19 夢

「逃げて……」


 真っ白い雪の上、木苺をちりばめたような真っ赤なしずくが、ぽつ、ぽつ、と散っていた。


「ステラ……辛くても、苦しくても……笑っていれば、いつか……しあわせ、が、おとづれる、から……」


 その赤と白の世界に横たわり、とぎれとぎれに話す母の口からも、真っ赤な血がしたたり落ちる。


(でも、


 ステラなら、治してあげられるから。

 母の温かい手を取るとステラは力を注いだ。


 けがが治りますように。

 お母様がまた、元気になってステラを抱きしめてくれますように。


 願いを込めて流れ込む光は、母の傷を癒していく。

 けれどなぜだろう。

 その手がだんだんと、冷たく重くなっていく気がするのは。

 なぜだろう。


『いつまでも、愛してる……』


 そう言って瞼を伏せたまま、ステラの呼びかけに答えてくれないのは。


「っ……ステラ。もう、いいんだ。もう、力を使わなくていいんだよ」

「どうして?」


 横から伸びてきた大きな手に両手を包まれ、ステラは不思議そうに父を振り返った。

 なぜお父様はもういいなんて言うのだろう。まだお母様は目を覚ましていない。ステラにありがとうと言って、キスしてくれない。

 疲れて眠ってしまったお母様が元気になれるように、もっと力を注いであげないといけないのに。それなのに――

 

「どうしておとうさまは、もういいっていうの?」


 そう訊くと、ステラと同じ琥珀色の瞳が、痛みをこらえるように大きく歪んだ。


「おかあさまは……っ……僕たちの力は……っ」

「おとうさま……?」


 ぽたっぽたっと、ステラの頬に落ちた雫は父の涙だったのだろうか。

 大きく息を吸うとそれっきり、お父様は何も言わなくなった。

 かわりに真っ白な雪の上に膝をつき、肩を震わせて泣いている。


「おとうさま、なかないで」


 俯く父に慰めるように駆け寄って抱きしめれば、優しい両腕がぎゅっとステラのことを包んでくれた。

 その力は痛いくらい強くて、けれどステラも負けじとしがみつくと、やがてお父様は涙で濡れた顔をあげた。


「ステラ……お母さまをここに、寝かせたら……ベーグモントおじさんの所へ行こうか」

「おじさんの、ところ? ……でも、おかあさまを、おいてはいけないわ」

「お母さまを置いていくわけじゃない。体はここに眠っていても、魂はいつでも私たちとともにあるんだよ」

「たましいは、ともに?」


 その言葉はやはりステラには理解できなくて。

 けれどもう一度『どうして?』と聞いてはいけないことだけは理解できて、ステラはその言葉を飲み込んだ。


 そしてその日を境に、三人でのは、お父様とのに変わった。


 降りしきる雪の中、森を抜け、街をいくつも通り過ぎ……ある日、父が咳をし始めたのを覚えている。

 ステラは治してあげたかったけれど、父は手のひらを眺め、やがて悲しそうに首を振ると、再びステラの手を引いて歩きだした。

 大きく湾曲する川をぐらぐらと揺れる小船で渡り。雪と泥の混じった道を抜け。そうして二人が小さな教会に身を寄せたのは、冬から春へと季節が移り変わろうとする頃のことだった。




「……っ……」


 小さな寝台に寄り添って横たわり、ゴホッゴホッと苦しそうにせき込む父の体は、暖炉の火よりも熱かった。それなのに、ステラの髪をなでる手だけは氷のように冷えている。


「おとうさま、だいじょうぶ?」


 心配になって訊ねると、父は苦しそうに呼吸を繰り返しながらも弱々しく微笑んだ。


「ああ。よく聞きなさい、ステラ」


『ルークスウィアの力はけして悪用されてはいけない。名前を変え、力を隠してアルメール人に紛れるんだ。アルメールへ行けば、王都へ行けば……ベーグモントが、うまく、やってくれるから』

 

 まどろみながら、ステラは静かに聞いていた。

 ゆっくりと髪をなでる動きが眠気を誘い、ほとんど閉じかけた瞼を必死にあけながら、父の言葉を聞いていた。


「ごめんよ……ステラ……お父様もお母さまも、最後まで……一緒にいてあげられ、なくて。……明日の朝、お父様が目を覚まさなくても、ベーグモントおじさんと一緒に行くんだよ……」


 お父様はそういってまた泣いていたけれど、だんだんと遠ざかっていく意識の中で、ステラは面白いことを言うものだと父に微笑みかけていた。

 

(ずっといっしょ、よ……たましいは、ともに……)

 

 そして、その夜は父に寄り添って眠った。明け方にバタバタと騒がしい足音が響き、お父様の優しい声に起こされるまで、一度も目を覚ますことなく。



『起きなさい、ステラ』


 その声は温かく、だからステラは微笑みながら、もう一度呼び掛けてくれるのを待っていた。

 夜のうちに熱が下がったのか、父の体はもう熱くはない。寄り添う部分がほのかに温かいだけで、今度はステラから熱を奪っていく。


 お父様におはようと言ったら、まず暖炉で温まろう。そのあと、一緒に暖炉の前でご飯を食べて――


 けれど、ステラを揺り起こしたのは愛おしむような手ではなく、乱暴なほど力強い手のひらだった。


「ステラ!」


 聞きなれない声にぱっと目を開ければ、そこにはベーグモントおじさんが立っていた。彼女が琥珀色の瞳を瞬くと、ほっとしたように力を抜く。

 ステラはおじさんに会えた喜びに歓声を上げて飛び起きながら、隣に横たわる父の体に手を伸ばした。


「ねえ、おとうさま! ベーグモントおじさんがきたよ! はやくおきて、ほら! …………? おとうさま?」


 いくらゆすっても、父からはなんの反応も返ってこない。


(さっきはステラのことをおこしてくれたのに、またねむってしまったの?)


 ステラは少しの間首をかしげて考えていた。けれど、ふいに懐かしい思い出がよみがえり、ふっと微笑む。

 いつだってお父様は寝坊して、早く起きなさいとお母様に怒られていたっけ。

 だからステラはどうあっても父を起こしてあげようと、体をゆする力を少しだけ強くした。 


「ねえ、おきて。おとうさま。ベーグモントおじさんがきたのよ。ほーら、ねたふりはおしまい」

「……っ、ステラ」

「――?」


 鋭く息を呑む音に目線をあげれば、ベーグモントおじさんはいつかのお父様と同じように、くっと顔をゆがめていた。


「いい子だから、こっちにおいで。さあ……ネイサンを、眠らせてあげよう」


 延ばされた両手は微かに震え、まるで痛いのを必死にこらえているみたいな声がステラには不思議だった。

 そして、さらに視線をおじさんの後ろへと向ければ、ゆうべステラたちを優しく出迎えてくれた黒い法衣を着た人たちが戸口に並んで立っている。

 その光景に困惑し「どうして?」と訊ねようとしたとき、一人の神父様がステラに穏やかな声で告げてきた。


「小さな姉妹よ。お父様へ最後のお別れを言いなさい」

「おわ、かれ……? でも、さっき……おとうさまはおきなさいっていって、ステラのあたまをなでて」

「ステラ……もう、お父様は目を覚まさないんだ。会えないんだよ」

「どうして? ねえ、おきて、おとうさま。いつもみたいに、あとごふん……て……ねているだけでしょう?」


 ステラが取りすがるように父の体を揺らすと、ベーグモントおじさんがステラの体を抱き上げる。

 まるでお父様から引き離そうというように、ステラを遠くへ連れて行こうとしているみたいで怖かった。


「いや!」


 彼女はその力に抗うように身をよじると、父の眠る寝台へ両手を伸ばした。


「いや! やめて! おわかれなんて、したくない。おとうさまは、ステラをおいて、どこかへいったりしない!」


 けれど滲む視界の向こうで、ステラの言葉を否定するように、黒い法衣を着た人たちが寝台を取り囲み父の体を清めていく。

 じたばたと鋼のような両腕のなかで、ステラは必死に抗った。手を伸ばし、叫び声をあげ。いつしかステラの泣き声は懇願へと変わっていた。


「かみさま。もうわがままいいません。ちゃんと……、いいつけもまもります。だからステラを、ひとりぼっちにしないで……っ」


 お願いです。お父様から離さないで。

 お父様を連れて行かないで。

 ステラを置いていかないで。


 けれど、神様がその願いをかなえてくれないことは知っていた。

 やがてステラが力尽き、ただしゃくりあげるだけになると、おじさんは髪に顔をうずめ、なだめるよう囁きながら体をゆすった。


「ステラ。いや、エトワール。おじさんと一緒にアルメールへ行こう。そこで静かに暮らすんだ。おじさんと一緒に、家族になろう……」


 優しく抱く腕は彼女を忘却の彼方へいざない、気が付けばステラはその心地よい世界へと落ちていった。


 

 

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星舞う丘で 涼暮月 @i-suzu

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