二、 魔書




 燈火は此方こちらの手にあるというのに、宦官かんがんは迷うふうもなく先に立ち、白昼はくびゃくの大路を歩むがごとく、暗闇の中へと歩んでゆく。


「初めてここに参りましたのは、七歳の時でございました。

 宦官を新たに召抱めしかかえるとの宮中よりのおれに、貧窮のきわみにあった我が家の食い扶持ぶちを減らす意を決しました父に連れられて。

 陽物ようぶつって『閹人イェンレン』となった、あの忘れもせぬ日のことでございます」


 男のものではない甲高かんだかい声が、しわがれて闇の中にひびいた。


「ご存知の通り、『浄身チァンシェン』には、刀子匠タオツチャンの小廠に銀六両をおさめ、しかるべき処置をほどこしてもらうことが正規の道でございます。

 しかしながら、子を閹人イェンレンとすると決めた時、父は迷うことなく、私をこのびょうともなったのでございました。

 廟におわす女神様の御力を父が知っておりましたのは、新疆シンチァン莎車シャーチョー河の上流、レン山を遥かに望むともいう翳安堠イーアンホウより流れきた蕃教の僧のすえだったがゆえでありましょうか」



 かしゃかしゃ、と、金属のこすれる音が闇に響く。

 あかりを向けると、いびつな鱗の壁が一面に、揺れる火を照り返しておぞましき銀色に輝いた。

 いかな迷妄俗信にもとづくものか、廟の土壁をおおい尽くさんばかりに掛けられた無数の鎌は、兇悪な曲刃を薄明かりにらして、あたかも巨大な蟒蛇おろちの腹のごとくにうごめいている。


無論むろん、父の手にした鎌が、私の陽根を断ち切った瞬間は、総身がはじけとぶかという痛みでございました。

 ございましたが、それほどの苦しみが、半刻とたぬうちに薄れてまいり、さらには落とされたはずの陽物がいまだ、股間にるがごとき感覚すら覚え始めたのでございます」



 切り落とされた部位の感覚が残留するという現象は、西洋医学でも知られている事実で、そう不可思議なことではない。

 そう告げても、相手は気にする風もなくわらいながら、廟の奥へと進んでゆく。


「更に、きょせいした時にあふれた生暖かい血に、陽物が包まれているにも似た感覚、否、ぬるりと陽物が暗い何者かにふくまれ、ねぶられるがごとき感覚に襲われたのでございます」



 邪淫の妄想が黄泉よみがえったのか。

 男をうしなって久しいはずの老宦官が、腰をくねらせるかのような醜猥しゅうわいなしぐさを、闇におどる。

 皺枯しわがれながらもどこか艶淫な哄笑こうしょうに応えるように、廟内を照らす燈火がゆらめく。

 禍々まがまがしい鎌の刃が一斉いっせいに踊る。


「父の申しておりました、女神様の霊験れいげんゆえにございましょうか。

 男の根を断ち切った傷は、その夕刻を待たずして、ほぼえたのでございました」


 いつの間に奥へとみ入ったものか、言葉は前方の闇より響いてきた。

 老宦官の老いた目と脚をとを案じて、そして、一人取り残されることを恐れて、私は声の元へと歩を進める。


「傷が早々にえたにもかかわらず、宮中にあがりますまでの日々、父は私を家にこもらせました。

 母と兄弟たちを戸外に締め出し、私と二人きりになると、狂疾きょうしつられたがごとくに書を読み聞かせたものでございます」



 ぼうと照らしだされる背中を追うが、床には石らしきものが散らばり、足をさまたげる。

 何ゆえに、あの襤衣ぼろおおわれた背中は、老いさらばえた身にて、かくもすみやかに闇中を歩めるものか。


「卑賤の身にありながら、父は秀才しゅうさい挙人きょじんもかくやとすら思うほどに、難解な古書を自在に読みこなしたものでございました。

 また、屋内にてさえも風雨に打たれる、陋屋あばらやと呼ぶもおこがましい棲処すみかに、どのようにしてか数多の書物を蔵しておりました。

 ――いぶかっておられますな。然様さように稀書を有しているものならば、いずこかの富貴の方にでもお譲りして金子をいただけば、息子をきょせいして手放さずともよいはず、と」



 胸中を射抜いたような物言いに、思わず足が止まる。


「なんとなれば、其等それらは、売り渡すことはおろか、人目にさらすことすら避くべきものであったがゆえでございます。

 かの書の一つなりともが、京師みやこの治安をまもる巡捕営の知るところとなれば、否、近隣の者にでもれれば、一家鏖殺みなごろしの憂き目にっていたやも知れませぬ。

 それらは人のみちを説く四書五経にはあらず、また仏の道を説く仏典にもあらず。

 儒学が怪力乱神と退しりぞけ、仏法が外道とんだ類の、鬼神妖仙と淫祀邪教にまつわる世にもおぞましき禁忌の智識であったのでございます」


 不意に、ばたばたと翼の鳴る音が外から吹き込む。

 きもが締め付けられる恐怖をおさえ、燈火とともに振り返った。

 ただ、崩れかけた扉が夜風にはためいていた、それだけの事である。

 老宦官は気にする風もなく、詩吟するがごとくに、ただただ声を流しゆく。




「図像と詩文に隠して、後の世にきたる事柄を記したという『推背图トゥイペイトゥ』――。


 三国時代の覇者たる曹操孟徳そうそうもうとくをも恐れさせた怪仙、左慈さじの変幻自在の術のみなもとであったとされる『遁甲天書トゥンチアティエンシュ』――。


 漢末に人心を大いにまどわし、黄巾の乱の起こる元凶となったという『太平清領書タイピンチンリンシュ』――。


 坤輿だいちのあまねき玄秘について記された『玄秘經サンピィチン』――。


 東溟ひがしのうみにひそむ魔界たる莱咼ライイェの怖ろしき事物の諸々を記したる『莱咼書ライイェシュ』――。


 そして ―― 何よりも、女神様の最初の祭主であった「関子かんし」の行跡を記した『

関子伝クヮンツゥユン』と、かの劉禪房リウチャンファンが狂気と絶望の叫びのなかに女神様を讃えた詩文『黒扇娘々ヘイシェンニャンニャン』――。


 父に強いられながら読み進めるたびに、書物も古のものとなり、春秋戦国の篆書てんしょにて認められしもの、周の蝌蚪かと文と思しきもの、果ては殷の金文や甲骨文を、そのまま写し取ったとされる奇怪なものすらございました」



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