく、凛子は生きていた。


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