六、 女神




 闇の奥に、その女神像は立っていた。


 うすぎぬ彩雲あやぐもにも見えるひとえは、光り輝かんばかりの黄色と、闇よりもなお濃いくろの二つがおりなすかたちを、暗いなかに際立きわだたせている。


 天地玄黄てんちげんこう


 易経・坤卦にうたわれる天地のありさまを示すがごとき二色は、往古おうこ饕餮とうてつもんのごとき兇相にも、知られざる太古の文様にも見えてくる。

 しかしなおも見ていると、その内に包む肢体したいの、可憐ながらしなやかな側影シルエットを浮かび上がらせているのが見て取れるのだ。


 粉紅うすべに色のもすそは、春華のかんばしさをただよわせながら、桃果の瑞々みずみずしさをうるませている。

 そして、その奥からひそやかに、紅唇を想起させるつややかさが、この闇をとおしてにじみ寄ってくるのだ。


 しかしそれも、ひとえの胸元にかがやく雪膚しろはだに比べれば、乾いた絹で編まれた贋物がんぶつにすぎぬものと思えてくる。

 純白ながら血の気のえ上がる肌は、花萼かがくのごとくにほっそりしたくびを形づくり、そのさらに上で、奇跡のごとくととのった鵞蛋たまごの形をなしていた。

 ひとえの玄紋に比してなお深い、黒曜のかんむりと見まがう飛仙ひせんたぶさに飾られたその顔は、だがほとんどが印象には残るまい。

 とるに足らぬ風貌というのでは断じてなく、その中央にかがやく明眸まなこのひかりがあまりに強く脳裏に突き刺さるからだ。


 珍珠貝のごとき耳も、銘剣めいけんのごとく通った鼻筋も、あのめもとには数歩をゆずらざるを得まい。真珠のごとくうるわしく、寒月のようにすずやかで、それでいて、日輪のかがやきを放ってくるのだから。その上をかざる蛾眉がびもまた、いかな画匠の筆に描かれたかといぶかる美しき曲線であった。

 とはいえ、この花顔のなかで、かの媚眼びがんこそがもっとも美しいかどうかは判らない。その女神像がいかなる紅口こうこう皓歯はくがを備えていたのかを確かめることはかなわなかった。

 その口元は、玉の彫刻のごとき繊指ほそゆびに支えられた、一柄の黒い扇で隠されていたからだった。


 頭上に栄える雲鬢かみにおとらぬ漆黒の扇は、黒鳳くろほうおうが尾羽を広げたがごとくだった。雄々おおしきまでの華麗と、目を吸い込まれそうな繊細。そのまま羽ばたき、闇中に舞を披露ひろうする有様ありさまさえ幻視しそうになるほどに。




 その幻視をはばむのは、まさにその黒扇の前にあるものの有様だった。


 腐肉につつまれた髑髏どくろのごとき老宦官かんがんの首は、いまや目耳口鼻の七あなより無数の舌をき出し、溶ける肌さえ突き破る尖舌のむれが、毛骨も悚懼しょうくするおぞましい乱舞を演じていた。魔界の妖蛆ようそに喰らわれつつあるとしか思われない光景だった。

 何より忌まわしいのは、その有様になってなお、宦官の首はわらい、陶酔とうすいの言を吐きつづけているのだった。



「貴方様も、女神様の御姿に、とくと打たれたご様子。

 私の斯様かようなおぞましき姿さえ、女神様の抱擁を受けていると思えば、羨望せんぼうの的と見えましょうぞ」


 羨望。

 その言葉に、私は知らずたじろぎおののいていた。



しかれども、そのようなねたましげな目で御覧ごらんになる必要はございませぬ。

 なぜなら、貴方様も、ほどなくこの御慈悲に包まれるのでございますから」


 くく、と笑みをもらしたがゆえか、虫食いの枯葉のごとくなっていた両頬が一気にはじけ消えた。

 あごの朽ち崩れた首の後ろが顕わとなる。

 首をむさぼる毒舌の群は、女神のかかげる黒扇、その後ろよりうねり来ているのがわかる。


「貴方様ならば当然のごとくに承知でございましょう。

 女神様こそは、私をこの邪界妖道へと招いた、かの魔書どもの語りし禁忌の真理の化身。

 乾坤てんち玩弄がんろう凌虐りょうぎゃくし、ついにはみ喰らう、窮極の混沌の顕現にございます。

 その闇黒の天命に招かれ踊らされ、ついにはこのように抱かれた私は、もはやその渦の一部に過ぎませぬ」



 ぱん。

 かめが砕けるのとそっくりな音とともに、無数の細孔がきざまれた頭蓋は弾けた。


華夏かかの中心たる天子を廃し、外夷の砲火と文明の怒涛に呑まれる、かつて中原であったこの地は、これよりまれなる動乱の中へと落ちてゆきましょう。

 三皇にすらさかのぼる時より、中華としてそのはらの底に無数の混沌と暗黒を呑んできたこの地の動乱は、女神様のすばらしき供物となりまする」



 先ほど自称したとおりなのか、頭蓋が崩れ落ちたあとにも、一迅いちじんの渦がわだかまり、声を発していた。


しかし、神といえども、名とかたちとをもってあらわれたまう限りはその無窮むきゅうを損なわれるもの。

 矮小なる人の手によってさえ、その玉手をはばまれうるという、まことかなしき摂理に囚われることによって、地の上に降臨なされるのでございます」



 渦が声とともに放つ、腐臭まとう旋風のせいか、黒扇はまこと羽ばたくがごとくに揺らぎはじめた。


「ゆえに、そのような造叛に及びかねぬやからは、ばつするに越したことはありませぬ。

 それ故に、今宵こよい、このように――女神様の御許みもとにまで御足労そくろうをいただいた次第でございます。

 霍覽フゥオ=ラン博士」



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