15 エトワールと拾い者
エトワールの予想通り、その日はいつもより一時間も早く仕事が終わった。
だからそのままおじさんのもとへ向かうことにして、夕方近くに顔を出すと、診療所には持病の薬をもらいに来た患者が、一人いるだけだった。
エレナもすれ違いで買い物へ出かけたらしく姿が見えない。そして患者が二、三愚痴をこぼして家路につくと、珍しく二人きりになった。
「ベーグモントおじさんはどう思う?」
「んー? どう思うって、なにが?」
椅子の背にもたれ新聞を読んでいたベーグモントは、ページをめくりながら血色の悪い顔をあげた。薄いグレーの瞳は充血し、その下には隈がくっきりと刻まれている。
微かに眉間にしわを寄せ、焦点を合わせるように何度も瞬きをしながらこちらを見てくる姿は、まるで何日も寝ていないみたいだ。
(また、徹夜だったのかしら……)
それなのに、新たな問題を持ち込むのはどうなのだろう。本当はエドのことや昨日の男性についていろいろと相談したかったのだが、今にも倒れてしまいそうな姿にためらいを覚えた。
やっぱり、余計なことは黙っていたほうがいいのかも。それでなくとも、問題が山積みなのだ。自分で解決できることは、せめて試みるべきかもしれない。
「エトワール?」
疲労のにじんだ顔を見つめたまま考え込んでいると、ベーグモントはいぶかし気に眉を寄せた。
「おい、話があるんだろう?」
「え? あ、ああ……昨日のことなんだけど……」
「昨日?」
「そう……エドや街の人たちが騒ぎを起こして拘留されたでしょ? ローナと話していて、どうなっちゃうのかなと思って」
「放っておけ。お前に悪さをしようとしたんだ、当然の報いだろ。あの元気だけか取り柄な小僧も、これで少しは落ち着くだろうよ」
「でも、おじさん……」
「でももだっても、ない」
エトワールが反論しようとすると、ベーグモントは首を振って遮った。
「むやみに首を突っ込むな。それに、期待も持たせるな。あの小僧はお前に好意を抱いているけれど、お前はそうじゃないだろう」
「私も、エドのことは好きよ?」
「お前のそれはエドの感情とは別もんだ。まったく、鈍感なのは父親譲りか……この際だから言っておくが、エドだけじゃなくて見ず知らずの人間を、ほいほい助けようとするな。昨日だってあんな図体のでかいのを拾ってきたりして。拾ってくるなら犬や猫みたいに、ちゃんと飼えるものだけにしろといつも言ってるだろう」
いつものごとく唐突に始まったお説教に、エトワールはうめき声をのみ込んだ。
こうなったらおじさんは、言いたいことを言い終えるまで、絶対に話題を変えたりしない。だから口を挟める今のうちに、エトワールは言い訳を口にしていた。
「昨日の男性は別に拾いたくて拾ってきたわけじゃないのよ。それに出血もしていたし、早く手当てをしなくちゃいけなかったから……」
「そんなんでくたばるタマか。そこまでやわだったら、あの婆さんのお気に入りなんて務まるわけがない」
「え?」
「やっぱりな。気づいてなかったからあえて指摘しなかったが、よりによって女王のお気に入りを引き当てるなんて。こっちはひやひやしてたんだぞ。まったく……図体よりもでかい銃を背負って、ペンギンみたいによたよた歩いてたガキの頃でさえ、肩を撃ち抜かれても悲鳴一つ上げなかったんだ。頭から多少血を垂れ流してたって、死にゃしない」
そういいながらも、おじさんは彼を診療所まで運んでくると、傷口を洗浄して縫合し、診療所で唯一と言えるベッドまで貸してあげていた。
(ぜんぜん素直じゃないんだから)
いまだぶつぶつと文句を言い続けている、天邪鬼な後見人に目を回し、エトワールは彼の言葉を頭の中で反芻した。
ベーグモントおじさんは何て言った? 女王のお気に入り――つまりは、男性の素性を知っていたということだ。この前はそんなそぶりをまるで見せなかったのに。
けれど、知っていてもおかしくはない。
ベーグモントは十年前まで、軍医として活躍していた。それはエトワールが引き取られる以前のことで、ローナの話だとロージス大尉はそれよりも前に入隊したという話だから、きっとそのどこかで顔を合わせていたのだろう。
「あの人、また来ると思う?」
エトワールが何気なく訊ねると、ベーグモントが気づかわしげに眉を寄せた。
「どうした? なにか問題があるのか?」
「ううん、ちょっと気になってるだけ。実は今日、お店にロージス大尉がきたの。女王のお使いって言って。その時はローナが対応してくれたんだけど、彼女が言うには大尉がこの店に来たのはなにか目的があったからじゃないかって」
「……ローナはほかに何か言っていたか?」
「今回の事件はクリムゾンの管轄になるって。それと――」
コルボーがゴシップを振りまいている。そう言おうとして、エトワールは口をつぐんだ。たとえ作り話だったとしても、あのゴシップをおじさんの耳には入れられない。
耳に入れば絶対にあの男性はただじゃすまない。ベーグモントのことだ、直接殴り込みに行かなくとも何か手を使って報復するはず。
「ローナが……おじさんによろしくって言っていたわ」
それは苦しい言い訳だった。だが、ほかにいい言葉が思いつかなかったのだ。
案の定ベーグモントはごまかされず、見とがめるように目を細めてきた。
「おい、ちょっと待て」
とたん不穏な顔つきになる。目の前の机に新聞を放ると、疲れたように眉間をもみほぐし、探るような視線を向けてくる。
「エトワール、その反応はなんだ? それに、何か言いかけただろう。ちゃんと包み隠さず説明しなさい」
「違うのっ、そうじゃなくて……」
その時、コンコンと控えめに表の扉がたたかれて、エトワールはほっと胸をなでおろした。
「なんだ?」
「誰かしら?」
不審そうにつぶやきながら二人は扉を振り返った。診療所の客はたいてい断りもなく駆け込んでくるか、蝶番がきしむほど扉をたたくかのどちらかだ。こんな風に礼儀正しい訪問者は珍しい。
エトワールが対応に出ようと腰を上げかけると、ベーグモントが立ち上がって遮った。
「……いい、オレが出る。お前もひと働きしてきたんだから、座ってろ」
去り際、ぽんぽんと頭をたたかれて、エトワールは何とも言えない気持ちになった。ちゃんと大人として役に立ちたいのに、ベーグモントおじさんにとったら、いつまでも子ども扱いだ。
「……で、……ない」
「………」
「いいかげんにっ――」
やがて、表から言い争う声が聞こえてきて、エトワールは耳をそばだてた。
おじさんが怒鳴っているのは聞こえてくるが、相手が何と言っているのかまではわからない。不審に思って立ち上がると、エトワールは戸口を覗きながら呼びかけた。
「ベーグモントおじさん?」
すると次の瞬間、聞こえてきたのはおじさんの鋭い罵り声だった。
「くそったれ!」
たちまちエトワールの視界は真っ赤に染まった。彼女が反応するより早く、手首をつかまれ引き寄せられる。何が起こったのか理解するには、頭が追い付いていなかった。
ごつごつとした手のひらは、大きく、力強く。あの湖面のように澄んだ瞳が自分を見下ろしてくるのを、エトワールは信じられない気持ちで、ただ眺めるばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます