紫煙ただ空に舞うのみ
小林 梟鸚
※※※
「この
「この癌、だいぶ育ってますね……あ、これ、
「大林、確かこの患者、喫煙歴は無かったよな?」
「はい、そうです」
「じゃあこの肺気腫は何だろうね?肺がボロボロだ。既往歴も特に無しって言ってたよな?」
「それが、詳しく話を聞いてみると、病気が無いと言うよりは病院嫌いで検診もろくに受けてない、と言うのが実情らしくて……」
「成程……」今野は、穴だらけの肺の画像を眺めながら呟いた。よくある話だった。
その患者、佐川晶子が救急センターに搬送されたのは日曜の午後3時頃。買い物中に突然呼吸が苦しくなり、うずくまっていた所を周囲の人が119番通報したらしい。救急隊が晶子の元に到着した時は
大林と看護師達が必要な処置を行っているうちに、今野は患者の情報を救急隊から確認した。患者は65歳女性、既往歴無し、数か月前から軽度の呼吸苦を自覚していたが放置、そして今の状況に至る……と。通院歴が無い以上、得られる情報は限られていた。今野は患者の方に向かった。
今野は患者をチラリと見た。実年齢より老けて見えた。モニターのデータを確認。酸素投与にてSatは安定、心電図は異常無し、血圧は93/65とやや低め。今野は聴診器を患者の胸に当てた。右上肺野の呼吸音が減弱していた。その原因を調べるべく、今野は胸部画像CT検査をオーダーした。
そして、例の腫瘤が見つかった。
「ベースに原因不明の肺気腫、そこに肺癌による気道閉塞が加わり、呼吸不全、と……」今野は状況を整理するかの様に独り言ちた。晶子が喫煙者なら、肺気腫も癌もそれで説明がつく。しかし彼女はそうでは無い。この肺気腫の原因は何だろう?今野が思案していると、看護師が「先生、患者様のご家族がお見えになりました」と声をかけて来た。
「今行くよ」今野は看護師に答えた。
晶子の夫、佐川隆三と対面した瞬間に、晶子の肺気腫の謎は解けた。隆三の呼気からは、マスク越しでもわかるくらい強烈なタバコの臭いがした。晶子の肺気腫は、夫からの受動喫煙が原因だろう。
しかし、そうなると……今野の脳裏に、今までとは別の悩みがよぎった。今から今野は隆三に、晶子の病状について説明する事になっている。腫瘤の事、肺気腫の事などを説明せねばならない。しかし、患者家族に『あなたの喫煙習慣が奥様の病気の原因です』などといきなり言う訳にはいかない。それはあまりにも配慮が無い。だからってもちろん、嘘をつく訳にもいかない。今野は思案した。
「……ここに大きな塊がありますよね。これが気道を塞いでしまっています。それが、今回の呼吸苦の原因です」隆三にCT画像を見せながら、今野は説明した。結局、腫瘤や肺気腫と喫煙の関係については、説明しない事にした。今更家族を責めたって、病気が治る訳では無い。少なくともこの場では、嘘にはならない範囲で、最低限の事実だけを伝える事にした。
「これは……癌でしょうか?」隆三が訊ねた。
「現時点では何とも……」今野はお茶を濁した。すると、隆三は不意に、こんな事を言った。
「私のせいでしょうかね……?」
「は?」思わず今野は聞き返した。
「タバコを止めなきゃな、と思ってはいたんです。前から妻はしょっちゅう咳込んでて、それで……でも、どうしても止められなくて……」隆三は伏し目がちになりながら、淡々と語った。
翌朝、佐川晶子は呼吸器内科に転科となった。今野は彼女を、救急室で見送った。隆三は、何度も今野に頭を下げ、「ありがとうございました」と礼を言った。今野は複雑な気分だった。晶子の余命は、恐らく長くない。あの夫婦に、自分が何かをしてあげられたと言えるだろうか?家族に「ありがとう」と言われる資格が、自分にあるのだろうか?
そんな事を考えている今野の脇を、大林が通り過ぎた。仕事の合間にタバコを吸いに行くのは、あいつの悪い癖だ。指導医としてちゃんと注意しなきゃダメかな、と今野は腹をくくった。
紫煙ただ空に舞うのみ 小林 梟鸚 @Pseudomonas
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