02 星舞う丘で

 ――あの日、彼女は光をくれた。


 <十年前。国境の村、ヴェント>


 硝煙と煤けた何かの臭いがツンと鼻をさす。

 風が、空気が、凍えるほど冷たい。


(外套を羽織ってくればよかった……)


 鼻梁を刺激する臭いと寒さに顔をしかめ、ディオンは深く息を吐きだした。

 くたびれた軍服は、ほとんど薄布一枚と変わらない。こうして長い間歩き続けていても、体温が奪われるばかりで全然体が温まらない。

 たまらずぶるっと身を震わせると、その拍子に担いでいた小銃がずれて、継ぎ目が肩に食い込んだ。

 ゆるく開いた口から、再び小さなため息がこぼれ落ちる。


 ――痛い。


 それに、なんて重いのだろう。

 外気にさらされ氷のように冷やされた鉄の固まりは、成長期をむかえたとはいえ華奢な身体に重くのしかかってくる。


(いつかこの重みにも、慣れる日が来るのだろうか)


 ふと、そんな疑問が胸に湧いた。

 そして次の瞬間には、口元に歪んだ笑みが浮かんでいた。あまりのくだらなさに自分を嘲笑う笑みが。

 肩をすくめてどうにか収まりのいい場所に落ち着かせながら、ディオンの頭にあったのは苦い思いだけだった。


 ――人殺しの道具に慣れる。


(……なんて嫌な響きだろう)


 それでも、引き金の軽さに慣れてしまった自分がここにいる。

 ときどきアルバートの力が羨ましくなる。

 炎は一度火が付けば勝手に燃え上がる。相手が人間の場合ならなおのこと。脂肪は潤沢な燃料になり、ほうっておけば命を燃やしてしまうのだ。けれどディオンの能力は違った。


 風は、相手の喉を切り裂く感触も、むせ返るような血の臭いも、そして死を覚悟した瞬間の恐怖も、すべてを鮮明に伝えてくる。何よりもそれが一番怖かった。

 まるで息がかかるほど近くに感じる恐怖は、じわじわと魂をむしばんでいく。

 だからディオンは能力を使うことよりも銃を選んだ。銃は能力ほど命の重みを感じなくてすむから。


 現実を知るまでは、飢えが、貧しさが、この世の中でもっとも憎むべきことだと思っていたのに。それ以上に悲惨な世界があることを知ってしまった今となっては、夢を抱いて旅だった少年はもう、どこにもいなかった。

 軍に志願したとき覚悟はあったはずなのに、戦場は年端もいかない少年が希望を抱き続けるには、あまりにも無慈悲な世界だった。

 最初はただ育ててくれた人を、家族を支えたいという純真な夢だったはずなのに、それすらも薄汚れたエゴでしかなかったのだと思い知らされただけだった。


 貧しいけれど幸せだった日々がもう遠い昔のように感じる。けれど実際は、ほんの二年前のこと。その二年の間に経験した人の世の醜さは、シスター・グレイシスの言葉がやはり正しかったのだとディオンに痛感させた。


『――ディオン! アルバート! そんなことはおやめなさいっ』


 一時、悲しみと失望を抱いた榛色の瞳が眼裏に浮かんで、ディオンはぎゅっと目をつぶった。いつだって義母は自分たちよりも己の性格をよく承知していたものだ。


『あと二年待てば魔法院に入れるというのにっ、志願兵になるなんて何を考えているの! お願いだから考え直すと言ってちょうだい……どんな大義があろうとも、人が人の命を奪うなどあってはならないことですよ。まして神様からの贈り物をそんなことに使うだなんて』

『でも、シスター・グレイシス。……それならばなぜ、神様はこんなにも試練をおあたえになるのですか』


 ――神様は俺たちに魔法を与えても、救いの手を差し伸べてくださらないのはなぜですか。


 そう訊ねたときの義母の顔は、きっと一生忘れられないだろう。

 繰り返し思い出される忠告は今なおほろ苦く、後悔にも似た思いが胸にわだかまっている。けれど過去に戻ってやり直せるとしても、結局は同じ道をたどるだろう。


 ディオンとアルバートの俸給は微々たるものだった。それでも家族は今年、冬を越せるのだ。一個のパンをみんなで分けあうことも、味のしないスープで腹を満たすこともない。そのことだけが唯一、ディオンの中に残った正義だった。


 たとえ正義の裏に数えきれないほどの屍が積みあがっていったとしても、そのことに後悔はない。だからこそ、ときどき問いかけてくる小さな声は無視できた。


 ――あと何度、人を殺せばこの戦争は終わるのだろう。

 ――あと何度、自分を殺せば望んだ平和がおとずれるのだろう。


 その問いに答えられる者は一人もいなかった。

 たった一つの運河をめぐって、故国アルメール王国とガレリア公国との間に戦火が灯されてから、既に一年。その一年間、ずっとたとえようもない地獄の中にいる。


 アルメール王国は決して惰弱ではなかった。

 大陸内のほかの国ほど、魔法の素養を持つ異能者に恵まれていなかったとしても。ほかの国よりも圧倒的に魔法文化が劣っていても。それでも大陸最古の王国として、培われてきた経験と技術があった。

 けれどガレリア公国の軍事力と魔法技術は、それを上回るものだった。

 神の恩恵とまで呼ばれる魔法に人が作り出した文明が勝てるはずもなく、故国が誇ってきた兵器の数々は、まるで赤子の手をひねるように次々と鉄の塊に還っていった。


(……もっとも)


 無駄だとわかっていても、陛下はすべてを失うまで絶対に負けを認めたりはしないだろう。

 女王陛下はついに侵攻作戦の命を下された。このままずるずると長期戦になだれこみ、いずれは何もかも失ってしまうのだ。


(奇跡でも起きない限り、きっと……)


 痛みを誤魔化すように瞼を開けると、満天の星空が視界いっぱいに広がった。

 漆黒の空に散りばめられた星々は、ささやきかけるように瞬きながら光を投げかけてくる。青白い清澄な光を浴びながらこうして一人歩いていると、自分の汚れが浮き彫りにされていく。そんな気がした。


 だからこそ無意識にこぼれ落ちた言の葉は、何よりも雄弁だった。


「帰りたい……」


(……ああ)


 帰りたい。

 養母の元へ。家族の待つ孤児院へ。

 けれど、それが叶わないことは自分が一番良く知っている。

 戦いに散った仲間の躯は、たくさん置き去りにしてきた。それと同じくらい、脱走兵に厳しい処罰がくだされる場面を目にしてきた。唯一帰れる道があるとすれば、それはこの戦争を生き抜くことだけだ。

 だから歩み続けるしかない。たとえ最後には大義を失った殺戮者が残るのだとしても。終わりがおとずれるその日まで。


「……それでも。あの場所へ帰れるのなら、何を差し出してもいい」


 その決意を示すように、ディオンは再び歩き出した。




 ゆっくりと、少しずつ。

 けれど即座に本能が危険を察知し、ピタリと動きを止める。


 ――何かがいる。丘の上に。


 警告が脳に届くよりも早く、ディオンは体にすり込まれた俊敏な動きで自然にできた窪地へ駆け下りた。

 ひときわ大きな木の陰に身を隠し、いつでも発砲できるように小銃を構える。できるだけ胸に沿わせ、息をひそめて。薄氷の張った歪な木の幹はみるみる背中から体温を奪っていくけれど、無視できないほどではない。

 じっと気配の先に神経を集中させ、やがて見えた光にディオンは目をすがめた。


(……なんだろう、あの光は)


 荒涼とした丘の上。

 ひときわ明るい輝きを中心に、ポツポツと小さな光が揺らめいている。宙に浮いた無数の光は、一定の間隔をあけながらゆっくりとこちらに近づいてくる。


(まさか……敵の援軍か?)


 光源の正体が行軍する敵兵が馬に括り付けたランタンの灯りなのだとすれば、援軍は相当な数だ。

 その数をざっと目算し、思わずグリップを握る手に力がこもる。――いくら何でも多すぎる。


 緊張のあまり手のひらににじんだ汗をぬぐい、再び構えなおしながらディオンは風が運んでくる音に耳を澄ました。

 タタッ、タッ、タタッと。

 聞こえてくる足音は不規則だった。それに奇妙なことに、明かりのわりに数は多くない。せいぜいひとりかふたり。

 行進しているような動きとは程遠く、取りこぼした敵兵が仲間を引き連れて報復にきたにしては、明らかに様子が違った。たとえるなら獣が立てる音に近い。兎や狐の足音みたいに軽くて小さな音だ。


 だが、それだと瞬いている光の正体は余計にわからなくなる。獣の瞳ではないだろう。瞳が光っているにしては位置が高すぎる。軍馬の胸あたりか、それより少し低いくらいで……。

 ようやく三メートルほどの先に一群の全貌が現れたとき。


 ディオンは言葉を失った。


(――え?)


 あの光はランタンの灯りなどではなかった。

 ガレリア兵の残党でもなければ獣でもなく、遠くに見えると思っていた光は――は――風に運ばれて、頭上に輝く星空をひっくり返したように瞬きながら、すぐ目の前を漂っていく。

 そしてその中心でひときわ輝いているのは、たった一人。


(おん、なのこ……)


 光の中心にいたのは、淡い光に包まれた小柄な少女だった。

 黄金色の髪をなびかせ、蛍が乱舞する動きに合わせ、楽しそうにくるくる、くるくると踊っている。

 あまりにも場違いな光景に、ディオンは自分が目にしているものがすぐには理解できなかった。ここが村の広場や話に聞く貴族たちの舞踏会場なら、まだ理解できただろう。

 けれど、ここは戦場だった。

 五日前の戦闘の爪痕はいまだに生々しく、斜面の向こう側には嫌というほど死体が転がっている。


(……それなのに、なんで)


 その答えはすぐに形となって現れた。

 少女がステップをやめ両手を大きく空に伸ばすと、周りを乱舞していた蛍の流れが一斉に変わった。風もないのにふわりふわりと舞い上がり、まるで少女に促されたかのように、天へと昇っていく。


 ――葬送。


 そんな言葉が自然と浮かんで腑に落ちた。

 蛍は死者の魂を運ぶというけれど、光を纏い踊る少女はまるで、彼らを慰め正しき道へ導いているかのようだった。現実離れした考えかもしれないがその表現がぴったり合う。

 古から続く葬送の儀式のように、なんて厳かなのだろう。そしてどこか惹きつけられる。


 いつしかディオンは驚きも忘れ、光の世界に飲み込まれていた。

 まるで呼吸をするように、光の粒が灯っては消え。上も下もわからぬ星空の中、やがて一つまた一つと別れを告げるように瞬きながら、天上に広がる星々に溶けていく。そして最後の一つがすうっと消えてなくなると、あたりには閑寂な闇が戻ってきた。


 けれど、すぐには現実が戻ってこなかった。木の幹にもたれ、夢の狭間に残されたまま、ぼんやりと少女の横顔を見つめる。

 だんだんと感覚が戻ってくると、ディオンがまず感じたのは『夢ではない』という、当たり前のことだった。さっき目にした光景も少女の存在も、夢ではない。

 それを裏付けるように、少女は光の消えた空を仰ぎながらまだ消えずに丘の上に立っていた。


(……どう、したらいいのだろう)


 姿を見せるべきだろうか。それとも、立ち去るのを待つべきだろうか。

 少女の姿から目をそらし迷っていると、鈴を転がしたような声に問いかけられた。


「だあれ?」


 無邪気な言葉にディオンははっと息を飲んだ。まさか、少女の位置から姿が見えるはずがない。体をこわばらせ肩越しに振り返る。と、間違いなくあどけない蜂蜜色の瞳はこちらを見つめていた。


(でも、どうして……)


 狙撃兵として訓練を受けてから、いまだかつて潜伏中に見破られたことはない。

 身を隠していた木の幹はかなり太く、物音を立てた覚えもなければ三日月が昇っているとはいえ、あたりはかなり薄暗いのだ。

 なのに少女はディオンが動く前からはっきりと、彼の姿を捉えていたらしい。


「そこにいるのは、だあれ?」


 再びはっきりと呼びかけられ、ディオンは渋々隠れ場所から這い出した。

 ばれているのなら隠れていても仕方がない。構えていた銃を肩に担ぎ、空いている方の手で支えになりそうな枝を掴むと、何度か揺すって強度を確かめる。

 手近にあった太い枝が耐えられそうだと分かると、斜面に足をかけディオンは一気に駆け上がった。

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