菫が狗狼に自らを差し出そうとしたのは、自棄もあるかもしれないなと思いました。
故郷の人たちから大事にされていなかった自分なんて、どうなったっていい、みたいな。
一旦生贄として神に捧げられた者が戻ってきたら、村人たちとしても恐ろしいでしょうね。
どうあっても二度と戻れないのは、哀しいです。
作者からの返信
すずめさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
自棄。大事にされていなかった自分。そんな気持ちはきっとあると思います。
村のことも自分のことも、どうでもいいしどうでも良くない。それを決める基準が見えなくなった菫です。
元の場所へ戻った人が残らず死んだというのは、仰る通りの理由です。
最大級の祈りを捧げたはずが山神に断られたどうしよう、と。
菫もそうなると決まったわけではないですが、狗狼は止めていますね。
>「狗狼、ありがとう」
上の言葉の所ですが、顔貌は感謝の様子と言うよりも気持ちが鈍い感じに捉えられるのですが。作者様は、上手くタメの記号として、「――」などを用いますが、今回は少々ですが、菫さんの内の言葉を表すのに使われていらっしゃるのでしょうか。
そして、帰れないことを知った菫さん。今思えば、あの名乗らぬ者のことなど忘れているのでしょうか。それは、長く暮らした東谷のこと、それが、胸を占めているのは、当たり前ですよね。直ぐに彼女の命運は決まらないのですね。雲さんは、包容力がはっきりと分かりますね。狗狼は、決して冷たくない。事実を淡々と生きているように感じます。生きていると言うのも難しい表現ですが、在ると言うべきでしょうか。いえ、生きています。次回も楽しみです。
作者からの返信
こゆきさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
菫は自分の価値を見失っています。大切なもの、そうでないもの。価値観が根底からひっくり返されたので。
その心持ちからの「ありがとう」なので、仰るように感情は篭もっていませんね。
いつからだったか、地の文の「――」は主観キャラの心情表現に使っています。
椿彦のことが出てきませんね。実は他にも居ますが。
椿彦に関しては、たった一日のことなので。まだまだショックのほうが大きいのかもとか言っておきます。
狗狼と雲は長く生きているので、自分をしっかりと持っていますね。神さまと言えど、かなり人間に近い存在ではありますが。
生きている。在る。
そこのところは、人それぞれ好きな捉え方でいいような気がします。
神道的に言うと御座すであり、簡略して在るが正しいとはなっています。