七、 降魔



 ――霍覽フゥオ=ラン


 やはり、その名はとうの昔に察知されていたようだった。

 馬燈カンテラをゆっくりと床に置き、構えを取る。


「やはり、えて虎口に活を求めるの策をもっておられた訳でございましたか。

 御知恵ちえと学識に加え、きももまた風聞にたがわぬご様子。

 秦舞陽もともなうことなくお一人で、咸陽かんよう宮をもしのぐこの魔殿に参られるとは。

 いかな匕首ひしょの剣を、懐中かいちゅうに隠し持っておられるのかは存じませぬが」



 邪気の渦は、その声を最後にはじけた。

 黒扇が闇に舞い落ちる。


 女神像の全貌があらわとなる。その紅口皓歯こうこうこうがさらけ出される。

 牡丹ぼたんよりもあかい口、羊脂玉しろひすいよりもしろい歯。


 否、鮮血よりもその巨大なあぎとは紅く、白刃よりもその牙は皓かった。

 たけりくるう兇獣の、それも数匹ものあぎとと牙とをそのまま移したような『口』は、可憐な美神の上顔部をせたまま、泡と咆哮ほうこうとを吐き散らす。


 くらひとえに包まれていた、しなやかな腕が大きく振るわれたかと思うと、白龍を思わせる巨大な二本の鞭に変じ、周囲の暗闇と大気とを裂断する。



 引き起こされる旋風に乗ってはねることで、かろうじて間合いの外へびでる。

 距離をとった今、女神像――否、妖神の全身を視界におさめることができた。


 その恐るべき本性を花開かせようというのか、柳のごとくだった肢体は、暴発せんばかりにふくれあがり、朽ちつつあったびょうの柱をめきめきと潰しながらのたうっていた。

 新雪のごとくだったはだは、いまや白骨の蒼白さに染まり、その表面からはあの鋭い舌が無数におどり出てくる。

 人の腕ほどに巨大な舌は、狂奔する蛇のごとく乱舞し、土壁つちかべえぐりながら、捧げられていた鎌をぎ取って、嵐のごとくに振り回す。



 もはや神、と呼ぶよりは、生ける混沌の渦。

 その中に、無数の情景が踊り狂うのが見えた。


 乱世。

 闘争。

 奸心。

 欲望。

 憎悪。

 獣性。

 怨念。

 絶望。


 それらが世界をおおいつくし、麦粒のようにひしがれる命、あふれる紅い海。

 その中からうじのように生まれるもの、あるいは魚のごとくに浮かび上がり跳ねあがるものども。

 鬼神が、妖魔が、憎悪をむさぼり絶望をらい、大地を蹂躙じゅうりんしてゆく。

 宇宙のきず、天地の闇、人の限界と終局。


 ――そう。まさしく荊軻けいかのごとくに切り刻まれても、私たちが討ち果たさねばならぬもの。


 あの老宦官も、あの混沌の渦の眷属と化しすにあたって五体を切り刻まれたのだ。

 それをたんとする私たちが躊躇ちゅうちょするわけにもゆくまい。


(いかな匕首の剣を懐中に隠し持っておられるのかは存じませぬが――)



 彼の最後の一言が脳裏をよぎる。

 おもわず皮肉な笑みがもれる。


「匕首の剣など懐の中にはなかったのだよ、君。

 それは外に――ふところの外、廟の外、否、 北平ペイピンの外に潜ませてあったのだ。最初からね」



 廟に立ちいる前に一瞥した夜空の様がうかぶ。ふたたび、外套コート口袋ポケットより、懐中時計をとりだす。


 ―― 十一時二〇分。

 なんとか時間内に、あの妖神を廟の外まで誘い出せた。まだ參宿しんしゅくは、地に沈んではいないはずだ。


 今頃、この北平の背後を守る天寿ティエンシォウ山では、私の双子の兄が。    

 霍覽フゥオ=ラン博士が ―― 本物の霍覽博士が ―― 參宿にある天宮にいます旧き天尊たちよりの誅伐ちゅうばつを請うための修法しゅほうを終えているはずだ。


 あの修法を完成させる鍵となった智識が、あの宦官が中文に訳した『Necronomicon』――『屍龍教典』だったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせであるが。


「それにしても、大哥にいさん替身かげむしゃか。

 身替みがわりとなるのはかまわんが、殺されるまでは勘弁願いたいな」



 せめて二十年近くは御免ごめんこうむりたいものだ。

 兄ともども、このような怪神どもと渡り合う定めの人生、さほど、期待はしていないが……。


 崩れる廟から躍り出て、黄砂こうさおおわれた路上に転がり、そうつぶやく。

 西の夜空からは、かすかな、しかし峻烈しゅんれつな神気が降りそそごうとしていた。



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