四、『屍龍教典』




「あれは乙酉いつゆうの七月のことでございましたか。

 内宮の宦官かんがんを総覧される、総管そうかん太監たいかん閣下ご直々じきじきに私めを引見なされ、老仏爺ラオフォーイェよりのみことのりを下されたのでございます。

Necronomiconネクロノミコン』なる拉丁ラテン語の書物を漢語に訳せ、とのお達しにございました」



 乙酉、さる西暦一八八五年。

 四月には朝鮮をめぐって日本との調停を、六月には清仏戦争の講和を、ともに天津にて締結した年だった。

 大清の威光が異国の文明におびやかされつつある中、西洋の魔書の中に何かを見出みいだそうとしたのだろうか。


「幼き頃に父より課せられましたるかの恐るべき日々がよみがえるに等しき恐ろしき業を、私は受け入れたのでございました。

 斯様かような恐怖の定めを、逡巡しゅんじゅんもなくうけたまわりましたのは、老仏爺ラオフォーイェもまた人の身にありながら、る種、人のうつわえた力と畏怖とを体現してあらせられたが故か、などと思い返してもみるのでございますが」



 ふがふが、と、歯の抜け切った口がいやらしい音を響きわたらせる。


「『Necronomiconネクロノミコン』の羊皮の頁をりますると、何と奇怪なことでございましょう。

 見慣れぬ西洋の文面から、しるされおる文意そのものが、まるで幽鬼のごとくに身を起こしたかと思うと、うつろなる耳目じもくを通して頭に流れこみ、毒のごとくに脳をおかしゆくのでございます。

 むしばまれた脳の奥からは、魔書の文面と呼びあうがごとくに、幼き日に刻まれたる禁忌の知識が、次々と立ちのぼって参ります。

 かくなる渾沌こんとんの中から産まれし妖言は、ひとりでに両の腕へと流れこんでゆきまする。

 ただただ苦悶懊悩くもんおうのうする私をもはや置き去りにして、双腕十指は魂を得た妖蛆ようそのごとくに蠢き、紙上におぞましき文章を書きつけてゆくのでございました。

 その毒によるものでありましょうか。

 筆をふるう半ばより、徐々に黒く腐り始めた腕は、全ての頁を埋めてほどなく、根元よりけ崩れて落ちてしまったのでございます」



 宦官かんがんが皇帝のかたわらにひかえる際の作法。それをなぞるごとく、常にだらりとげられていた両袖。

 それはただ、中身がとうの昔にせていただけのことだった。


「落ちた腕では如何いかんともいたし難く、書題をせた装丁のみは同輩の手に任せました。

 文面を一字たりと読んではならぬ、と堅く申し伝えた上で。


 古伝には、天を揺るがせし人面蛇体の大水神『共工コンチァン』、あるいはその化身にして眷族たる九頭の龍神『相柳シァンリウ』として仄めかされ、今の世には『龍王』などと矮小な名にてのみ知られる、滄溟うみはてなる莱咼ライイェの主。

 かの魔王の名と性とにちなんだ『屍龍教典シーロンチャウティアン』という題を載せ、金糸を織り込みいましたる布に綴じたる経典が、司礼しれい太監を通じて献上されましたその晩のことでございました」



 廟の壁どこかに風穴でもあるのか、不意に強い風が通り、砂の香りがする。

 前の様子をうかがった私は、鶏皮とりはだが全身に立つのを感じた。

 暗さゆえに判然としなかったが、宦官の襤衣のすそが持ち上がった一瞬、そこに靴も、足も無かったかのように見えたのだった。


「耳目もなく腕もなく、哀れな姿で病熱と恐怖とにもだえる私は、血膿にまみれる寝床より蹴落けおとされ、引き立てられ牢へと蹴り込まれました。

 私めの翻訳いたした『屍龍教典シーロンチャウティアン』を一読なされた老仏爺は、宮粉おしろい玉容散けしょうすいにて白磁のごとくみがきあげられましたる御貌おかおを蒼白にされ、私に凌遅りょうちの刑を言い渡されたのでございました」



 凌遅刑りょうちけい

 全身の肉を、一片また一片と、死に至るまでぎ落とし続ける極刑。

 そのようなおぞましい言葉を口にしながらくすくすと嗤う老宦官の身は、暗い燈火の光の中で蚯蚓みみずのようにうねくった。


「ところが、よこしまなる智識の毒が、私の肉も血も腐らせきっていたゆえでございましょうか。

 いかに体から肉をぎ落とされようとも、私の身はおろか、落ちた肉片すら、命の衰える時が参りませぬ。

 無論のこと、胸口をえぐられ、大腿ふとももけずり取られ ―― その一たび一たびに、はだが断たれ、血がき出し、肉とともに精気も、魂魄こんぱくさえも疼痛とうつうに裂かれ、死んでゆくのでございます。

 ございますが――まるでその疼痛こそが刻まれた肉を燃え上がらせ、染みわたり、新たな精気と化して、身を黄泉よみがえらせてゆくかのように……。


 総身からえることなく血をこぼし、おとろえることなく悲鳴をほとばしらせる姿に、処刑見物に法場けいじょうに集った群集も、徐々に異常をさとり、興奮も罵声も冷え切り――。

 七太刀たち目で断ち落とされた両脚が、血だまりの中よりね出て、汚血をはね散らかしながら巨大な長蟲ながむしのごとくに踊り狂う段になるや、悲鳴を上げながら一人残らず逃げ去ったものでございました。

 周囲の店にてあきないをしていた店主や客どもすら、それに続いたものでございました」

 


 幽鬼の叫びのごとき音響が戸口より吹きすさぶ。

 廟内へと舞いこんだ疾風は、宦官の襤衣のすそをひるがえし。

 そして、その膝より下が、ち落とされた時のままであることをあらわにした。

 両の大腿ふとももえぐりとられたままであることをも。




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