第10話:知らないもの
それから夜まで、菫は起き上がれなかった。また絹の敷物に絹の
「あんたは怪我人なんだよ、身体も心もね。痛みはごまかしてやれるけど、すぐに治るわけじゃない。無理は禁物さ」
雲はあえて、「駄目だよ」ときつく言った。語調は強いが、笑った目が冗談だと告げている。
「ああ、そうだ。あんたの小袖、直ったからね」
「あんなボロボロになったのを?」
裾も袖も引き千切れて、尻が見えるとからかったのは雲だ。無事な部分よりも継ぎのほうが多くなるようなあれを直したと、彼女は言う。
実際その手には、見慣れた柿渋色の布が載せられていた。
「本当だ……」
「なんだ、疑ってんのかい? あんたの座ってる
気怠い身で、「えっ」と腰を浮かした。横になれと言われたとき、わざわざ新品を用意したのかとたしかに思ったのだ。
改めて汚したはずの箇所を見ても染み一つ、絡まった糸くずの一本さえない。
「こんなことが出来るなんて、雲はすごいね。
山菜の煮物。小魚のつみれ汁。菫には作り方も分からぬようなものを、腹いっぱいに食べた。喉も通らぬと思ったのに、汁だけでもと言われ、口を付けたら止まらなくなった。
「なんだいなんだい。そんなに褒めても、なにも出ないよ。なんて、だいいちアタシの仕業じゃないしね」
「違うの?」
「アタシの仕事は、預かることさ。あんたが要らない
菫自身の世話を焼くことも、だから自分の仕事だと雲。面倒をかけることに、菫は申しわけなく眉をひそめる。
「だから気にしなくていいってんだよ。繕いも料理も、うまいやつが居るんだ。アタシはあんたを構って遊んでるだけさ」
「他にそんな人が居るんだ。お礼を言わなきゃ」
「そいつは無理だ。あんたが礼を言いたいなんて伝えたら、どこかへ隠れちまうよ」
極度の恥ずかしがりらしい。ならば無理強いはすまいと、雲から感謝を伝えてくれるように頼んだ。
「ところで、袖にこれが入ってたよ。うっかり忘れるとこだった」
菫は寝姿のまま連れられた。そんなときに、なにをも持ってはいない。
よほど小さな物なら、入れたまま忘れることもあろうか。首を傾げつつ手を出すと、半月型の櫛が置かれる。
「これが入ってたの?」
「そうだよ。小袖を直さす前に、アタシが見つけたんだ。間違いない」
櫛という物は知っている。だが持ったことも、使ったこともない。菫の手にちょうど収まる滑らかな感触を、何度か手の内で転がしてみた。
すると片面に、なにやら彫ってある。
「あの、これ」
「ここの紋だね、
八つの丸が円状に配された中へ、一回り大きな丸が置かれている。
庶民には縁のないものだが、見覚えがあった。と言うより、今もすぐ傍の柱に同じ紋が見えた。
この祠を表すのだろう。狗狼の狩衣に染められていたのもそうだ。
「わたし、こんなの知らない」
「知らないって、おかしいねえ。あんたの物以外には考えられないんだけど」
祠の紋があるのだから、ここで作っているものでないか。そうも考え、問うてみた。が、雲は首を横に振る。
「そんな商いをしちゃいないよ。大した造作じゃないし、彫るのはあんたでも出来るだろ?」
「まあ、紋だけなら」
雲にも見当はつかないらしく、先の言葉通り「預かっとこうか?」と言われた。
しかしどうも気になる。
「うぅん。知らない物だけど、手放しちゃいけない気がする。その机に置いていてもいい?」
「構わないよ。居る間、この部屋はあんたの好きにしていいんだ」
奥の明り障子に面して置かれた文机へ、雲は櫛をそっと置く。
立って七、八歩のことだが、やけにゆっくりと。さっさっと迷いなく歩く彼女に珍しい。
「なにか気になる?」
「うん。いや気になるのは櫛じゃなくて、あんたさ」
ずっと気遣ってくれている雲が、またいまさら。などと思うが、そうではないようだ。いま話しているうちに気がかりが出来た、と彼女は言う。
「ここへ来た女の何人かに、あったことなんだけどさ」
「うん」
「なにもかもってわけじゃないんだよ。怖い思いをしたりして、心がぎゅっと縮こまっちまったんだろうね」
「ええと、どういうこと?」
言いたいことそのものを、雲はなかなか言い出せないでいる。合間に「大したことじゃないんだ」などとも繰り返して。
「なに、怖いよ」
「ごめんよ、脅かすつもりはないんだ。嫌なことを思い出させたらって、遠慮しちまってね」
「大丈夫。言って」
こうまで言われて、有耶無耶になるほうが怖ろしい。大丈夫と思えなかったが、聞かぬ選択肢はない。
「じゃあ聞くけど。あんた今までのこと、すっかり覚えてるかい?」
「今までのこと?」
「そう。ものごころがついて、最近まで。そりゃああれこれ、細かいことは忘れてるだろうけど。どうやって暮らしたとか、なにを食ってたとか、好いた男が居るとかさ」
どういう意味だか、理解するのにしばしの暇がかかった。
東谷で生まれ、猟師をして暮らした以外に特別なことはなにもない。たったそれだけを忘れるなんて、難しいことを言うと。
「そんなの覚えてるよ。わたしは山で、罠を使う猟をしてた。師匠たちが教えてくれたんだ。弓はそれほど得意じゃなかった。進ノ助に、よく馬鹿にされたよ」
東谷の面々が、頭に浮かぶ。しかし大丈夫と言ったのだ。こっそりと脚に爪を立てて堪える。
「うん。じゃあ好きな食い物は? 家族は? 好いた男は?」
「好きな人なんて居ないよ。食べ物はそうだなあ、猪の脚を焼いたの」
野山を駆けたのは、つい昨日まで。好きな男に至っては、どうしてだか椿彦が思い出された。
忘れるどころか余計なことまで思い出してしまったと、かぶりを振って追い出す。
「家族はね、父さんが居たよ。でも随分前に、山で死んじゃったんだ。わたしはまだ十歳くらいで、よく分かってなかったんだけどね」
「そうかい、そりゃあつらかったね。でも母さんと一緒だったんだね」
記憶を思い出すことは、息を吸うのに似ている。出来るのが当たり前で、出来なくなるのを想像もしていない。
きっとそうなったら、呆然としてなんの対処も叶わぬだろう。
「母さん――?」
「お母さんだよ。あんたを産んだ、女親だよ。柿の股から産まれるなんて、ありやしないんだからね」
知っている。母親という存在があることは知っている。
けれどもそれが、菫自身の親となると。突如として目の前へ、真っ白に色もない草原の広がったような思いがした。
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