第7話 神崎の追憶
肩にクロスボウをかけ、除草剤入りのボンベを背負った私は、バイクを走らせてエーガ財団植物研究所の施設へと向かう。その間、私は事件の黒幕であった汐里のことをずっと考えていた。
私と汐里が出会ったのは、新宿二丁目のレズビアンバーであった。
一年と数か月前、私は研究に行き詰まり、バーでグラスを傾けくだを撒いていた。
「隣、よろしいですか」
隣に座ったのは、眼鏡をかけた小柄な女であった。可愛らしい顔立ちながら眼鏡がよく似合っており、何処か知的な雰囲気も感じさせる。男受けが良さそうだな、というのが、私の抱いた第一印象だ。
その女こそ、藤野汐里である。
「神崎さんもエーガ財団植物研究所の人なんですね。偶然です」
隣に座った面識のない女が、たまたま同じ研究所の別の研究室に属していたということに、私は奇妙な縁を感じた。
「今度、映画見に行きましょう」
初対面のあの日、私は汐里と連絡先を交換し、一緒に映画を見に行く約束をして別れた。
後日、汐里に連れられて見た映画は、巨大なサメが登場するパニック映画であった。私もその手の作品は好むところであったが、まさか初対面の女とサメ映画を見ることになるとは思わなかった。
「さっきの映画見てさ、向こうにいた頃の後輩のことを思い出したよ」
「神崎さんの後輩にもサメ映画好きな人がいたんですか?」
「ああ、メイスンっていう男子でな、長い金髪が特徴的な美少年だった。あいつもハイスクールの頃はストイックな奴だったが、大学行ってからは何故かB級映画ジャンキーになっちまってな……まぁハッパとか薬物に走られるよりはずっとマシなんだが」
メイスンはハイスクール時代の一つ下の後輩であったが、大学生になってからも少しばかりの交流はあった。ハイスクールの頃は厳格な親にスケジュールを厳しく管理されていたらしいが、大学に入るとそれが緩んだらしい。気がつけば彼はB級パニック映画の虜になっており、私は彼とその仲間たちに誘われてB級パニックの上映会などにも加わるようになったのである。
その彼とも、私の大学卒業を機に交流は途絶えてしまった。後に殺人柿事件で意外な再会を果たすとは思ってもみなかったが。
それから、私と汐里は何かと行動を共にするようになった。一緒に買い物にいったり、私の住むマンションの一室で映画を見たり宅飲みをするような仲になった。富裕な家庭に育った私と違って、高校在学中に父を亡くした汐里は苦学生だったようだ。そんな彼女は酒が回ると過去の苦労話をくだくだと話し続ける癖があったのだが、そういうところも含めて、私は彼女のことを可愛らしいと思ったのであった。
そうした関係を続ける内に、私は彼女を愛おしいと思うようになった。彼女の方にもその気があったようで、ほどなくして私たちは一線を越えたのである。
汐里がいなくなってから二か月以上経つというのに、今でも彼女の体の温もりが、残滓のように手に残っている。私の腕の中で、その体を桃色に色づかせながら嬌声を漏らす汐里が好きだった。
けれども、私たちの蜜月は、そう長く続かなかった。
彼女の研究室では、猛烈な自己再生能力を持つワルナスビとアカハライモリの細胞を用いて、生物を蘇生させる薬品の開発を行っていた。だがその研究によって生まれた薬をラットの遺伝子に注入したところ、ケージを破壊し、誰それ構わず噛みつくなど、異常なまでの攻撃性を発揮するようになったのである。この薬品は、生物の持つ攻撃性を極限まで高める作用もあったのだ。
この薬品のことをマスコミに掴まれると、「ゾンビ薬を開発!」などという記事が大手新聞各社によって全国紙に載せられ、彼女の研究室は大バッシングに晒された。そして、彼女一人が責任を被り、研究所を退所することとなった。
研究所を退所したその日の夜、汐里はこっそり合鍵を使って私の部屋に忍び込んでいた。私が買い物を終えて帰ってきた時、彼女は私の所持しているクロスボウを口に咥えていた。クロスボウには、ボルトと呼ばれる短い矢が装填されていた。
「やめろ!」
汐里が何をしようとしているのか咄嗟に察した私は靴も脱がずに急いで駆け寄り、彼女を突き飛ばしてクロスボウを奪い取った。
その時の汐里の顔は、何とも言えぬ表情をしていた。絶望しているようにも見えるし、自分が次になすべきことは何なのか悟ったようにも見えた。
汐里はその後私の部屋の窓を開け、そこから飛び降りた。驚いた私が窓から下を見ると、もう底に彼女はいなかった。
私の部屋は四階だから、そこから飛び降りれば無事ではすまない。足から着地したとて、骨折はほぼ免れないだろう。だから、もしかしたらあの時彼女は真下の部屋のベランダに着地していたのかも知れない。今になっては確かめようがないことではあるが。
……私は傷を負った汐里に、何もしてやれなかった。そのせいで、彼女はあんな暴挙に出てしまったのだ。だから、この事件は私の問題だ。私が、彼女と決着をつけねばならない。
研究所の駐輪場にバイクを停め、私は研究棟の南側に立った。
――汐里は、必ずここに来る。
あの柿がマラソン大会を襲撃したのは、大会の主催が彼女を貶めた新聞社だったからだ。彼女は復讐のためにマラソン大会を柿に襲わせたのだと、私は推測している。
だから、次に彼女が復讐の矛先を向けるのはここしかない。今日、ここではエーガ財団が主催するシンポジウムがある。その出席者には汐里の研究室の室長や同僚も含まれている。この機を、汐里が逃すはずもない。
私は汐里の研究室の同僚から、あるものを受け取っていた。本来であれば、汐里を見殺しにした彼女の同僚の力など借りたくはなかった。とはいえ……こればかりは仕方ない。汐里が復讐しにくるであろうことを伝えたら、青い顔をして渡してくれた。
私の目が、正門をくぐる白衣姿の小柄な女の姿を捉えた。女は両手で、大きな段ボールを抱えている。
「汐里、悪いがキミの好きにはさせない」
「つれないなぁ香奈は。邪魔するなら、香奈が相手でも許さないから」
女――汐里は、段ボールを持ち上げて逆さにした。そこからぼとぼと地面に落とされたのは、大量の柿の実であった。
柿の実は、一斉に白い牙をむいた。
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