花と罪悪

高村 芳

花と罪悪

 大通りから一筋東側の道を少し入ったところに、その花屋はある。先月からプロジェクトのサブリーダー仕事を任されたために、いつもより帰宅時間が一時間ほど遅くなっていた。仕事の帰りに立ち寄れる花屋は、近辺ではこの花屋しかない。私は駅から少々足早にその花屋に向かっていた。

 電灯が少ない路地に、橙色の明かりがガラス張りのドアから煌々と漏れている。店頭の錆びたパイプ椅子の上には植木鉢が置かれ、ドアを挟んだ反対側にはウサギの置物がこちらを見つめている。私は木枠でできたドアを開いた。


「いらっしゃいませ」


 ドアに取り付けられた鈴の乾いた音。その音に呼応して、店の奥から声がした。


「あら。こんばんは」


 彼女は店の奥に据え付けられたカウンターからひょっこり現れた。髪は高い位置でひとつにまとめられて、その面長の顔に一本たりとも影を落としていない。きりりとした黒眉が映える、白い陶器の植木鉢のような白い肌。彼女は首が長く、まるい襟ぐりのボーダーカットソーがよく似合っている。そんな彼女の指先が細かな傷に覆われていることも、いつもと変わりのない風景の一部だった。


「今日は寒いですね」


 彼女は手に持った花束をカウンターの上に広げ、よく使いこまれた鉄鋏で茎を斜めに切っていく。


「そうですね、花も大変そうだ」


 僕の頬は紅潮していたかもしれない。寒さのせいではなく、この瑞々しい草花の香りのせいだ。所狭しと鉢が置かれた通路を、僕は奥へと進んでいった。クリスマスが近いせいか、前回来たときにはなかったポインセチアが手前に置かれている。ショーケースの中には、寒さに弱いバラや御供用のキクなどが飾られている。植木鉢も、茶色のもの、白色のもの、黒色のもの、レンガ調につくられたもの、アルミでつくられたものなど、様々な種類の鉢に色とりどりの花が活けられている。フラワーアレンジメントでも有名なこの花屋は駅前の花屋より品揃えがよく、見ていて飽きない。店のドアの一枚向こうは息が白く凍るほどに寒いのに、こちらの空間だけが春の息吹の恩恵を受けているかのように花が咲き乱れている。


「本日はどうなさいますか? 新しいユリを入荷したのですけれど」


 彼女は花束の処理を終え、カウンターのスイングドアから出てきた。細い足に吸い付くようなジーンズに黒い長靴を履いている。黒のエプロンは裾が少し濡れているのがわかった。


「これですよね? タケシマユリだ」


 カウンターのすぐそばに置かれたアルミの円柱型の鉢に、タケシマユリが活けられていた。緑の茎の先に、一〇センチメートル弱の黄色い花。黄色い花弁は通常のユリよりも分厚く、花の中央から外に向かって強く反り返っている。あまり花屋では見かけることのない、珍しいユリの一種だ。


「これもご存知なのですね。本当に、花屋の仕事がなくなってしまうわ」

「花を仕入れる、というお仕事は僕にはできません」


 私の冗談に、彼女は小鳥のさえずりのごとく笑った。そのユリを包んでくれるよう伝えると、彼女はカウンターに戻り、無駄なく茎の処理を始める。手指が長い。美しい人だ、と思う。


「お花が本当にお好きなんですね」


 彼女はタケシマユリを包装紙で包みながらそう呟いた。僕はその花を家に持ち帰るだけなので、包むのは最小限にしておいてほしい、と伝えてあるため、包装はすぐに済んだ。


「植物図鑑が子供のころの愛書だったもので。ずっと読んでたんですよ」


 僕の父は植物学の研究者であった。詳しい研究内容は聞いていないからわからないが、図鑑の片隅に載っているのか載っていないのかすらわからないほどの植物を研究するために、家族を日本において海外に一か月滞在することなど数えられないほどだった。一年の半分以上、父親と家で暮らしたことはなかった。

 そんな子供との交流をまともにもたない父の書斎にある植物図鑑が、僕の父親代わりであった。父が母と僕をないがしろにしてまで追い求める植物とは何なのか。僕は図鑑の中に答えを探した。ついにその答えは見つかることなく、ただ一般人よりも深く幅広い植物に関する知識が僕の中に蓄積しただけであった。


 また母も、花を食卓や玄関に飾る人であった。おそらく、植物でのつながりで父とどこかで知り合ったのではないかと僕は思っている。飾られた花々が家庭を顧みない父への怒りなのか、悲しみなのか、また父の身代わりだったのかは未だにわからない。ただ母にとって花を花瓶に生けることは心の支えになっていたようだ。一週間ごとに変えられる花瓶の中の花の名を、母に尋ねることはなかった。僕はそのすべての名前を知っていたのだから。

 僕が大学生になり家を出た頃から、実家には花が飾られなくなった。


「毎度ありがとうございます」


 彼女が僕に花束を渡すとき、彼女の冷たい指が触れた。彼女は、すいません、と慌てて手を離す。冷たい手に反して、彼女の頬は熱を帯びていた。


「あの、今度、お食事でも一緒にいかがでしょうか?」


 突然の申し出に、不意をつかれた。うつむく彼女は、いつも花を相手に微笑む彼女とは違っていた。正直、彼女の好意にはまったく気づいていなかった。答えに瀕した私は、好意はありがたいこと、ただ今は仕事が忙しく難しいと、断りを入れた。いつも上向きの彼女の眉が下がっていく。彼女はそれでも客に対する笑顔を崩さなかった。


「またお越しください」


 橙の照明を背中に受けて、彼女は僕に頭を下げた。僕もそれに会釈を返し、暗い帰路についた。角を曲がるときに店に視線を向けると、彼女はまだ頭を下げ続けていた。いつもそうしてくれていたのだろうか。気づかないふりをして足早に角を曲がった。



「ただいま」


 アパートの扉を開けた途端、濃厚な花々の香りが部屋の主人である僕を包む。歩き慣れた暗い廊下を通り、常夜灯をつける。

 間接照明に照らされて、リビングの天井の対角線に渡された麻紐に結わえられたドライフラワーがぼんやりと光る。先週買ったバラや、それ以前に買ったサルビア、リンドウ、ラベンダー、センニチコウ。ドライフラワーにできるものは自然乾燥法ながらも全て手を施すことにしている。天井に渡された麻紐は既にスペースの限界を超え、先日三本目を渡したところであった。

 リビングのコーヒーテーブルには、ひとつの花瓶とひとつの花器のみ置いている。それはどちらも透明で細工の入っていない、とてもシンプルなものだ。僕はこれら以外の花器に花を飾る気が起らない。花が綺麗に見えないからだ。

 花瓶のほうにミネラルウォーターを注ぎ、先ほど購入したタケシマユリを生ける。茎の切り口辺りには小さな空気の泡が微かに見える。こういうものを見ると、花も生きているのだと思う。


 僕はスーツをクロゼットにかけ、着ていたワイシャツと靴下、そして下着を洗濯機にいれた。ネクタイはネクタイハンガーに、変なシワがつかないようにかけておく。

 そしてそのまま、花瓶を置いたコーヒーテーブルの前に据えた一人掛け用のソファに腰掛ける。タケシマユリと、裸の僕。


「やっとふたりになれたね」


 僕はタケシマユリに話しかけた。その強く反った花弁が微かに揺らぐ。


「きみのその花びらが好きなんだ。黄色い花びらを強く曲げている、きみのその姿……綺麗だよ」


 透明の花瓶に活けたタケシマユリを一本取り上げ、その花弁を鼻の先まで近づける。自分の息が荒くなっているのが、呼吸の音と体の火照りからもわかる。タケシマユリの花の中央には雌蕊と雄蕊がまるでそこが自分の居場所だと主張しているかのように規則正しく並んでいる。

 僕はタケシマユリの花弁にキスを落とす。次に舌を一枚の花弁の根元から先にかけてゆっくりと舐める。青い香りがする。同時に、タケシマユリの誘うような濃厚な香りが僕の鼻腔をくすぐった。僕は溜息をひとつ漏らす。


「ごめんね。でもきみが魅力的だから」


 僕は花弁の一枚一枚に舌を這わせた後、その中の一枚を唇で挟み、ぷちん、と摘み取った。唇の力を抜くと、黄色い花弁がはらりと僕の胸元に落ちる。僕の肌色に映える黄色に、背筋がゾクゾクした。

 一枚花弁を抜き取った花のほうは、花弁と花弁の間に隙間ができていた。そこから覗く雌蕊の細くも強くうねるその曲線から、僕は目を離せなくなっていた。


 花瓶からもう一本抜き取り、僕はタケシマユリの花の中に自分の劣情の先端を差し込んだ。雌蕊と雄蕊の微かな感触に、腰骨の奥がうずくのがわかった。僕はそのまま花弁に腰を押し付けながら、最初のタケシマユリの花弁を唇で全てちぎり落とした。胸元から腹にかけて黄色の花弁が六枚落ちているのを見て、「ああ、花弁が僕を愛撫している」と錯覚を起こす。そのひんやりとした花弁のつややかな分厚さに、僕の体温が溶けていく。


 花瓶に未だに生けられている最後の一本を無造作に抜き取り、僕は自分の鼻に押し付けた。タケシマユリの濃厚な香りに頭がクラクラする。麻薬というものはこういうことを言うのだろうか。僕はその花の香りを嗅ぐ度に、自分が何をしているのかがはっきりしなくなるときがあるのだ。

 自分が花弁の中に勃起したそれを突っ込み、花弁に身体を愛撫されていると感じ、花弁の香りに犯されているということ。それを僕は、端から見れば異常だと理解していながらも、その行為を繰り返してしまうのだ。僕が達するまで、タケシマユリは僕に寄り添っていてくれる。僕の花への想いは不意に溢れ、その黄色の花弁を白濁色で汚した。


 僕自身が花に劣情を抱く人間だと気付いたのは、中学生の頃だった。自慰行為を覚え、最初は友人と同じように女性との行為やその肌を想像していたが、どことなく違和感を覚えていた。

 忘れもしないあの日。父は例のごとく家を空けており、母も珍しく友人と旅行に行く、と言って数日いないときがあった。軽い反抗期を迎えていた僕は心配する母をけむたがり、大丈夫だから、と数日間家を自分の空間にする権利を手に入れたのだった。

 母が旅行に出てから二日目、僕は花瓶の水が変えられていないことにふと気づいた。何もすることがなかった僕は気まぐれにその花瓶の水を変えようと、花瓶に生けられた花に触れたとき。僕は、その質感が自分の求めていたものだということに気づいてしまったのであった。衝動にかられるまま自慰行為に及んだあと、自分の劣情とともにその花をゴミ箱に捨てた。自身の異常性と汚さに、そして花への罪悪感に、しばらく食事が喉を通らなかった。


 それからというものの、自身の小遣いで花を一輪買っては部屋に持ち帰り、自慰行為におよんだ。自分の欲情を受け入れてくれる存在を知った僕に、止めることなどできなかった。あるときはバラ、あるときはスイセン。あるときはガーベラ、あるときはケイトウ。僕は僕自身をネジのはずれた人間なのだと思った。このことを誰にも言うことはなかった。誰にも理解されないだろうし、理解されたくないという想いが先に立っていた。

 高校生になり、僕のこの性的倒錯にも名前があることを知った。僕と同じように植物が性的対象になりうるネジのはずれた人間がこの世に存在する。そのことを知っても、僕の嫌悪感が薄まることはなかった。


 僕の劣情に覆われたタケシマユリを、ティッシュにくるんでゴミ箱に捨てる。胸元や足元に散らばった花弁は一枚一枚丁寧に集め、一度新聞紙の上に置いておく。僕はそのままシャワーを浴び、あがった後、タケシマユリの花弁の一枚一枚に、いつものように処理を施した。押し花にするためだ。押し花を集めたファイルは、もうすぐ五冊目が満杯になりそうだ。


 そのあと僕は眠りにつく。自身に嫌悪感を、花々に熱情を抱きながら。



   了

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花と罪悪 高村 芳 @yo4_taka6ra

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