第49話:不明の出来事

 ――わたし、人を。人間を……!

 無我夢中だった過去の菫には、実感が無いだろう。しかし第三者の視線で、同じ視点を持っていた今の菫には分かる。

 夜風から遠退けようとした銃口は、母に向いていた。


「母さん? ねえ、母さん。ねえ、ねえ! わたし、どう、ええ? なんでこんな、こんな――うわあああああ!」


 天を落としそうなほどの絶叫。それは胸の中身を空っぽにしても、ほんの一瞬の間だけでまた続く。

 そうしていれば、無かったことになりはしないか。聞き咎めた誰かが、助けてくれはしないか。或いはただ、叫ぶことで考えるのを拒否したのか。


 今の菫にも定かでない。それどころでない。

 過去の菫より、いっそう明確に。人を殺した感覚が、恐怖を拵えた。宴の演奏に耳を澄ませ、酒気の強さに顔を顰め、饅頭の甘さに口元を緩ませる。そんなたしかな五感を持ち、菫はこの光景を見てしまった。

 きっと二度も、母らしき人を殺してしまった。


「うわあああ!」


 陽が駆け足で落ちていく。無情な暗がりが悪意を濃くし、雪も、母も、夜風も、区別を失くしていった。段々と、着実に。


 ――取り返しがつかなくなる。

 などと、思ってしまった。既に取り返しのつかないのは、厭というほど知っている。だがこのまま、闇に沈めてはいけないと考えた。

 二人の死体が、他の獣に食い荒らされてしまう。葬るなら、どこかへ埋めなければかわいそうだ。なにより誰かに、この悪事を知られてしまう。


 隠さなければと思うのに、身体が動かない。それはもちろん、過去の菫がいまだ叫び続けているからだ。恐慌から脱しなければ、この身体は動かない。

 ただ意外なことに、その時はすぐに訪れた。鋭さを増す冷気の槍が、菫の喉を傷付け始めた。


「ごほっ! ごほっ!」


 咳き込み、声を失う。これだけ叫べば、体力も尽きたに違いない。菫は雪へ膝を埋め、両手もそれに倣った。「はあ、はあ」と、やかましい己の息遣いが腹立たしくも悲しい。


「誰……?」


 暴れる息をどうにか御し、ようやく声を出せる。問うたのは、近くの茂みで音がしたからだ。がさりと大きく鳴ったのは、風のせいであり得ない。


 ――誰かが見てた。

 そうと知って、少し心が平らに近づく。菫の身体も、ほっと息を吐いた。責められる怖れより、独りで無くなった事実に安堵した。

 いやさ責められるなら、それさえもありがたい。一人で居るから、おかしなことを考えるのだ。誰かここへ来て、菫はこうしろと教えてほしい。


 神に祈る心持ちで、茂みを見つめる。けれどもそれは、人間でなかった。夜風よりも大きな、薄墨色の狼。額には人魂のような勾玉のような、白い模様。


 ――狗狼?

 茂みから、すっすっと。歩み寄る狼は、人の形に姿を変える。全身毛むくじゃらで、顔だけはまるきり狼という異形に。


「すまん」


 あと三歩というところで狗狼は立ち止まり、頭を下げる。なにに謝っているのやら、全く意味が分からない。過去の菫はなおさら呆然として、「へえ?」と間抜けな声を漏らすだけだ。

 狗狼はそれきり何も言わず、菫の額に手を触れた。ひとつかふたつ、数える間のありやなしやで菫の視界は暗く閉じる。


 ここで記憶を奪ったのだろう。だから雲の見せる幻影も、ここまでのはず。

 だが実際には、数拍ほども画の途切れただけだ。やがて再び見えた視界に、倒れた母と夜風。それに菫が映った。


 視界の主は母に歩み寄る。

 抱きかかえるのだと思ったが、違った。狗狼の手が母の胸元へ伸び、隙間からなにかを取り出した。

 大きな手に握られたのは、小さな半月型の櫛。模様までは見えないが、きっと菫には見覚えがある。


 そんな物をどうするのか。見ていると、今度は菫の傍へ寄った。すぐ脇へしゃがみ込み、先と同じく胸元へ手を伸ばす。

 しかし触れない。なにやらためらうように手を止め、逡巡の後、方向を袖に変えた。袂へ櫛を放り込むと、狗狼は菫を抱え上げる。


 母と夜風には、もう目が向かなかった。狗狼はそのまま、山を下る。進む道を誤ることも、迷うこともなく、菫の住んでいた小屋へ。

 そっと。そうっと。薄紙を十枚に剥がすような手つきで、菫は薦に寝かされた。そのときまた「すまん」と、狗狼は謝る。


 少しの間、菫を眺め。狗狼は己の姿を狼に変えた。手が使えないから、では言いわけにならぬくらい乱暴に戸を開けて出て行く。見ている菫には、狗狼の行いのどれ一つを取ってもわけが分からない。


「おうい、菫。帰ったのか? 遅かったな」


 僅かな間の後。十間ほど離れた向かいの小屋から、進ノ助がやってくる。狗狼はそれも、とっぷりと暮れた空から見下ろしていた。


「なんだ、返事がねえな。入るぞ。返事がねえから仕方なくだ」


 勝手に小屋へ入ることの釈明を一人で行って、進ノ助は菫の眠る小屋へ入った。些かごそごそと中を探る気配があって、声が上がる。


「おい蕗さん。居ないのか? おい菫、なにを呑気に寝てんだよ。蕗さんが居ねえぞ。おい、どうした。おい」


 やがて進ノ助は、首を捻りながら外へ出る。が、すぐに自身の小屋へ戻っていった。「親父」と、菫の小屋の異変を伝える為に。

 そこまでを見届け、狗狼は東谷を立ち去った。

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