10 どうして

 どうしてこんな事になったのだろう。

 喧騒に背を向け、決して衛生的とはいえない薄暗い路地を男性を引っ張るようにして歩きながら、エトワールはパニックに陥る寸前だった。


(お願いだから気を失わないで)


 男性に握られた手は今は逆に、エトワールのほうがしっかりと掴んでいる。離すタイミングを失したと言うよりも、手を引いていないと今にも崩れ落ちてしまいそうに見えたからだ。


(もうすぐ貧民街の入り口あたりだと思うけれど、診療所まではまだまだ距離があるのに……っ)


 それまでもってくれないと困るのだ。

 男性は痩躯だったがそれでもエトワールより遥かに背が高い。筋肉質で大木のように重いので、気絶されたらどうやったって自分ひとりじゃ運べそうにない。

 おまけにこのあたりは治安が悪く追い剥ぎも多かった。ここへ彼を置き去りにして助けを呼びに行けば、あっという間に身ぐるみ剥がされ攫われてしまうだろう。

 そうなれば待っているのは不運な末路だけ。良くて奴隷船、悪ければ……。

 次々と不吉な場面が浮かんできて、エトワールは身を震わせた。その拍子に男性がよろめき、つないだ手を引かれて後ろにのけぞる。


「きゃあっ」

「……っ」


 とっさに手を離したおかげで転びはしなかったものの、振り返ると男性はレンガの壁に手を付き、横向きに寄りかかっていた。

 血の気の失った顔には苦悶の表情が浮かび、ギュッと目を閉じている姿はとても辛そうだ。


「さっき乱闘騒ぎを収めたときには、息一つ乱れていなかったのに……」


 入り組んだ路地のせいでここへ来るまでにだいぶ走ったが、苦しそうな呼吸を繰り返しているところを見ると、もしかしたらそれだけが原因ではないかもしれない。

 事件の直前まで祭りで配られたエールを飲んでいたとすれば、これだけ激しく動けば酔いが回ってもおかしくない。


(それに、血も……)


 まだ傷口から滲み出している鮮血を見て、エトワールは表情を曇らせた。


(とりあえず、止血だけでもしないと)


 慌ててポケットからハンカチを取り出し、男性の前に回り込んで傷口に強く押し当てる。


「うっ……」


 そのとたん、男性がたじろぎ思わず手を引っ込めかけたが、どうにか思いとどまった。強く圧迫しないと意味がないのだ。


「ごめんなさい。……痛いとは思いますが、ちょっとだけ我慢してください」


 なだめるような声をかけながら慎重に血をぬぐっていくと、段々といびつな裂け目があらわになってくる。


(これは、縫わないと駄目ね)


 右のこめかみに走った傷は思った以上に深く、痕が残りそうだった。

 それでも目が潰れなかっただけ幸運なのかもしれない。あと少しずれていれば、傷跡は瞼を横切っていただろう。

 男性の端正な顔に傷跡が残ると思うと、なんとなく残念な気がしたが、この湖面を思わせる瞳が損なわれていたら、それこそ嘆く女性が大勢いたはずだ。

 さっきも思ったが、本当に思わず見惚れてしまうほど印象的な瞳なのだ。

 温かみがあって、澄んでいて。そして、少しだけ――。


(……悲しい?)


 なんだろう、この感じは。いつかどこかで、同じことを思ったような気がする。

 不意に湧いた感覚に、エトワールはぼんやりと男性の横顔を見つめた。

 泡沫のような今にも消えてしまいそうなほど不安定な記憶は、すぐそこにあるはずなのにどうしてもあと一歩が届かなくて。エトワールが手を伸ばそうとすると、男性が押しとどめるように手首をつかんでくる。

 そしてアッと思う間もなく腰に腕が回され、気づけば引き締まった胸に引き寄せられていた。

 その瞬間。郷愁にも似た思いは跡形もなく霧散し、真っ直ぐな双眸に正面から見つめられる。思ったのは男性にこんなふうに見つめられるのは初めてだということだけで、そしてその思いすらも、次の瞬間には頭の中から飛んでいった。


(さ、さっき、助けられたときにこんなことを願ったかもしれないけれど、それは別に現実に起こってほしいということじゃなくて……っ)


 こんなふうに抱きしめられたら、押し付けられ形を変えた胸からバクバクと激しく音を立てている心臓が、今にも飛び出してしまう。

 エトワールは腕の中から抜け出そうと身をよじってもがいたが、岩のような体はびくともしない。男性の力は想像以上に強かった。おまけに突き飛ばそうにも両腕はお互いの胸の間に挟まれているせいで、まったくの役立たずだ。

 けが人相手に頭突きを見舞うわけにもいかず、エトワールは必死に声をあげた。


「あ、あのっ、離してください」


 けれど。


「きみ……は……」

「ひゃっ」


 彼がすぐそばでなにか言ったとたん、頬に吐息がかかり――エトワールは耳の先まで真っ赤になった。

 

(お願いだから離してぇ)


 子供のころを除き、男の人に抱き締められたのなんて初めてなのだ。キスも、恋愛経験も、それ以前に異性との交流なんてまるでない。

 だから強すぎる刺激にくらくらしかけたとき。天啓のように『そいつが変になったら、迷わずぶん殴って逃げろよ』という、ありがたい助言を思い出したのは、神様の思し召しだ。

 

(怪我してるのは頭だもの、多少痛い思いをしても響くことはないはず)


 エトワールが唯一自由が効く脚で、思い切り彼の脛を蹴ろうとしたとき。


「…………」


 彼がまた、なにかを言った。

 すがるような表情で。


(な、に……?)

 

 やっと見つけた、とも聞こえたし、君に伝えなきゃ、とも聞こえた。

 けれど訊ねる間もなく端正な顔が近づいてきて、エトワールを押しつぶすように倒れ込んでくる。そして意識を手放す寸前、彼がつぶやいたのは――。





「――ステラ」


 その名前を聞いた瞬間、エトワールは世界が砕け散ったように思えた。

 うそだ。

 そんなはずはない。

 この人が呼んだのは、別な人。そうでしょう?

 さっきとは違う意味で、胸が早鐘を打つ。背筋に冷や汗が吹き出し、エトワールは震える手で、男性を揺すった。


「お、起きて。起きて下さい」


 いや、目を覚まして欲しくはないかもしれない。

 このままここに置き去りにすれば、全部なかったことにできる。この男性の存在も、私の頭を悩ませる存在も……。

 けれど、実際はそんな非情なことができるはずもなく、エトワールはどうにか男性の体の下から抜け出すと、ぐったりとした彼を壁にもたれかけさせ、あたりを見回した。


(もしかしたら、この辺にコルボーがいるかも……)


 案の定、エトワールが小さく口笛を三回吹くと、側溝の中から小さな黒い影が出てきて、とてとてと駆け寄ってくる。


「マダム。言伝は一ペンス、届け物は三ペンス、手伝いと情報と人探しは一オンズだよ」


 コルボーと呼ばれる万屋の少年は、まだほんの子供だった。あと五、六年もすればたくましくなるのだろうが。今の彼とでは男性を担げそうにない。

 かすかに落胆を覚えながらも、ポケットから一ペンス硬貨を取り出すと、エトワールは少年に頷いた。


「伝言をお願い。診療所に行って、エトワールが手を貸して欲しがってるって伝えて」

「マダム、あんた先生の姪ごさんか?」

「ええ。この人を先生のところまで連れていきたいんだけど、一人じゃ運べなくて」

「ん、わかった」


 そう言うと少年は硬貨を受け取り、ポケットに仕舞いながら頷く。


「今日はやたらと賑わってるみたいだけど、なるべく急いでって言ってくるよ」


 エトワールが礼を言う前に少年は闇の中に溶けて、小さな足音だけが遠ざかっていった。


(これで、多分大丈夫)


 ベーグモントおじさんなら、うまく対処してくれるはずだ。

 そう思うと少しは心が軽くなり、エトワールは男性が少しでも楽な姿勢を取れるようにと、隣に座り込んでその体を自分の肩にもたせかけた。


 石畳は冷たかった。

 けれど、男性の体は暖かかった。

 それに無防備な顔は起きているときよりも幼く見える。


(たしか、ディオンと呼ばれていた?)


 名前なのか愛称なのか。それどころか、どこの誰かもわからない。

 そんな人と肩を寄せ合っているなんて変な気がしたが、抱きしめられたときも今も、不思議と不快感は覚えなかった。

 それにこうしてじっくりと見ると、新たな発見があった。

 たぶん、それなりにしっかりした身分の人なんだろう。

 どこかのお屋敷の用心棒か、あるいは軍人か――身につけているシャツもズボンも既製品だが、腰に下げているサーベルは特注品で、見逃しようがない。

 それならきっと大丈夫。私とこの人では、天と地ほども生活区域が違うもの。


 王都は広い。ミエルフルールも人気店とはいえ、エトワールが働く本店は旧市街の中にある。貴族やそれに仕える階級の人たちが住む新市街に比べて、圧倒的に人口も移民の数も多いのだ。

 その中でたった一人の名前も知らない人物を探すのは不可能に近い。よほどのことがない限り、この男性とはもう二度と会うこともないはずだ。


(……でも)


 そのことに安堵こそすれ、落胆するいわれはないはずだった。

 けれど後ろ髪を引かれるような、この気持ちは何なのだろう。


 ――彼は、ステラを知っている。


 捨てたはずのを知っている。

 だからかもしれない。

『私を忘れないで』と、ささやく声が、彼の存在を引き留めるのは。


(でもだめよ。耳にした言葉が何だったにせよ、私には関係ないことだもの)


 今ある平和を犠牲にしてまで、欲しいものなど何もない。

 たとえ孤独を感じるとしても。ときどき漠然とした不安に押しつぶされそうになったとしても。両親との誓いを忘れてはいけない。


 ――無事に逃げて。

 ――幸せになって。私たちのお星さまエトワール


 それが、両親の最後の願いだった。

 エトワールは小さな声を打ち消すと、その言葉を胸に刻むようにただ静かに瞼を閉じた。


 『幸せ』は争いも飢えることも嘆くこともなく、健康で毎日をおくれることで。戦争はそのすべてを奪ってしまう。

 ルークスウィアの存在が再び世に出ることがあれば、必ず利用しようともくろむ輩が現れる。ガレリア王家の生き残りか、権力を欲する愚か者か。

 だからこそ、争いの火種になってはいけないのだ。だからこそ――。



 

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