第47話:狗狼の病
「我は部屋へ戻っている。用があれば呼べ」
「えっ、どうしたの急に」
いそいそを通り越して逃げるように、狗狼は縁を歩み去る。
ただの癖と思っていたが、首の痒みはそれほど酷いのだろうか。皮膚の病も、悪いものは馬鹿に出来ぬと聞くけれど。
「大丈夫かな」
「さあて、それは聞いてみなきゃ分からないね」
また、知りたいことは自分で聞けと言われたと思った。菫自身、言われずともそれが良いかなと考えてもいた。
しかし雲は、立とうとした菫の肩へ触れる。
「持病が出てるらしいから、アタシが見てくるよ。文の話が後回しになって悪いね」
「ううん。そんなの、全然」
菫にしか関わらぬ話は二の次だ。ましてや、いっとき留め置くだけのこと。狗狼の一大事とは比べるべくもない。
だが持病があるとは知らなかった。誰にでも言えることでなかろうが、聞かされなかったのを寂しく思う。そんなことを言っている場合ではないだろうし、図々しい限りではあるけれど。
はたはたと、雲も足元に風を巻いて行った。声もかけずに障子を開け、さっさと狗狼の部屋へ入っていく。ぱたんと大きめに戸が鳴って、祠を静寂が支配した。
こここ、と湯の煮立つ囲炉裏。飯を炊くかまどの、はちはちという音色はある。部屋一つ分の距離を隔てた、たったそれだけの向こうだというのに、あちらとこちらが遠い。
「……良くないのかな」
干し大根を煮終えても、雲は戻ってこなかった。彼女の手に負えぬことなどそうそう無かろうし、あの部屋の中で済む程度ではあるようだが。
――一人で居るには、広すぎるよね。
そも、広々とした祠だ。図体の大きな狗狼や、賑やかな雲と居てこそ、空疎に感じない。外の灯りさえ落ちた気がして、秉燭を点けようか迷う。
「あ、雲。具合いはどう?」
腰を浮かしかけたまま。結局のところ、ただ待っていた。そこへ狗狼の部屋を出た雲が、落ち着いた足取りで縁を戻ってくる。なにも持たずに行ったはずだが、彼女の手には一本の蝋燭が握られた。
菫の小指ほどの、細く小さな物だ。
「具合い? ああ。持病ったって、そういうんじゃないよ」
「持病だけど病気じゃないの?」
「まあね。具合いが悪いってのも、実は間違っちゃいないけど」
さっさっと機敏に歩くのは、いつものこと。囲炉裏の角を挟んで、隣に座るのも。だがどこか、いつもと違う。
例えば裾が言うことを聞かなくて、少し乱暴な手付きで払うこと。
例えばいつも丁寧に扱う
例えば菫と話すのに、目を合わせようとしないこと。
「なにか、あったの」
問うても、返事はない。常から姿勢のいい雲だが、自身の座る格好を何度も正した。遠火にした干し大根の鍋をじっと見つめ、やがて大きく息を吸う。よほど覚悟を決めねばならぬらしい。
「菫、話を戻すよ。さっきの歌のことだ」
「ええ? 狗狼は」
「いいんだ」
ゆっくりとした、柔らかい口調。だのにそれ以上問うのを許さぬ、厳しさがある。
菫は息を呑み、頷いた。
「東宮の歌には、裏の意味がある」
「うん、教えて」
「美しい菫には、知らずに居てほしい。あなたの周りで、表と裏を使い分けるような者のことを」
そこまでを言って、ようやく雲はこちらを向いた。「分かるかい?」と、悲しげに微笑みながら。
「菫には知らずに――」
聞いた通りを、四度も五度も繰り返す。当然に、意味は分かった。菫を騙している誰かが、すぐ近くに居ると。
ではそれが誰なのか。候補は、さほど居ない。自明とも言えるような答えが、頭に浮かばない。
いや。はっきりさせてしまうのを、菫自身が拒んでいる。
「…………狗狼が」
「あいつのことを、東宮に話したかい?」
どうにか絞り出した名を、雲は否定しない。幾つか挟まるはずの言葉が省略されただけで、これは肯定なのだと理解した。
「歌を。練習した歌を見せたよ」
「ああ、それで」
古傷でも痛むような顔で、雲は手を出す。歌を出せと言うのだ。
菫は胸元から、懐紙を取り出した。挟んでいた短冊を開き、狗狼の歌を詠む。
「御覚の、隅よりすみを打ち眺む。世世に徒なり、ひとり養へ」
違いないと頷く雲に、短冊を渡す。と、すぐに丸められ、囲炉裏の火へ投げ込まれる。
「あっ!」
「あいつも馬鹿だからねえ。しゃんとすりゃあいいのに」
「ねえ、雲。どういうこと? さっぱり分からないよ」
躙り寄り、雲の袖を掴む。だけでなく、駄々っ子のごとく強く引いた。
菫だけが除け者のようで、なにやら取り返しのつかぬことを見過ごしている。無性にそんな気がして、聞かずには居れない。
「ごめんよ。あんたにはまた、つらい話になる。それでも聞いてくれるかい?」
「狗狼が関わってるんでしょ。教えて」
雲は力強く、菫の肩を引き寄せた。泣くのをあやすように、背中まで叩かれる。そうして耳元で、「分かった」と。
彼女にも、気持ちを整理する時間が必要なのだ。察して、菫も抱きしめ返す。
やがて互いが互いを離したとき、囲炉裏の火は消えかけていた。
「この蝋燭は、狗狼の部屋に置いてあるもんだ」
「うん、たくさんある中の一本だね」
薪を足しつつ、框に立てた蝋燭を雲は指さす。そうだろうと思っていたので、そこに驚きはない。
「こいつは、記憶の火だ」
「記憶の? 誰かの想い出が、蝋燭になってるってこと?」
「そうだよ。火を消せば、この記憶は完全に消えちまう。なにもしなくても、蝋燭が短くなればやっぱり消えちまう」
狗狼は高ぶった人間の感情を辿り、元になる記憶を消すことが出来る。その瞬間を、菫も見てしまった。
消すと聞いて跡形も無くなると思っていたが、そうではない。いつかは消滅するものの、しばらくは蝋燭の形で残るようだ。
「で、だ」
「うん」
わざわざ一本だけ、ここへ持ってきた蝋燭の素性を雲は言おうとしている。口を開きかけては閉じ、どうにか踏ん切りをつけながら。
なんとなく、予想はついた。信じたくないけれど、やはりと納得出来る部分もある。
「この蝋燭はね、その。なんだ」
「うん」
「ええと、これは。狗狼が、あんたから奪った記憶さ」
話してくれた雲の勇気は、途轍もないものだ。
そんな彼女を責めるようで、驚いたり落ち込んだりはすまいと決めていた。が、その必要は無かったらしい。
「うん、なんの記憶なのかな。それも教えてくれる?」
重ねて問う心が、とても平坦だった。菫自身、凍り付いた水面のようと思うほど。
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