第二章 邂逅
05 ミエルフルールの天使
時計塔の鐘が鳴る昼どき、エトワールは誘われるように店の外へ出た。
春の陽光を受けて、シニョンに結わえられた琥珀色の髪がきらめく。
人影がまばらな大通りに視線を走らせ、柔らかな日差しに目を細めると、彼女は高い空を振り仰いだ。
普段ならこんなふうに、店の表に立ってのびのびと空を見上げることはない。
太陽のぬくもりを肌で受け止めながら大きく息を吸いこむ。と、瑞々しい花の香がどこからともなく運ばれてきて、口元に微笑みが浮かんだ。
まだまだ頬をなでる風は冷たかった。けれど比較的温暖な気候のこの国では、二月をすぎれば気の早い花々が春を教えてくれる。
人口が密集する旧市街では嵐でも来ない限り澄んだ空気はあまり期待できなかったが、昨日降った雨は淀んだ空気を洗い流してくれていた。
(今日はちょっと奮発してカフェに行こうかな……。このぶんだと、夕方まではお客さんも来ないだろうし)
人気店で売り子として働くエトワールにとって、長い昼休みはとても貴重ものだった。とくに気分転換を兼ねた昼休みなんて、年に数えるほどしか取れていない。
けれど一年に一度、旧市街の広場で春のお祭りが開催されるこの日だけは、エトワールにとっても心騒ぐ一日だった。
(よし! 決めた!)
陽気な気候に背中を押され、自分へのご褒美に人気のカフェでランチをしようと決めると、エトワールは表の看板を休憩中に変え店内へと引き返した。
頭上でカラン、カラン、と軽快な音が鳴り、思わず鼻歌を口ずさむ。だが――。
「エトワール! いたらちょっと来てくれ!」
店の奥から聞こえてきた野太い声に、弾むような気分はたちまち磨き抜かれたオークの床まで急降下した。
(……ああ)
あの声は親方だ。それもあんまり機嫌が良くない。
まったく。グズグズしていなければよかった。
今日は売り場は暇でも、厨房は火の車。ただでさえ朝から殺気立っているというのに、いったいどんな問題が起きたというのだろう。
エトワールは扉に鍵をかけるとチョコレート色のお仕着せをひるがえし、急いで店の奥へと向かった。
厨房へ近づくごとにムワッとした熱気がまとわりつき、遅れてバターとバニラの甘く芳ばしい香りが漂ってくる。いつもだったら幸せな香りだと言えるのだが。今は危険な香りにしか思えない。
「ばかやろう!」
厨房に立ち入る前から空気を震わす怒鳴り声がふってきて、エトワールはビクッと身をすくめた。
「計量間違えたのはどこのどいつだっ」
「おい! 四番の窯が焦げるぞっ」
「一時までに配達のタルトは? まだ仕上げてない? ちんたらしてたら間に合わねえぞ!」
熱気と小麦粉でけぶった室内は目の回るような騒ぎだった。
罵詈雑言があちこちで飛び交い、おまけに大柄で筋肉隆々な職人たちが鬼気迫る表情で立ち働いているものだから、さながら炭鉱や採掘場にいるような錯覚を覚える。
けれどここ、旧市街の一等地に店を構える“ミエルフルール”は、れっきとした老舗の菓子工房である。
鮮やかな赤い三角屋根と、軒下に吊り下げられた大きな看板。その隣に鎮座するブロンズ製の天使は道行く人々に微笑みかけ、創業当時からこの街を見守ってきた。
そして繊細で華やかな菓子の数々は王都の人々から定評を得て、大人から子供まで老若男女を虜にしている。
人口の増加に伴い街が拡張され、貴族階級や豪商人の邸宅が新市街へと移ったあとも、変わらない人気を誇っているのはこの店くらいだ。むしろ数年前に新市街にあるオペラ座通りへ支店を進出して以来、売り上げは右肩上がり。本店の厨房ですべての製品を製造しているので、いつも目が回る忙しさなのだった。
そんな由緒ある店にも唯一の欠点があった。それは……目の前で繰り広げられているコレだ。
(お店のイメージを守るためにも、絶対にお客さんには見せられない光景よね……)
巷では、隣国セレス帰りの優雅な職人たちが働いていることになっている。もちろんそれは嘘じゃない。優雅かどうかは保証できないが、彼らの大半はセレスの菓子工房で修業して、数々のレシピを学んできた逸材ぞろいなのだ。もっとも。洗練された振る舞いまでは、学んでこなかったようだが。
エトワールは戸口にたたずみ一瞬だけためらった。聞こえなかったふりをして、このまま休憩に行ってしまおうか?
殺伐とした厨房も、普段はもう少し――ほんの小指の先ほどの――落ち着きがある。決死の形相の職人たちを相手に、挑んでいく勇気はでなかった。
けれども協力しないわけにもいかない。今日は一年の中でもクリスマスに次ぐほど忙しい、春の芽吹きを祝う“
旧市街の中心、クレッセント広場には市が立てられ、マントと仮面で仮装した人たちに無料でアルコールや食べ物が配られる。そこから少し外れた場所では、お祭りの客や観光客向けにお土産を売る店が軒を連ね、通り沿いにずらりと並ぶ屋台の道は一大観光名所にもなっている。
ミエルフルールも例にもれず出店するが、この日にしか売り出さないお祭り限定の商品があることもあり、大盛況のすえ毎年完売は必至。売上が良ければ給料に色を付けてもらえることもあり、彼らは違う意味でも必死になっているのだ。
だからエトワールは勇気を奮い起こすと、そんな仕込み戦争の真っ只中にこわごわと一歩を踏み出した。
素早く左右に視線を走らせ、中でもひときわ大柄な男性を探す。
「親方! 呼ばれたみたいなんですけど、なにか急ぎですか!」
声を張り上げて叫ぶと、手前の作業台にいた壮年の男性が一瞬だけ顔を上げた。
「ああ! エトワール、悪いんだけどこれから配達に行ってくれないか?」
「え!」
「ミンスのやつが体調を崩したとかで、休みんなっちまってさ」
バンバンと硬いサブレ生地に麺棒を打ち付けながら、いかつい親方の口から飛び出した言葉に、エトワールは頭を抱えたくなった。
(なんでよりによって、今日……)
いっそミンスにその麺棒を打ち下ろして、首根っこを捕まえてきてくれたらいいのに。
絶対にずる休みだということは、ほとんどの人が知っている。本人がお祭りに出られないくらいなら休むとまで言っていたのだから。
てっきり代わりを見つけてくると思っていたのに……まさか、仮病を使うなんて。
「オペラ座へ配達に行った人たちは戻らないんですか? 私、これから休憩で……」
「それが向こうでも問題が起きちまったみたいでよ」
不運は伝染すると言うがついてない。
べつに働くことは嫌いではない。散々お世話になってきた親方が困っているのならなおのこと。嫌いなのは人ごみだ。
(うう、今日はお祭りだし、絶対どこも人でいっぱいなのに)
貧民街で診療所を開いているベーグモントおじさんが、祭りの日の広場はまともな人間の行くところじゃないとぼやいていたが、これからその真っただ中に入っていかなければならないと思うと、たちまち気がめいってくる。
なにも昔から人ごみが嫌いだったわけではない。小さい頃は両親と移動サーカースを見に行ったりもしたし、当時住んでいた街はとても大きな都市だった。だから原因はそのあと。
あまり覚えていないが、おそらくは移民として国を渡ってきた子供時代の記憶のせいだろう。戦争はエトワールの心に多くの傷を残していた。
大勢の人に囲まれていると落ち着かない。迷子になった幼子のように、身がすくんで動けなくなってしまうのだ。
人波の中突然追いかけられたり、ガレリア人だと糾弾されたり。
朧気ながらそんな恐怖がよみがえってくる。
もちろん、実際にそんなことは起こるはずがない。
戦争は八年前に終結しているし、アルメールの人々は移民にも寛容だ。恐怖はすべて過去のものだと分かっているけれど――この感情は理屈じゃない。
だから毎年エトワールは、みんなが外れクジと嫌煙する店番に、自分から名乗りを上げていた。
(……それなのに)
「お前さんの事情も分かってるんだがなぁ。こればっかりはどうしようもなくて。午後番が来るまで三十分以上あるし、その前に届けてやらねえと屋台の在庫がもたないんだよ」
すまないね、と本当に申し訳無さそうに眉を下げられれば、エトワールにはもう嫌とは言えなかった。
「わかりました、配達に行ってきます」
あきらめて肩を落とすと、エトワールは詳しい道順を教えてもらおうと親方に近づいた。
「たしか市が立っているから大通りは行かないほうが良いんでしたよね」
「そうそう、裏道があって……」
「親方!」
小麦粉で白くなった作業台の上に、指で描かれていく地図を覗き込もうとしたときだった。
騒がしい声とともに、ばたばたっと誰かが駆け込んでくる足音が聞こえ、エトワールは背後を振り返った。
「いま、ルイザの店から注文が入ってきたんすけど――」
戸口に立ったのは配達に出ていたエドだった。
エトワールより三つ年上の彼は、見習いとしてこの店で働いている。
「エド! 丁度いいところに戻ってきた。今からお前もエトワールと一緒に配達に行ってきてくれ」
「え、エトワールと? ミンスはどうしたんすか?」
突然の話にその性格と同じく明るい茶色の瞳でエトワールを見おろすと、エドは困惑したように目を瞬いた。
向けられた気づかわしげな表情は、彼女の苦手とするところをよく知っているからだろう。けれど「休みだ」とぶっきらぼうな答えが返ってきて、すぐに呆れた笑みに変わった。
「これで何回目っすか?」
「まったく、本当だよ。よりにもよってこのクソ忙しい日にバックレやがって。今度さぼりやがったらクビにしてやる!」
「まあ、クビとは言わんでも今度注意しておきますよ。それで、屋台に持って行く商品て、どんくらいあるんすか? なんなら、オレ一人でも……」
「ああ、全然そんな量じゃない。女将が今年は祭りで新商品も宣伝するって張り切ってるからな。例年の倍くらいか。荷車で行くから擦られないように、二人で警戒していかねえと」
「了解っす。あ、そうだ」
「ん? なんだ」
「ついでにってわけじゃないですけど。時間が余ったら祭りに顔だしてきてもいいっすか?」
「女将が良いって言ったらな。――じゃあ、エトワール。道はこいつが知ってるから気をつけて行ってきてくれ」
エドの言葉に軽く肩をすくめると、親方は作業に戻っていった。型抜きした生地を次々と天板に並べ、窯が並ぶ場所へと向かう足取りはバレエダンサーのように弾んでいる。けれど、エトワールの気分は弾まなかった。
これから祭りの真っただ中に入っていかなければならないのだ。
そのことを思うと気が重い。
「大丈夫だって、エトワール!」
「ひゃっ」
暗い顔で俯いていると、突然ぽんぽんっと、優しく頭を叩かれた。二人はいま邪魔にならないよう廊下の隅に立っていた。
頭に手を置かれたまま、上目遣いにエドを見上げるときらめく笑顔が返ってくる。
「オレも一緒だしさ。変な奴が寄ってきたら追い払ってやるよ。…………それに、悪い虫も」
「エド」
彼がかけてくれた頼もしい言葉は、エトワールの不安を軽くした。ぼそぼそっとつぶやかれた最後の台詞はよく聞こえなかったものの、自分を心配してくれる彼の優しさが心にしみる。
エドは優しい。初めて一緒に働きだした日から、彼はなにくれとなく世話を焼いてくれている。きっと人に親切にしなければ我慢がならない性格なのだろうと思っていたけれど。心の底からいい人なのだ。
だからエトワールは今まで邪険にしていたことを声に出さずに謝ると、心からの笑みを彼に向けた。
(いつも、ちょっと暑苦しくて鬱陶しいな、なんて思っててごめんね)
たとえエトワールのほうが数か月先に働いていて、ときどきそうした面が煩わしいと感じていたとしても、この言葉で全部帳消しだ。
これからはちゃんとエドに感謝しなければ。
「ありがとう。そう言ってもらえると頼もしいわ」
「え!」
エトワールが彼の瞳をまっすぐ覗き込みながら感謝の言葉を口にすると、エドが驚いたような声をあげた。
そこまでびっくりしなくてもいいのにというほど、目を見開きぽかんと口を開けている。
「どうしたの? この街のことはエドのほうがよく知っているし、一緒にいてくれるだけで心強いっていうのは本当よ。すっごく頼りにしているわ」
「そ、そうかな……」
そう言ったきり、急に目線をそらした姿はどこか変だった。
いったい自分の言葉の何が彼をそんなにも動揺させたのだろう。
首を傾げた直後。エドは顔を真っ赤に染めた。
「そこまで褒められると……勘違いしそうになるっていうか」
「勘違い?」
「い、いやっ! こっちの話。でも、まあ。頼ってもらえてうれしいよ」
「そう?」
「そうそう。でさ、エトワール……。話は変わるんだけど、ひとつお願いがあって……」
お願い? と、エトワールが訊き返すと、エドはソワソワと脚を踏み変えた。
「いや、あの……もちろんエトワールが嫌じゃなかったらが大前提なんだけど……」
「うん?」
「もし、女将さんが良いって言ったらさ……」
なんだろう。
さっきにも増してなんだかひどく言い辛そうだ。
口を開くたびすぐに閉じて、また開けて。
よく見るとなんだか汗ばんでいるみたいだし、頬の赤みは耳まで広がって――どこか具合でも悪いのだろうか?
心配になって訊ねかけたとき、エトワールははたと気が付いた。
(……ああ)
たしか親方に、配達が終わったらお祭りに行きたいようなことを言っていたっけ。
それなら落ち着きがない理由もわかる。
状況を察すると、エトワールは気づかわし気な視線をエドに投げかけた。
「ごめんね、エド。気づいてあげられなくて」
「え?」
「ぐずぐずしていたらお祭りを楽しむ時間が無くなっちゃうわよね」
「え! 本当に? オレと一緒に――……」
「うん。エドがお祭りを楽しめるように、私も一緒に女将さんに頼んであげる」
「へ?」
その瞬間、エドがぱっと顔を輝かせ、次いできょとんとした顔をした。
そんなに驚かなくてもいいのに。彼のお願いは何か、ちゃんとわかっているもの。
「お祭りを見て回りたいのでしょう? 大丈夫よ。女将さんは良いって言うと思うから」
「いや、見て回りたいけど……それは一人でって意味じゃなくて……」
「もちろんよ。だれかと待ち合わせしているのよね? エドは顔が広いもの」
まさか最初から一人で行くつもりだなんて思っていない。エトワールはまったく春霊祭に興味がなかったが、旧市街の人なら誰だって連れだってお祭りに繰り出すものだ。
「あ、うん。……まあ、ね。そうだよね……誘っても気付いてくれないって、わかってたけどさ……」
「――? いま、何か言った?」
「いや! 何でもない。こんなところで油売ってたら、親方にどやされるなって言っただけ」
「あ! そうだった! すぐ支度してくるから外で待ってて」
そのときになって、エトワールは言いつけられていた仕事を思いだした。
お祭り客のせいで大通りは使えないし、急がないといけなかったのに。
身をひるがえすなり突き当りにある更衣室へと足を踏み出し、「あ!」というエドの声に呼び止められる。
「エトワール! 確か更衣室にマントと仮面があったよな?」
「うん? あったと思うけど」
「たぶん配達が終わったら、あがっていいって言われると思うからさ。服も着替えておくだろ? 酔っ払いたちに汚されたらたまんないし、できれば仮装してきたほうがいいぞ」
「うん。でも……仮面は必要ないんじゃないかしら?」
「いやいや、それは気分を盛り上げるための、おまけってことで」
そんなものだろうか?
エトワールは不思議に思ったが、急いでいたし素直に頷いた。
「そうね。エドが言うなら、そうするわ」
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