第三章 波乱の幕開け

11 最悪な気分

「うっ……」


 頭が痛い。ひどく殴られた後みたいに、頭の奥がガンガンする。


(ここはどこだ……?)


 軋るような痛みに耐えながらも薄目を開ければ、薄汚れた天井が見えた。

 兵舎にある自室の天井よりだいぶ低い。そのとき、ふわっと風にのって慣れ親しんだ匂いが運ばれてきて、ディオンの脳裏に爆音がとどろく。


 消毒と石鹸と、血の匂い。

 まったく、嫌な臭いだ。

 一瞬、過去の悪夢に引き戻されそうになってギュッと目をつぶった。けれど、だんだんと音が遠ざかり、かわりに昨日の記憶が蘇ってくると彼はそっと瞼を持ち上げた。


 たしか、少女が近くに診療所があると言っていたが。

 ここがそうなのだろうか?

 

 ひきつれるような感覚を覚えて額の傷に手を伸ばせば、疑問に答えるように指先にガーゼの繊維が触れた。

 ありがたいことにエールのベタベタ感と甘ったるい匂いも消えている。どうもあの匂いを嗅いでいるだけで、気分が悪くなって仕方がなかったのだ。

 どのくらい気を失っていたのだろうと、狭い小部屋で唯一と言える窓へ視線をくれたものの。おそらく朝の遅い時間だろうということくらいしかわからなかった。

 そもそもどうやってここまでたどり着いたのだろう。路地に入ってからの記憶があやふやで、思い出そうとするたび頭が鈍い痛みに悲鳴を上げる。


(彼女に聞けばわかるだろうか……)


 少女の姿を探してゆっくりと起き上れば、自分の寝ているベッドが見え、小さな窓から往来を歩く人々の足先が見え。最後に、扉に背をあずけこちらを見つめる四十を過ぎたと思わしき男性と目があった。


「気分は?」


 随分ぶっきらぼうな男だった。

 寝不足なのか目の下には濃いくまがくっきりと浮かび上がり、無精髭ひげに覆われた顔には疲労の色が浮かんでいる。ヨレヨレの白衣を着て目を血走らせているところを見ると、この人をも殺しかねない容貌の男性が、診療所の医師なのだろう。


「だいぶ良いです。あの、ここに連れてきてくれた少女は……」

「知らん。おまえさんをオレが拾ったとき、周りには誰もいなかった。運が良かったな、貧民街にのびていてスリにあわんで」

「あなたが拾った?」

「そうだ。ここら一体を縄張りにしてるコルボーが知らせてきた。今度会ったら礼でも言うんだな」


 まあ、会うこともないだろうが。

 そう言葉をつなぐと男性は不愉快そうに顔をしかめ、扉から体を起こした。


「本来オレは王都の人間は診ない。ここに来たことは忘れろ」

「――!」


 反射的に投げてよこされたものを掴めば、それはマントの下に着ていたはずの上着とサーベルだった。


「あのマントは捨てたぞ。あんなもんを好き好んで口にするなんて、キチガイも良いところだ」

「あの――」

「質問はなしだ」


 男性の言葉に引っかかりを覚え、ディオンが口を開こうとすると、一睨みで黙らされた。

 まるで軍の指導官みたいだ。それか、新兵のときに隊に組み込まれていた軍医か。

 その人は若くしてその道では有名な人物だったが、とてつもなく不機嫌で愛想がなかったのを覚えている。


「オレは寝ていないんだ。それ以上くだらない話をだらだらと続けるつもりなら、喜んで喋れなくしてやる。使鹿は専門外だ。とっとと帰れ」


 それだけ言うと、男性は足音荒く行ってしまった。

 取り付く島がないとはまさにこのことだ。

 聞きたいことはまだあったが――というか、ほとんど質問に答えてもらっていないが――あきらめてため息をつくと、ディオンはベッドから立ち上がった。


 今は頭が働いていないし、完全に朝議に遅刻している。

 手早く身支度をすませ、枕の横に治療代を置くと、ディオンは着替えのために兵舎へ向かった。


 ◇◆◇


 四年前に発足されたクリムゾンの本部は、新市街の一角ではなく、王城の中にある。通常任務に加え、王族の護衛を担うこともあるからだ。

 採用に『魔力を一定以上有している者』という厳しい条件がついているため、まだまだ規模も人数も多くない。それでも、元ガレリア軍の魔法師団員を取り込んでから、だいぶ形になりつつあったが。

 そんな本部のある王城の左翼、ではなく、旧市街に置かれた拘留所へ馬車で向かいながら、ディオンは苦りきった思いで、向かいに座るアルバートのニヤつく顔を睨みつけていた。


「お前が朝帰りたあねぇ。見直しちまったなぁ」


 ――本当に忌々しい。嫌味なくらい、腹が立つ。


 どうして馬じゃなく、馬車なんかでいくことに同意したんだろう。

 アルバートが、込み入った話をしたいと言ったからだ。

 逃げ場のない箱に詰められ、ノロノロと渋滞する道を進みながら、こいつのおちょくった会話に付き合うと思うと、収まったはずの頭痛がぶりかえしてくる。


「診療所で一夜を明かしたのを朝帰りというなら、そうなんだろう」

「なんだよ、不機嫌だな。嬢ちゃんの所に転がり込んで楽しい一夜を過ごしたんじゃなかったのか?」

「…………」

 

 ちらっと意味ありげな視線を向けられても、黙り込んでいれば盛大なため息が聞こえてきた。


「おいおい。まさかとは思ったが……はぁ、不甲斐ない。こっちは後処理するのに骨を折ってやったってのに、当の本人は診療所でのびていただけだとは」

「……誰もがみんな、色恋に生きているわけじゃないんだ。それよりも、あの後どうなったのか教えてくれ」

「はいはい、仕事が恋人ね」


 アルバートの嫌味を受け流して訊ねると、彼はひょいと肩をすくめた。


「もう大変だったってもんじゃねえよ。警吏が駆けつけた後もそこら中で乱闘騒ぎが伝染して、けが人は出るわ屋台は壊れるわで大騒ぎ。結局、うちから応援が来てどうにか収拾がついたって感じだったな」

「クリムゾンが出動したのか? そんなに大規模なものには思えなかったが」


 喧嘩騒ぎが暴徒化したとしても、相手はただの一般人。警吏で事足りたはずだろうに。


「野次馬も多かったし、二次被害が出る前に早めに対処したほうがいいってエセルバード隊長が判断されたんだよ。実際そのおかげで事態も深刻なことにはならなかったしな」

「そうか……。で、隊長はほかに何か気になるようなことは仰っていたか?」

「ああ。暴動の起こった原因についてな」


 そう言うと、アルバートは声を潜めて身を乗り出してくる。


「どうやら無料で配布されていた飲食物に薬物が混入されていたらしい。詳しいいきさつはまだ調査中だが、今回の件、偶然に起きた事件じゃないみたいだぞ」

「飲食物に? ……まさか、あのエールか?」


 まだ靄がかった記憶をたどり、ディオンははっと息を呑んだ。

 それならば不特定多数の人間が一斉に暴れだした要因も理解できる。

 少年もエールを呷って倒れ込み、その後様子が一変した。あのエールの独特な風味に違和感を覚えたのは、やはり気のせいでもなんでもはなかったのだ。


「そう、ビンゴ。朝議での報告によると、押収したエールから原料の特定できない成分が検出された。探せばほかにも出てくるかもしれないが、祭りで暴れだした奴らの大半は昼間っから飲んでたって話だから、まず原因はそれだろうな」

「でも、なんのために?」


 一般人を、それも無差別に暴徒化させて、犯人は何を考えているんだ? 売りさばくならともかく、金にならないし、祭りを妨害したって被害を被るのは旧市街の人間だけだろう?


「犯人は何の目的があってこんな事件を起こしたんだ?」

「さあな。どっかの馬鹿が騒ぎを起こしたいってんで無差別に薬物を混入させたのか、はたまた、何かうらみがあっての犯行か。どっちにしろ詳しいことは調べてみないとわからないだろうが、これが完全にクリムゾンうちむきの仕事だってことはわかる」


 厄介ごとはさっさと片づけるに限るぜ、と意気込んだアルバートに、ディオンは感心したつぶやきをもらした。


「なるほどな……それで昨日の少年に会いたいなんて言いだしたのか」


 てっきり、昨日さんざんなじっていたから、”ヘタレな坊主”に小言でも言いに行くのかと思っていたが。どうやらアルバートにしては珍しく、まじめに仕事をする気になったようだ。けれど。


「ん、んんっ」


 感心したように頷けば、返ってきたのは喉になにかを詰まらせたような、変な声だった。


「まあ、そうだ。たまには進んで働くのも悪くない」


 その言い方はどことなく妙だった。

 じっと見つめるディオンと目を合わそうともせず、何もないはずの壁に視線を逸らす。

 しかし追求する暇もなく馬車はカタンと止まり、窓の向こうに高いフェンスに囲まれた、陰気な装いの留置場が姿を表した。

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