ヤキメシ

みつお真

第1話 ヤキメシ

妻の美沙子が残した一冊の大学ノートには、わが家のレシピが詰まっている。

何のために、どうしてこんなモノを書き記していたのかは解らないが、現在私の愛読書は、表紙の破れたこのノートになっている。

息子は遠方にいて、家庭を築き立派に成長した。ひとり娘のお父さんになった。

月に一度の仕送りは、申し分の無い金額で、そのお陰もあって、美沙子を介護施設に入所させることも出来た。

感謝している。

美沙子は、5年前に脳梗塞で倒れた。

それ以来、高次機能障害による後遺症と、膝の骨折とで寝たきりになってしまった。

真珠婚式を目前にして。

介護士さんは良くしてくれているのだろうか? 

嫌な思いはしてないだろうか?

いつか聞いてみたいと思うが、答えを得るのは難しいだろう。

川崎の外れの戸建ての我が家は、すっかり淋しくなったものだ。

子供達の笑い声もなければ、夫婦間の他愛のない会話もない。

二階の寝室に上がることも少なくなった。

居間に布団を持ち込んで、夕飯を終えたら眠り、朝早くに起きて昼頃に美沙子に会いに行く。

そんな生活の繰り返しだ。

ひとりになってからは、銭湯に通うようになった。自宅の風呂場で倒れたくはない。

助けてくれる人もいないからだ。

料理もするようになった。

教科書を頼りにしながらの作業は、美沙子との話題づくりの為に始めた。


1 片目玉焼きどんぶり。

あらかじめ卵は割っておく。

(殻が入ってはいけないから)

フライパンに油を引いて、熱くなったら卵を入れる。

弱火にして、大さじ1杯の水を卵にかけたら蓋をする。

ヤケドしないように。慌てない。

丼に炊きたてのご飯をよそって、削り節とお醤油を少しかける。

焼き上がった片目玉焼きを乗せたら出来上がり。

半熟か固焼きはお好みで。


私の得意料理となった片目玉焼きどんぶりは、美沙子が初めて作ってくれた料理だ。

互いに若かった頃、私の暮らす都内の古アパートに、美沙子は足繁く通っては自慢げにこのご馳走を披露してくれた。

バンドマンをしていた私に、ライブハウスで声をかけてくれた美沙子は、麦わら帽子がとても似合っていた。


「半熟でしょう? 今日は九条ネギも乗せてみた」


美沙子のお陰で、私はネギの美味しさを知れた。

当時の私は、生活に困窮していた。

ベランダの洗濯機は、野ざらしのままでカビも生えていた。

それを綺麗に掃除してくれたのも美沙子だった。


「ちゃんとカバーもかけなきゃ」


私は苦笑いしていたと思う。 

中古で買ったブラウン管テレビは、6チャンネルだけが映らなかった。

それでも良かった。

ドラマやバラエティーを見ながら、2人で笑ったり泣いたりしていたあの頃。

片目玉焼きどんぶりを食べる度に、無性に懐かしく想う。

この味が、そうさせているのだろう。

また1日がはじまる。

うまい具合の半熟は、明日の課題にしておこう。


「危うくね、ヤケドしそうになったよ」


美沙子はしわくちゃの顔で、私の声を聞いて笑ってくれている。

そう思うようにしている。

薄くなった髪を撫でてあげると、目尻にたくさんのシワが出来ていた。


「互いに歳だけは取っちゃったな」


私は笑いかけた。

美沙子は間違いなく、怒っているだろう。

そんな人だから。


27 冷たくても美味しい唐揚げ。

手羽元は、醤油、酒、にんにく、塩胡椒に一晩漬け込んでおく。

油は、お箸を入れてあぶくがでたら準備オーケー。

(お箸の水気はしっかり拭き取っておくように)

手羽元に片栗粉を着けて、弱火でじっくり揚げていく。

浮き上がってきたら出来上がり。

お好みでキャベツの千切りを添えて。


息子の小学校の運動会、3段重の下段は決まって唐揚げだった。

冷めた方が美味しいという、摩訶不思議なこの料理は、先祖代々伝わる門外不出の究極のレシピ。

客人にもよく振る舞っていた。

私が軟骨部分をもしゃもしゃと食べるのを見て、幼かった息子も真似をしながらかぶりついていた。

そしてある時前歯が欠けた。

おろおろしている息子が可笑しくて、私は笑っていたが、美沙子に怒られたのを覚えている。


「そんな食べ方するから、真似しちゃうんでしょう!」


子供が出来たのを機会に、私はバンドマンを辞めた。

ベースは趣味で続けていたが、今は物置き小屋で埃をかぶっている。

もう演奏することもないだろう。

この頃の私は、サラリーマンになったばかりで人間関係で悩んでいた。

妻との些細な喧嘩も増えた。

だが、エスカレートしなかったのは、息子のお陰だと思う。

言い合う声に、息子は涙目になりながら仲裁役を買って出た。

頼もしい奴だ。

結局、喧嘩の原因が、私のひ弱さからくる甘えだと判るまでに、相当の時間を要してしまった。

申し訳なく思っている。

いつかは、冷めても美味しい唐揚げを作ってみようか・・・とも考える。

妻の書いたレシピの文字を指でなぞりながら、ボールペンの凹凸と、インクの匂いに私の心も動く。

やっぱり辞めておこう。

火事にでもなったら大変だろうから。


47 茗荷の卵スープ。

千切りの茗荷、木綿豆腐は食べ易い大きさに切っておく。

沸騰した湯にカツオ出汁と醤油を入れて火を弱める。

茗荷と豆腐をいれて、もう一度沸騰させたら火を止めて卵を流し込む。

蓋をして、2.3時間置いておく。

ご飯を入れたら雑炊に。

風邪をひいたらコレが1番。


息子の結婚式を間近に控えたある夜。

私は流行り病にかかってしまった。

美沙子は毎日看病をしてくれて、消化に良くて身体が温まるスープを、甲斐甲斐しくも作ってくれた。

私は熱にうなされながら、台所から聞こえる包丁の音に安心していた。

幼い頃からそうだった。

料理の音は子守唄みたいで優しい。

それが家庭を守ることなのだろうか。


「雑炊も美味しいのよ。試してみる?」


「今度な」


「それっていつ?」


「今度」


私はスープを好んで食べた。

だから、1度も雑炊を口にはしなかった。

今思えば、美沙子の前で食べてあげたら良かったと思う。

眠る前に茗荷のスープを飲みながら、私は自問自答を繰り返した。


「ご馳走さま」や「美味しかったよ」を、美沙子に言ったことがあるだろうか。


そんな事実は、私の記憶にはない。

明日、改めて礼を言おうと思う。

どんな顔で聞いてくれるのだろう。

花でも買ってやろうか?

私の心は、珍しく和んでいた。


「美沙子にはさ、今まで言ってなかったけど、本当に感謝しているよ」


身体を綺麗に拭いて貰ったばかりの美沙子の肌は、とても艶があっていい匂いがしていた。

家族揃って、箱根や草津へよく出かけたものだ。

酒に弱い美沙子は、ビール一杯で上機嫌になって、テレサ・テンをカラオケでは好んで歌っていた。

お世辞にも上手いとは言えない歌声を、時折聴きたくもなった。


「色々さ、なんか照れ臭いけれど」


プロポーズもしていない。

結婚式も挙げないまま、私達は夫婦になった。

その事実から、私は逃げようと必死だったのかも知れない。

美沙子は「別に良いのよと」と、言ってくれてはいたが、私はそれを負い目に感じていた。

私は美沙子の手を握った。

ここに居るだけで充分だった。


「美沙子、ありがとう」


微かに、小指だけが動いたように感じた。

ちょっとだけ。

ほんのすこしだけ。


「ありがとうな」


また小指が動く。

小刻みに。


「大好きだからね」


長年の連れ添った伴侶に、やっと告白出来た気がした。

美沙子のほっぺたが赤らんでいる。

照れているのかな?

私はへへへと笑った。

昔と一緒で、とても意地らしくて可愛いひと。素直に思えたから口に出せた。

花瓶のカーネーションは、照れ臭そうにそっぽを向いている。

母の日は近い。

美沙子はちゃんと、私の顔や、息子夫婦の顔、そして孫の顔を認識出来ているのだろうか?

私は美沙子の頬を、何度も撫でながら語りかけた。

今までの想い出と、これからのこと。

白髪だらけの髪の毛。 

嫉妬しやすい額。

負けん気の強い眉毛。

目尻のシワと、涙もろい目蓋。

時々強気な鼻筋。

お好み焼きが大好きな小鼻。

わずかに開いた乾燥しやすい唇。

恥ずかしがり屋の猿耳。

美味しそうに膨らんでいたほっぺた。

木の枝みたいに痩せてしまった美沙子の身体と、いつも通りの肌の感触。

それが私の全てー。


「ありがとうね・・・」


100 ヤキメシ。

玉ねぎとピーマンはみじん切りにして、先にサラダ油で炒めること。

ウインナーとかまぼこは、ご飯と一緒にフライパンに。

色が変わってきたら、別に炒めておいた卵を入れて、塩と胡椒で味付け。

お醤油は、フライパンのふちに沿うようにして入れること。

塩分は控えめに。


美沙子。


レシピ本の最後のページには、名前が記されていた。

ヤキメシを、どうして末尾に持ってきたのかは本人にしか解らないが、評判はよろしくなかったのは事実だ。

母の日。

息子夫婦と孫と、こうして我が家の居間で過ごす時間はあとどれくらい許されるのだろうか。

つい、そんな事を考えてしまう。

この日の朝、私はヤキメシをこしらえた。

大皿に山盛りにして、好きな量を各々で取り分ける我が家のスタイルに、息子の奥さんは驚いていた。


「豪快なんですね。写メっていいですか?」


屈託のない笑顔だ。

5歳になる孫の目は、ママにそっくりで、たらこ唇は息子譲り。

きっと美人になるだろう。


「あ、懐かしい味だね」


息子が言った。


「だろう。ちゃんと再現したんだぞ、というより、教科書通りにやっただけなんだ」


「ほら、食べてみなよ」


ママはふうふうしながら、孫の口にヤキメシの乗ったスプーンを運んで、しばらくしてからひと口食べた。


「あら、食べやすいですね」


その言葉に、私と息子は大笑いした。

美沙子があまり得意でなかったヤキメシは、いつもべちゃべちゃで味付けも薄かった。

頻繁に食卓には上がらなかった一品を、最近になって無性に食べたくなった私は、ヤキメシの難しさを知った。

火加減とか、フライパンの大きさだとか。

醤油を入れるタイミングや、米の水分の

飛ばし方。

料理を終えた台所周りは、戦場宛らに荒れていた。

飛び散った米や、ガスコンロ隅に転がったウインナーの切れ端。床に落ちて歩く度に舞い上がる玉ねぎの皮。

それらを片付けるのも料理で、食べ終えた食器を洗い終えるのも料理なのた。

美沙子が教えてくれた。


「けど、子供達には良いかも。かまぼことかウインナーとか」


「リゾットみたいだろ?」


「それは言いすぎ、ねえ、お父さん」


息子夫婦のやり取りが微笑ましかった。

決して美味しくはないヤキメシ。

けれど、堪らなく食べたくなるのはどういう訳なのだろう。

特別では無くて、なんとなくたまに出てくるヤキメシ。

それと悪戦苦闘していた妻の美沙子に、私も息子も散々文句を言っていた。


「そんなにイヤなら食べなくても良いのよ。私が全部食べちゃうから」


美沙子はいつも笑っていた。

お決まりの台詞と、お決まりの団らん。


「きっと悔しかっただろうな・・・」


私は、リスみたいにほっぺたを膨らませている孫の顔を見て思った。


「さて、朝ごはんが済んだらみんなで行こうか、お母さんのとこに」


決して美味しくはないヤキメシを、私はこれからも、時々欲するのだろう。

今日は美沙子にどんな話をしてやろうかー。


おしまい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヤキメシ みつお真 @ikuraikura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ