第10話 裏切者 part1

 ジョシュアの旅が最終目的地まであとわずかというところまで迫っている頃ー。

 イギリスはロンドン郊外、夕暮れに染まるウォルズリー城の一室で、執事のレスターは祖父の代から受け継がれるデスクに座り携帯電話を握りしめ、呼び出し音に耳を傾けていた。

 だが彼の願いもむなしく反応はなく、それでも諦めきれない様子で電話をかけ続けていたのだが、やがて天を仰ぐように電話を机の上に放り投げるとため息を漏らした。


「まったくあのお方ジョシュアだけは!せめて連絡ぐらい取れるようにしてくれないと……」


 室内にはレスター以外にクラシックなアールヌーボー様式のソファーに座る白髪頭にメガネをかけた老紳士と、レスターの隣のたくさんの書類が積み上げられた小さなデスクで複数のノート型PCや大型のタブレットを操作しているインド系と思おぼしき小柄な若者だけがいる。


「失礼いたします」


 静かに入ってきたメイドが各人のカップにお替りの紅茶を注ぐと、殺伐とした室内はゆっくりと心安らぐ香りに包まれてゆき、メイドは無言で頭を下げ退室していった。


「さすがの『教皇聖下や女王陛下の前でも動じない氷の男アイスマン』も、あの子の事になると形無しだな」

 老紳士はアンティークなティーカップを顔の高さに持ち上げ、鼻腔いっぱいに立ち上る香りを満喫して微笑むと、苛立ちを隠せないレスターに静かに話しかけた。

「少しは落ち着いたらどうかね、マーク。そんなことではせっかくのいい茶葉が台無しだ」

「そんな、他人ごとみたいに仰らないでください、クラーク先生!」


 レスターは怒りというよりは、家族間のトラブルを頼りになる年上の縁者に嘆くように言葉を返す。


「しかし祖父ジャックヘンリーと合わせ三代にわたり執事としてウォルズリー家に使えるマークも今回ばかりはお手上げのようだな」

「何十年もこのウォルズリー家に関わってこられた先生なら、少しはジョシュア様にお説教をしてやってくださいよ。先代アーサー様がご逝去されてもうすぐ一年が経とうというのに、この城のことも十二親族の方々にもまったくの無関心で遊び歩かれているのですから!」


 クラークー本名チャールズ・C・クラークは英国女王より勅許Royal Charterを受けたACCA勅許公認会計士会の資格を有し、長年にわたってウォルズリー家の財務会計を請け負うイギリスでも有数のキャリアを誇る会計士であった。

 

「今回も年に一度の親族会議を当日にキャンセルしたかと思うと、突然海外へと旅立ってしまわれるし……」

「まあ、彼も学校パブリックスクールを卒業し、カレッジへの進学も控えている。これから忙しくなるのは解っているだろうから当主に就く前に色々とやりたい事もあるのだろう」

「それこそが問題なのですよ!」

 レスターの声のトーンが上がった。


「既に世間的にはジョシュア様が新当主と思われていますが、十二親族の皆様方の出席する親族会議での承認が降りないうちは正式には認められないのですから。もし、それ以前にその身に何かあれば……」

「確かにそうだが気に病むことはないだろう。今さら八十年以上前のハワード公の事件のように当主の座を狙う者もおらんだろうし」

「それはまあ、その通りなんですが……」


「で、結局のところ彼ジョシュアの行き先は、あの世界一平和で安全な国ーー日本のどこかかは分ったのかね?」

 クラークはアンティークカップの絵柄を興味深そうに眺めながら、さほど関心のない口ぶりでレスターに訊ねた。

「いえ、まだ何も」

「そうか。あそこではないのかね、何と言ったかな……先代アーサーの父上の出身であり、幼少期を過ごされた小さな町……」

「オノミチ……ですか。いや、まだ確認は取れておりません」

「君も気苦労が絶えんな」

「こればかりは仕方がないですね。リタイアしてのんびりと好きなバイクや車いじりでも楽しみたいものですよ」

「君のメカ好きは、父親譲りだな」

「お恥ずかしい限りで……ところで、本日はそれとは別に気になる事がありまして、ぜひ先生にご相談に乗っていただきたいのですが」

「だろうね。だからこそ監査の時期でもないのに私を呼んだ訳だろう」

「……お忙しいところを申し訳ございません」

「構わんよ、マーク。君の父上ヘンリーには私も若いころから随分と世話になったものだ。私たちは家族のようなものじゃないか」

「……温かなお言葉、ありがとうございます」


 レスターは一瞬、どこか切なそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔になってクラークへと書類を手渡した。

「実はですね、これらのいくつかの書類に奇妙な点がありまして」

 それは十二の親族を含むウォルズリー家の財務状況のうち、国外への投資を示す書類だった。

「この数年、ご親族の間で海外の企業への投資が急激に増加しているのはご存知だと思うのですが……」

「勿論だ。ここにある大半の企業は私が相談を受けて紹介したものだからね。デジタル関連から再生エネルギー、食糧プラントなど規模や業種は様々だが、いずれも極端な収益もない代わりに損失もわずかで済んでいる健全な投資先ばかりだよ。これが何か?」



「あまりにも、健全すぎるんですよねえ」



 レスターがクラークに応える前に、インド系の若者が声をあげた。

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