03 ステラ

 正面から向き合うと、少女ははっと息を呑んだ。不安そうに一歩後退り、胸の前できつく両手を握りあわせる。


「ヘイタイさんはわるいひと? ステラたちを、つかまえにきたひと?」

「いやっ、どうか怖がらないで。ほら……これで安全だ」


 怯えの滲んだ眼差しに、ディオンは慌てて銃を置いた。

 こんな場所で武器を手放すなんて自殺行為も同然だが、少女を無駄に怖がらせるつもりはなかった。


 こうして間近で見ると、彼女はまだほんの五、六歳にも満たない年齢のようだ。それに。まるで天使みたいだ、と思った。

 ゆるく波打つ髪も大きく見開かれた瞳も、絵画に描かれる天使のような黄金色。微かに上気した肌に影を落とすまつ毛まで、高価な金の糸で紡がれたようだった。まとっていた光が消えても、その姿は闇の中ぼんやりと光輝いている。


 束の間、脅威がないことを示すように向けられた手のひらを、少女は食い入るように見つめていた。やがて恐怖よりも好奇心のほうが勝ったのか、おずおずと口にした疑問はディオンの鼓動を早くした。


「ヘイタイさんはだあれ? ……みたことのないふく。がいこくのひと?」


 それはそうだろう。形こそ似ているが彼の纏っている軍服はオリーブ色。ガレリア公国の軍服は濃紺で、暗がりの中でもその違いははっきりと見極められる。

 けれど馬鹿正直に敵国の兵だと明かせるはずもなく、ディオンが最初の質問にだけ答えると少女は考えるように小さく首を傾げた。


「……。ディオン?」

「ああ。きみの名前は?」

「わたし? わたしはね、ステラっていうの。ねえ、ディオン。どうしてこんなところにいるの?」

「逆に、どうして君はこんなところにいるんだい」

「うーんとねぇ。おとうさまと、おかあさまをまってるの。ここにいてねって、いわれたの」

「ここに? たったひとりで?」


 驚いてディオンは眉根を寄せた。

 こんな荒野に子供を一人で置いていくなんて、いったい何を考えているのだろう。自国にいるとはいえ今は戦争真っ只中なのだ。なによりも彼女に遭遇したのが、自分ではなく残虐なガレリア兵だったら。間違いなくステラは悲惨な目にあっていたはずだ。

 やつらに道理など通じない。いや。だからこそ彼女を比較的安全な場所に残していったのか。

 不意にひらめいた可能性に、嫌な予感がした。


『ヘイタイさんはわるいひと? ステラたちを、つかまえにきたひと?』


 ふつう追われるか身の危険を感じたりしなければ、こんなふうに思ったりはしない。それも軍服を着た人間相手に。

 最初はただ銃を見て怖がっているのだと思ったが、彼女の両親が危険を察知し、ステラを残して周囲を偵察に行ったのだとしたら。状況は変わってくる。


 ディオンはぼんやりと少女を見つめながら、考えをまとめようとした。

 いったい、いつから彼女はここに一人でいたのだろう。両親が長く戻ってきていないのなら、ガレリア兵かもしくは彼女たちを追っている何者かに、すでに捕らえられるか殺されるかした可能性も否定できない。状況がわからないうちは早合点しない方がいいだろうけれど……。


 見回りに行ってくるとディオンが仲間に告げてから、すでにだいぶたっていた。そろそろ戻らないと、何かあったと心配するだろう。ステラの安全が確保できるまではそばについてやりたかったが、それにはあまり時間がない。


(せめて彼女の両親がどちらの方角に消えたのか分かれば、手の打ちようもあるのだが……)


「ステラ、君のご両親だが……」


 どこへ向かったかわかるだろうか。そう訊こうとして少女の声に遮られた。


「ディオン、けがをしているの?」

「え?」


(けが?)


 唐突な質問に虚をつかれ、思わず自分の体を見下ろす。

 怪我は確かに負っている。あちこちに。服の下にも見える部分にも。戦闘で負った傷は新しく、未だ癒えてはいなかったがなぜ今それを訊くのだろう。

 ディオンが戸惑いのあまり言葉を失っていると、ステラが突然こちらに向かって駆けてきた。不安定な斜面を駆けおりる足元はおぼつかず、今にも転びそうだ。その懸念どおり、彼女はディオンの直前でこてっと、小石に躓いた。


「危ないっ」


 叫ぶと同時に慌てて走りだし、草と岩が点在する地面へ顔面から倒れ込む前に抱きとめる。両手でしっかりと抱えなおすと、ディオンは詰めていた息を吐きだした。


 視点が高くなったことに、ステラははじめびっくりして体を固くしていた。けれどやがて目を瞬くと、しだいに驚きは屈託のない表情になり、輝くような笑みに変わった。


「ステラが、あげる」

「――!」


 そのとたん、数分前に目にした現象がディオンの腕の中で起こった。

 コツン、と、ディオンの額に額を寄せ、ステラがにっこりとほほ笑む。と、その体が光に包まれ始めたのだ。

 彼女の体から発せられる黄金色の光輪が、だんだんと大きくなりディオンまでも飲み込むと、肌が触れている部分から彼女の力の一部が流れ込んでくるのを感じた。


 それは春の柔らかな日差しがもたらす、くすぐったいような温もりに似ていた。そして心の奥底に張った氷を、そっと手のひらで溶かすような優しさにも。


 力の緩んだ腕の中から華奢な体が抜け出すのがわかっても、ディオンは目を閉じてその感覚を貪っていた。

 今までの人生で、これほどまでに素晴らしい経験に出会ったことはない。光が生み出すうっとりするほどの快感に身をゆだねていると、だんだんと体から緊張がほどけていく。いつの間にこんなにも心が凍えていたのだろうというくらい、その力がもたらす恵はディオンの魂を暖め、やがて、瞼の裏に何かがちらついた。


 ちらちらと舞う、白い花びら。


 子供たちの、はじけるような笑い声。


 愛情をたたえた榛色の瞳が後を追うように通り過ぎていき、ふと頭上を見上げると、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 満開のリンゴの花が風に吹かれて散り、その吹雪の中、友と誓い合ったのは――。


(……ああ、これは)


 唐突に幸せだった日々が走馬灯のようによみがえり、熱い塊が喉元にこみ上げた。ギュッと胸が締め付けられ、例えようもない感情が次から次へと湧き上がってくる。


 堰を切ったようにこぼれ落ちる涙がとめどなく頬を濡らしていったが、不思議なことに声は出なかった。そのかわり足から力が抜けてその場にしゃがみこむ。

 抱えた膝に顔を伏せ、声を殺して泣く姿がよほど頼りなく見えたのだろう。


「ごめんなさいっ、いたかった?」


 ステラがためらいがちに手を伸ばす気配を感じて、ディオンは俯いたまま頭を振った。


「ちがっ……君の……せいじゃ、なくて……」


 どうしてこんなにも、涙がこみ上げてくるのかわからなかった。

 傷口からじわじわと血が滲み出すように、自分の意思とは関係なくとめどなくあふれてくる。


 泣きたくなんてなかった。泣くのは弱さの表れだ。けれど彼にできたのは、いたわりの眼差しからみっともない姿を隠すことだけだった。

 すると、手の甲に温かくてすべすべした頬が慰めるように寄り添い、ディオンはさらに泣きたくなった。


「なかないで。ステラがそばにいてあげるから」




 どれくらいそうしていたのだろう。

 長い時間だった気もするし、ほんの一瞬のことだった気もする。

 恥ずかしくて微かに赤らんだ顔を上げると、ステラの天使のような笑顔がそこにあった。


「なくのは、わるいことじゃないの。つよくてやさしいことの、あかしなの。ステラはほんのちょっと、おてつだいをして、みんなの……おほしさまに? なるの」


 だれか大人の受け売りなのだろう。誇らしげな表情はたどたどしい言葉とはちぐはぐで、そんな愛らしい彼女にディオンもつられて微笑みが浮かんだ。


(こんなふうに笑うなんて、いつ以来だろう)


 親友は、アルバートはいつでも笑っている。

 それは楽しいからと言うよりも、自分の代わりに笑うのだと、いつか言っていたのを思い出した。


『笑えば幸せがついてくるのよ』


 それは養母の教えだった。そんなことも忘れていたなんて。いつしか自分でも気づかぬうちに、本当に大切なものを心の奥底にしまい込んでいたらしい。

 それを思い出させてくれたこの子はステラという名前が示すように、旅人に方角を教え道を照らす導きの星のようだった。だから、からかうようにそう言えば、ステラはきょとんとした顔をした。


「ステラはおほしさま? ううん、ちゃんとにんげんよ」


 ほらっ、と言って目の前に小さな掌をめいっぱい広げてみせる姿は、真剣そのものだった。

 その真面目な表情が本当におかしくて、ディオンは再び笑みを誘われた。けれどステラにとっては不服な反応だったのだろう。


「おとうさまと、おかあさまもわらうけれど、ステラはちゃんと、にんげんですっ」


 震える口元を見ると彼女はぷくっと頬を膨らませた。ふてくされたようにそっぽを向き、いかにも気に入りませんというように、つんと取り澄ましている。

 その仕草はやはり笑みを誘うもので、けれど、不意に現実が戻ってきて二度目の笑みは陰りを帯びたものになっていた。


(……そうだ。彼女に、両親のことを詳しく聞かないと)


 手遅れになる前に逃がす手立てを考えるなり、彼女の両親を探すなりしなければならない。すぐにでも無事が確認できればそれにこしたことはないが、いつだって願い通りにはいかないものだ。


「ステラ……君のお父様とお母様のことで話があるんだが」

 

 ディオンが最悪の事態を想像しながらしゃべりかけると、ステラは不思議そうに振り仰いだ。


「なあに?」

「もしも――」


 そのときだった。


「ステラ!」


 空気を引き裂くような女性の叫び声とともに、二つの影が駆け寄ってくるのが見えて、ディオンはとっさに銃を掴むとさっきまで身をひそめていた窪地へと飛び込んでいた。





「おかあさま! おとうさま!」


 ステラは勢いよく駆け出すと、広げられた腕の中に飛び込んでいく。

 その小さな体を母親と思しき影が受け止めしっかりと腕に抱えたのを見て、ディオンは詰めていた息を吐きだした。


 ステラは理解していないようだったが、大人がオリーブ色の軍服を――敵国の兵を――目にして、攻撃に転じないとはかぎらない。そう思ってとっさに身を隠したものの、幸いなことに彼らの視界には入っていなかったようだ。それに。


(よかった。思い過ごしだったんだな)


 最悪の事態はおとずれなかった。

 薄ぼんやりとした影しかとらえられないが、動きに変なところもないし怪我をしているようにも見えない。

 だったらこのまま無駄に怯えさせることもないと、ディオンは静かに後退し始めた。ステラの注意は自分からそれている。だから彼女に呼び止められることもないだろう。そう思った直後、ディオンを引き留めたのはステラの声ではなく、母親の声だった。


「どうして力なんて使ったのっ、あれだけ駄目だって言っておいたのに……」

「リサ、早くここから離れよう。予定よりも長くとどまりすぎてしまった。すぐに遠くまで行かないと」


 母親の声は緊張をはらみ、その声を遮った父親の声にも見逃せない緊迫感があった。なによりも闇に向けられた視線がディオンの注意を引いた。

 しきりに背後を気にしているが、いったい何を探しているのだろう。


「ステラ、今度は良いと言うまで力を使ってはいけないよ。でないと……猟犬に嗅ぎつけられてしまう」

「ごめんなさい……おとうさま。でもね、そこに――」

「――いたぞ!」


 打ちひしがれたステラの言葉は、突如響き渡った怒声にかき消された。ついで騒がしい足音ともに複数の人影が近づいて、その多さにディオンはぞっとした。


 紺地に金の装飾が施された豪華な軍服に身を包み、小隊を成して迫ってくる姿は異様な存在感を放っている。行く道を照らすように周囲を浮遊する炎の玉は、それだけで彼らが何者かを教えていた。


 ――ガレリア兵。


 それも公国のなかでも精鋭の異能者で構成される、魔法師団。父親が“猟犬カニス”と呼んだのは、やはりやつらのことだったのだ。

 でも、なぜだろう。


(なぜ、猟犬カニスが民間人を追っているんだ?)


 やつらはガレリア王の勅命でしか動かないはずなのに。


「おいっ! まて!」

「その親子を逃がすな!」

「逆らうものは必ず仕留めろとのご命令だっ。子供も殺せっ」


 怒号の合間から聞こえてくる声に耳を傾ければ、反逆者という言葉が聞こえた。

 やはり間違いない。やつらはガレリア王の命で動いているのだ。


 ステラは驚くべき能力の持ち主だ。身を持って経験したからわかる。

 魔法の素養を持つ人間が、生まれながらにして宿す能力は一つだけ。大概が五大元素の中からたった一系統だけに絞られる。まれに混在した能力を持つ者も生まれるが、はそういった力とはまったく性質の異なるもののようだった。


 火や雷の活性力のようでもあるし、水や風の保護力のようでもあり、まったく別物のようでもある。いうなればとても素晴らしくひどく神がかった能力で……。それだけに腑に落ちない。


 なぜ命を狙われる必要があるのか。


 なんとしてでも手に入れようとするのなら分かるが、殺せとはいったい。


(いや……。詮索すべきじゃないな)


 次々と湧いてくる疑問に蓋をすると、ディオンは目の前の喧騒から視線をそらした。罪悪感で胸がチリチリしたが、どうすることもできなかった。


(たった一人でこの人数を相手にするなんて、無茶もいいところだ)


 本能は逃げろと警告している。正義感を振り回し、愚かな真似はするなと。けれど。そうと分かっていても心は理性よりも強く訴えかけてきた。


『なかないで。ステラがそばにいてあげるから』


 彼女は迷いもせず、あの小さな手を差し伸べてくれた。


(それなのに俺は見殺しにするのか?)


 自分には無理だからと、そんな理由で。

 目の前にあるのに。手が届く場所にあるのに。

 いつの間にかあんなに幼い子供まで、平気で見殺しにできる非道な人間になってしまったのだろうか。


(……ああ、くそっ。そんなこと、考えるまでもない!)


 ぐっと唇を引き結ぶと、ディオンは溝の段差を塹壕がわりに銃を構えた。

 自分にも救える命はあるはずだ。奪うばかりじゃなくて、この手で守れる命が。


(なにか……なにか策はあるはずだっ、考えろ!)


 こうしている間にも、逃げる親子の背中に敵の手が迫っている。何よりも厄介なのは敵の操る炎だ。


 ガレリア兵の一人が不意に腕を動かすと、やつらの周りを照らしていた炎の玉が草地を舐め、勢いよく燃え移っていく。四方から迫る炎は意思を持って親子を取り囲み、煉獄へと飲み込もうとしている。

 その勢いに焦りを覚えながらも、ディオンは彼らの周囲に魔力を集中させた。


(彼らの前には道ができ、炎は取り払われる……)


 そのイメージのとおり、突如吹いた業風が炎の海を割っていく。気を抜けば再び押し返されそうな意識の中、ディオンは強風に負けぬよう大きく息を吸った。


「――行け!」


 叫び声が闇の中に響き渡り、親子が反応した。

 けれどそれは、ディオンが望んでいた反応とは程遠かった。


(ああ、くそっ)


 一番近くまで迫っていた敵が、再び炎を練ろうとしている。それなのに親子は動かない。彼の隠れるあたりに視線を走らせ、ついで背後から迫る追手を見比べ、困惑したようにただ突っ立っている。

 思うようにいかない状況にディオンは歯噛みした。

 お願いだから行ってくれ。

 視界の隅で新たな炎が生まれると、ディオンは祈りながら引き金を引いていた。

 パン、と乾いた音が鳴り響き、男がひとり崩れ落ちる。

 それまで余裕の動きを見せていたガレリア兵も、第三者の存在に気付くと戸惑いながらすぐにあたりは騒然となった。


「なんだ? なにが起こった」

「伏兵! 伏兵!」


 肌を刺すような緊張感が一気に張り詰め、伏兵の姿を探すように炎の球が高く舞い上がる。けれどディオンのいる場所は光の輪よりも外側で、昼間のように明るくなった場所からゆうに十メートルは離れていた。

 そして、親子は自分たちを援護する存在に気付いた。


「まてっ、標的が逃げるぞっ!」

「追え、追え!」

「二手に分かれろ!」


 親子がはじかれたように駆けだす直前、「ありがとう」という囁きが聞こえた気がした。けれどこれほど遠くにいて声が届くはずもなく、確かめる前にその姿は闇の中に消えていた。

 そしてディオンは親子の存在を頭から消した。無事に逃げられるならそれでいい。自分の役目はやつらの注意を留めることだ。

 そのためにはよそ見なんてしていられない。


 無茶苦茶に繰り出された炎が頭上の木に当たり、燃え盛る枝が降ってくる。ディオンは素早く横に転がって落木を避けると、心の中で激しく毒づいた。


(下手くそめっ)


 標的を見極めず能力を無暗に使うなんて、自分の国を焼け野原にするつもりか。幸いなことに詳しい居場所までは特定できていないようだったが、それも時間の問題だった。

 起き上がりざま指揮官に狙いを定めて放った弾は、一発で胸を撃ち抜いた。それと同時に親子を追っていた別の兵士は、反対方向から風で切り裂く。

 そうやって銃と魔法で多方面から複数犯にみえるよう敵をかく乱しつつ、確実に数を減らしていく。やがてその作戦が功を奏したのか。ガレリア兵は怯み、後退の姿勢を見せはじめた。

 けれど、逃がすつもりはなかった。


(逃がせば必ず報復される)


 軍団がやってくればディオンたちに立つ瀬はないのだ。

 心を決めると、ディオンは次の弾を小銃に込めた。

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