三、 黒智




 声を枯らす気配もなく、また足をとどめる様子もなく、柔らかい声は、相変わらず襤衣らんいを引きずりながら奥へと進んでゆく。



「さらには、蕃地・化外の奇書妖書――天竺てんじく直伝の瑜伽ヨーガ・密法の秘術や邪道の数々、波斯ペルシャより渡来せし祆教ゾロアスター景教ネストリウス摩尼マーニー教の夷教典群、大食アラビア文字にて認められし太古の魔境や神怪の伝承、大秦ローマ希臘ギリシャに遡る西洋の書さえもございました。

 いずれも、読みいてゆく内に、人倫をけがし天道をあざわらう、いずれ劣らぬ邪道の書物ばかり。


 いわく、天には上帝のする金闕雲宮きんけつうんきゅうなどあらずして、ただ痴愚ちぐの神々の舞いほうける無窮むきゅうの闇黒あるのみなり

 曰く、地は不動にあらずして虚空こくうを漂流するちりにも等しく、盲蟲に等しき人獣鳥魚の相喰あいくらい続ける蠱毒こどくの小壷の如く也。

 曰く、人の本性は、おもうもるも無き、井戸イドの深坑のごとく名状しがたき混沌に他ならず、魂魄こんぱくはただその面具かめんに過ぎざる也。

 曰く、人道のもといたる孝の徳は孔聖こうしさまの妄想にして、ただひたすら後の世にのこり伝わらんとする血の利己に、親も子も操られるのみ也。


 そのような狂妄すらほんの嚆矢こうしに過ぎぬ、人の魂魄も、天地のことわりも、太極たいきょくすらもあざけそしる、忌まわしい智識……。

 そのようなものが目をおかし耳をむしばむ心地たるや、きょせいした時などよりもはるかに恐ろしく……いっそ目も耳も落ちてしまえばよいと、心より願ったものでございます。

 それがかなったものか、それとも妖書のたたりか。

 宮中に上がる前日までに、耳目じもくは腐れ落ちました」


 微笑もうとして失敗したらしく、皺だらけの瞼がわななく。

 白く丸い石でつくられた義眼が、両の眼窩からこぼれ、ことり、という音をのこして闇へと落ち消えた。


「それでもやはり不可思議なことに、目が腐れても眼窩がんかには光がうつり、耳がこぼたれても耳道には音が響くのでございます。

 無論、普通に見え聞こえるのとはいささか異なる、形容にかたい感覚ではございまするが、宮中にて日々の勤めをこなすには、かろうじて不自由はいたしませぬ。

 眼窩には丸石でこしらえられた偽の眼をはめて取りつくろい、耳朶は幼きころ病痕びょうこんに蝕まれたとかたり申せば、畸貌醜容きぼうしゅうようと忌み嫌われることは多かれど、妖異の影を疑われることは幸いなく、数十年にわたってつまらぬ下働きを勤めて参りましたが……。


 一体、いずこかられ聞こえたものにございましょう。

 この私めが怪力乱神の事柄をあまたっているとの言が、おそれ多くも、老仏爺ラオフォーイェのお耳に達したのでございます」


 当時の美称びしょうを通して、西太后、あるいは慈禧じき太后の時代を懐かしむように、空ろな両眼が闇ばかりの虚空を悩ましく見つめた。



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