第11話:不明と明白

「なんで? おかしいよ雲。わたし、誰に産んでもらったんだろう」


 父のことを、それほど多く覚えていない。だが死んだ事実を聞かされてきたし、墓もある。忘れた記憶は多くとも、居なかったと思えない。


 だのに雲の言った通り。菫が居る以上は、産んだ誰かも居るはずと。そんな理屈でしか存在を考えられない。

 母の居た事実を、どうにも信じられなかった。


「ああ……」


 にじり寄った雲が、菫の首に抱きつく。頬を擦り寄せ、後ろの頭を撫でてくれる。


「無理に考えなくていい。言ったろ、あんたは怪我人なんだ。じきに治れば、きっと思い出すさ」

「ありがとう……」


 雲の気持ちに戸惑った。もちろん温かな言葉で、ありがたいとは思う。しかし忘れた実感もないのだ。労られるような驚きや悲しみを持てずに居た。


「ね、どうして気付いたの。わたしがなにか忘れてるって。櫛のことだけ?」


 深い同情を享受し続けるのは、騙しているようで胸に痛い。だから少しでも話題を変えようと思った。


「いや、あれ? って思ったんだ。あんた、狗狼を見ても怯えなかっただろ。いくら奉られてても、直にあれを見て声も上げないなんてなかなかだよ」

「ええ? たしかに迫力はあるけど、狼は優しい獣だよ。だって――」


 ――わたし、なにを言おうとした?

 祠の何ヶ所かに飾られた絵よりも、狗狼は怖ろしげだ。けれどもそれは、どんな物だってそうだろう。実物より強い存在感を持つ絵など、見たこともない。


 しかし狼とは優しいものだ、ゆえに狗狼を怖れる理由もない。と、菫には確信があった。

 ただ、どうして言えるのか。そこから先の道が、ぷっつりと途切れる。そういえば狗狼を初めて見たとき、嬉しいと感じた覚えもある。それにもやはり、繋がる先が見つからない。


「だって?」

「なんだろう。わたし、なにが言いたかったのかな。ねえ雲、どうしてこの祠は、狗狼を祀ってるの?」


 狗狼が狼の化身とは分かる。当人から聞いたせいもあるが、見れば分かる。だがなぜ、狗神を崇めているのか。飛鳥というこの国に、神は数え切れぬほど御座すのに。

 なぜ狼などという、誰もが怖れる獣・・・・・・・を選んだのか。


「どうしてって、あんたたち人間が選んだのさ。あんたの村でも、狼だけは決して傷付けるなってなってたはずだよ」

「東谷で?」


 息苦しいほどの拘束が緩められ、雲の顔が目の前へ来る。


「それも分からないんだね」

「うん、そうみたい」

「大丈夫だよ、あんたの生きるのに大したこっちゃない。そんなことで良かったってくらいだ」


 雲は何度も頷いた。むしろ彼女自身を納得さすように。それでもどうしても悲痛な表情になって、また菫を抱きしめてごまかす。


「今日はもう寝ちまおう。時間が経てば、なにか変わるかもしれないし。ただ待ってるなんて退屈だからね」


 良い案なのだろう。眠気はないものの、底知れぬ疲労が身体を重くしている。もうとっくに唐衣や表衣は脱いでしまい、単衣姿というのに。


「うん、でも」

「なんだい?」


 灯りを消し、寝床へ横になる。そうして瞼を閉じ、眠りに就く。これまで毎日、繰り返したとも思わぬ行為が怖ろしい。これからそうすると考えただけで背すじが凍り、頭痛がし始める。


「隣に居てくれる?」

「――ああ」


 なにを言い出すのか、意外に受け取られたのが一瞬の間に見えた。それでも、子どもかと馬鹿にされなかった。


「そのつもりだよ」


 雲は優しく笑み、当たり前のように衾を隣へ並べる。それはたしかに無かったはずが、いつの間にか部屋の隅へ置かれていた。彼女は人間でないと、自身が言っていた。

 けれど菫には、確実に言える。


 ――雲はわたしの出会った中で、いちばん優しい人。

 浅く衾を掛け、横になる。伸びてきた雲の手が、菫の両手を包んでくれた。冷水に浸け続けたような温度が、逆に足下のぬくさを際立たせた。母が居たなら。いや、居たはずだが。たまにはこうやって、甘えていたのだろうか。


 瞼を閉じまいとする菫の無意識が、警戒の気概を失うまで。雲はずっと、この山の話を聞かせてくれた。

 その多くが、雪の降る景色でのこと。彼女は冬が好きらしい。

 明日は出来たら、雪遊びをしよう。そう約束したのが夢か真か、菫には分からなかった。


 明けて、朝。

 菫が目覚めると、雲はもう傍へ座っていた。衾や敷物も、姿がない。

 急かされることなく、軋む身体をすぐに起こす。すると手際よく、ぬるい水を張った桶が出てくる。なにかと思えば、これで顔を洗えと。

 冷たいせせらぎに、手を浸さずとも良いらしい。不精のようだが、厚意に甘えた。


「雪遊びをするなら、あんたの小袖のほうが動きやすいね」


 夢ではなかった。ただそれなら、父の小袴が欲しいところだ。そう思うと直ちに、暖かそうな衣が取り出された。袿をふわふわと、厚くしたような。掛けてもらうと、そこへないかのように軽い。


「暖かいね」

「綿入れだよ。それを着てりゃ、積もった雪なんてどうもないさ」


 どうしても雪遊びがしたいわけではない。

 雲が勧めてくれるから。従うことに、居心地の良さを感じた。自分では気を紛らすのも出来ず、彼女の言うままが楽だ。


「入るぞ」


 と、障子戸が叩かれた。狗狼の声だ。「ちょいとお待ち」と雲は答え、すぐにも出かけられる格好に菫を整える。


「入って良し」

「ここは我の祠なのだがな」

「ここは菫の部屋なんだろう?」


 冗談の類らしく、二人は挨拶代わりにそんなことを言い合う。

 立って歩く狗狼は初めてだ。腰を曲げて鴨居をくぐり、菫を見下ろす位置まで無遠慮に歩み寄る。


「ちょうど良い格好をしているな」

「ちょうどって」

「気晴らしも必要だろう。外へ出るぞ」


 前置きも説明もなく、返事さえ待たない。狗狼は「待っている」と、さっさと部屋を出て土間へ降りた。


 ――雲と約束をしていたのに。

 彼なりの気遣いではあろう。順序があれば、素直に感謝出来たものを。反感までは至らぬ小さな棘が、菫の感情に刺さる。

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