17 ステラじゃないです
「おじさん。インディさんの息子さんが」
なかなか現れないベーグモントにしびれを切らし、エトワールが元居た部屋に引き返すと、二人は難しい顔で話し込んでいた。けれど、彼女が声をかけたとたん、硬質な雰囲気はまるでなかったかのように消え去った。
(気のせい、だったのかしら……)
「とりあえず、診察室に連れて行って傷口だけ洗ったんだけど、骨は折れていないみたい」
「わかった。もうすぐエレナも帰ってくるだろうし、お前はもう帰りなさい。それと暗くなったし、わがままを言わないでそいつに送ってもらうんだぞ」
「え?」
(なんで……)
ベーグモントの口から発せられた言葉に反論する間もなく、おじさんは診察室へと消えていく。扉が開き少年のしゃくりあげる音が聞こえ、再び扉が閉ざされると、狭い室内には異様な沈黙が広がった。
(どうして、おじさんはこの人に送ってもらいなさいなんて言うの!?)
さっきまでは敵対した雰囲気だったのに。自分が席を外した一瞬のうちに、どんなやり取りがあったというのだろう。
窺うように男性を仰ぎ見ると、彼はふっと微笑んで手を差し出してきた。
「行きましょうか?」
なんの邪気もない笑顔。
けれど、知っている。人は簡単に自分を偽れることを。
だからエトワールは差し出された手を取らずに「本当に送っていただかなくて結構です」と、ぶっきらぼうにつぶやくと、男性に背を向けて歩き出した。
診療所の扉を、追いかけてきた男性の鼻先で閉めたのはわざとではなかったけれど、それで男性が自分のことを放っておいてくれることを願っていた。
ぽつぽつと街頭に立ち始めた娼婦たちを通り過ぎ、いくつもの角を曲がり、エトワールの中では最速という速さで、必死に足を動かした。しかし、身長が、歩幅があまりにも違いすぎた。
男性が背後を付かず離れず歩いているのを見て、エトワールはうめき声を飲み込むしかなかった。こっちは息を切らしているというのに、全く平然としている。しかも、半歩だけ距離が開いているのは彼なりの配慮なのだろう。
とっさに守れて、無視できる距離。でも、その存在感は無視できるはずがない。
エトワールは勢いをつけて振り返り、一呼吸置いた後で、彼の顔を正面から見上げた。
「私はさっき送っていただかなくても結構ですと、言ったはずですが」
「でも女性が一人で出歩いていい時間は過ぎているし、せめて危険な地区を抜けるまでは――」
「貧民街を抜けるのは、そこの角を曲がればすぐです。新市街へ通じる道はまっすぐですから。お心遣いありがとうございました」
「……」
「何かまだ、御用があるんですか?」
男性の考え込むような沈黙に、エトワールは不安げな声をあげた。探るようなまなざしは、いったい何を見透かそうとしているのだろう。
「……あの、昨日のことなんだが」
とたん、その言葉に呼応するように、昨日の記憶がありありとよみがえってくる。さっきのさっきまで忘れていられたというのに、周りがあの時と同じ光景なだけに、よみがえった記憶はより鮮明だった。
あの時の重み。自分に触れる感触。匂いまでも思い出し、エトワールの頬がみるみる赤くなっていく。そして。それとは対照的に、男性は見る間に顔色をなくしていく。
「……もしよかったら、何があったのか教えてもらえないだろうか。ほとんど記憶があやふやで。聞いた話によれば、俺は君にひどいことを――」
「いいえ。そんな大したことは起こっていません」
「え? でも君は華麗な右フックで俺を殴り倒して――」
「殴り倒してもいません! あなたは私が親切な忠告を実行する前に、気を失っていたんです」
「……親切な、忠告?」
「と、とにかく、ローナの言ったことは真に受けないでください。昨日のことも私は気にしていませんから。むしろ、忘れているのならそのまま消し去ってしまってください」
――できるなら私の存在も。
本当に厄介な人を拾ってしまったものだ。
厄介で、律儀な人。ローナが教えてくれたとおり、ロージス大尉は実直だった。そして、おじさんの言うように、きっとあのまま路地裏に放置しておいたほうが平和だっただろう。でもエトワールの良心はそれを良しとしなかった。その良心のせいで、子供のころから幾度となく窮地に立たされてきたというのに。
おじさんとのやり取りを考えると、男性は納得のいく答えを引き出すまであきらめないだろう。でも、それでは困るのだ。
「これで問題は解決したと思いますので。私は失礼させていただきます」
そう言うとエトワールはこれ以上墓穴を掘る前にと、再び正面を向いて歩き出した。けれどすぐに立ち止まる結果になったのは、あの名前が耳に入ったからだった。
「待ってステラ! 君に聞きたいことが――……」
「――っ」
まさかここでその名前を聞くことになるとは思ってもいなかった。けれど、予想できたはずだ。
もはや偶然とは言えない。彼は昨日も私のことをそう呼んだのだから。
「覚えているかはわからないが――」
「――やめてください!」
エトワールは衝動に負けて叫んでいた。
本当はもっと、冷静にとりつくろわないといけなかった。人違いだと。けれど叫んだ瞬間すべてを忘れ、理性が、感情に飲まれていく。
(どうしてそんなふうに私を呼ぶの? どうして私をあなたが知っているの? お願いだから、その名前で呼ばないで!)
そうでないと思い出してしまうから。懐かしい人たちを。私を愛してくれた、恋しい人たちの声を。
「私はステラなんて名前じゃありません! 私の名前はエトワールです。エトワール・アーデン。誰かと勘違いされているのかもしれませんが、私はそれ以外の何者でもありません」
「だが、君は……アーデン伯爵家には……」
――姪はいない。
その言葉は、薄氷の上に保たれていたエトワールという存在を、無残にもう打ち砕いた。
真実を、告げられる覚悟はできていなかった。エトワール・アーデンは偽りだと、真っ向から指摘する人間はいなかった。
今までは。
「軍人なんて……っ、あなたなんて、大嫌い!」
それは、エトワールにできた唯一の抵抗だった。
逃げること。
だから脇目もふらずに駆け出した。背後からなにか言いたそうな視線が追いかけてきたけれど、振り返るつもりはなかった。
もう二度と。
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