第 15 章 第一ユニバース:新橋第一ホテル(5) 1979年6月13日(水)
今日はムシムシして雨が降っていた。梅雨時は嫌いだ。客が水に濡れたこうもり傘を傘立てに立てないで、席まで持って行く。床のカーペットはぐっしょり濡れる。バーがじめじめしてしまう。カーペットが湿った臭いをさせる。イヤだなあ。
バーはかなり混んでいて忙しかった。私は、フロア係をやり注文を聞き回り、ワインクーラーを準備し、パントリーで、カットオレンジやメロン、牛肉のタタキを作ったり、キッチンに素材を取りに行ったり、グラスを洗う。バーテンダーが食事に出かけると、カウンターに入って酒を作った。
30才代後半のテレビドラマにでも出てきそうな綺麗な女性がカウンターで一人きりで飲んでいて、「ねえねえ、キミ、今晩、暇?どう?」と小声で聞く。真鍮のルームキーをぶら下げてカチャカチャと揺すった。「いえいえ、ナイトシフトでルームサービス係を今晩しないといけませんので・・・」と、波風を立てないようにウソをつく。ホテル規定でそういうことはしてはいけない。しかし、あからさまに言ってもいけないのだ。
チーフバーテンダーの吉田さんが、「いいか、明彦、そういうことを問われても、お客様の顔を立てて、波風立てないようにうまく処理するのがホテルマンだぞ」と言われている。私はホテルマンではなく、単なるバイトなんだけど、私だって波風立てたくないのでその言葉に従っている。ずっと。
女性は、「残念ねえ・・・」と口をとがらせて小声で言う。「私も残念ですが、仕方ありませんね。どうですか?代わりと言ってはなんですが、バーからあなたにカクテルを差し上げます」と、カウンターに身を乗り出して小声で言って、カウンターテーブルに新しいコースターをしき、マンハッタンを彼女の前に置いた。「わあ、うれしい!」と、彼女はおいしそうに飲んだ。彼女はしばらく飲んで、勤務先(六本木のクラブだそうだ)の愚痴を言っていた。
六本木のクラブに勤めていて、花金の夜、バーで一人飲んでいて、新橋のホテルの部屋をリザーブしている、という状況は理解できない。そのリザーブしている部屋に誰が来るのだろうか?誰かが来るなら私を何故誘うのだろうか。大人の世界の話だ。大学生の私には理解できないことが山ほどあるのだろう。
愚痴にも飽きたのか、「また、ほかのところで飲もうかなっと。お勘定をお願いね?」と私に言った。「かしこまりました」と私は伝票を書いて彼女に渡す。「部屋に付けておいてね。部屋番号はここ」と、部屋番号を強調する。「了解いたしました」と私が言う。「残念ねえ。気が変わったら電話してね」と彼女は手をひらひらさせバーを出て行った。私も残念ですよ、と心の中で思った。エレベーターホールからこっちを向いて彼女は私にバイバイしてから、エレベーターに乗り込んだ。やれやれ。
時間は11時半になっていた。だいぶ客が引いてくる。終電も間近だ。フロアの方はどうかな?と私は右手のテーブルフロアの方を見ていた。
急に「ピンクジンをいただける?タンカリー、ダブルで」とカウンターから注文が来た。いつの間にきたのか、チェアを引く音が聞こえなかった。「いらっしゃいませ。ピンクジン、タンカリーダブルですね」と復唱してカウンターの方を向いた。彼女がいた。
「久しぶりね?」と、彼女が微笑む。
「昨年のクリスマスイブ以来でしょうか?」と私は何食わぬ顔で言った。
「あら、覚えていてくれたのね?」と、彼女がニヤリとする。
「あのときも、ピンクジンをご注文なされましたね?」
「クリュッグもルームサービスでとったわ」
「ああ、そうでしたね」
「このホテルのルームサービスは気が利いているわ。私、気に入ったのよ」と、彼女はチェシャ猫のようにニタニタ笑った。
「お気に入り下さってありがとうございます」と私は答えた。
洋子だ。今日、彼女はラフな格好をしている。ブルーのボタンダウンのシャツ、ジーンズ、チルデンセーターを背中で羽織って、首の下で軽く結んでいる。
「梅雨時はイヤねえ。雨、嫌いだわ。ジメジメして気分が滅入っちゃうんだな。もっと滅入っちゃうことに、夜も遅いのに、また、ホテルのバーでピンクジンを一人飲んでいる寂しい女をやっているの」と、彼女は言って、小声で「ね?明彦くん?」とグラス越しに私を見て付け足した。
「え~、え~、今日はご出張で?金沢からでしたか?」と私が訊くと「そ、クライアントと打ち合わせ。いつもの通り。あれ?私が弁護士やっている話をした?」
「この前、お聞きしましたよ」
「あなたはしばらく見なかったわね?」
「常勤というわけではありませんので」と私は言った。彼女にナッツの入った小鉢を出す。「早い時間で終わることもあるんですよ。このバーだけではなくて、宴会場なども担当しているものですから」
「私、普段は帝国ホテルに泊まるのよ。でも、クリスマスイブ以来、このホテルが気に入ってしまって、こっちも泊まるようにしたの。毎月出張しているけれど、冬が過ぎて春になって、夏になっちゃったわね」と言った。「ね?明彦くん?」とまた私を見て付け足した。
「あの、その、今晩もシャンパンをご注文されるのですか?」
「どうしようかな?クリュッグあるの?ノンビンテージ?」
「ございますよ。ご注文されるのでしたら、冷やしておきましょうか?」
「そう、お願いしていいかしら?」
「承知いたしました」
私はフロア係をやっているアマネさんにクリュッグを冷やしておいて下さいとお願いした。「え~、お客様、ルームナンバーは?」「903よ」また、903か。やれやれ。
しばらく洋子さんは飲んでいて、仕事の話などをしていた。愚痴じゃない。おもしろおかしく、刑事訴訟や民事訴訟、おかしな原告や被告の話などをして、私は笑ってしまった。もちろん、弁護士規定に触れないように。彼女は話がとても上手だった。ピンクジンを2度お代わりした。
「12時45分か。部屋に戻ろうかな?お勘定はお部屋に。お願いね」
「承知いたしました」
「シャンパンも冷えたかな?クリュッグ、すぐ届けられるでしょ?」
「あのフロア係がお届けいたします」
「そ?一人寂しく寝酒を飲もうかな?2時頃まで・・・」
「2時頃まで、ですか?」
「そう、2時頃まで、ね?明彦くん?」
そういうと、また、ニヤッと笑って、私にウィンクをして、彼女はスタスタと行ってしまった。私は、アマネさんにお願いして、彼女の部屋にシャンパンを届けてもらった。アマネさんは、「おい、明彦、あの女性、どこかで見たような気がするな?」というので、「去年の12月にアマネさんが同じクリュッグを部屋に届けたでしょう?」と言った。「ああ、そうそう、思い出した。あの美人か、思い出したよ」と彼は言った。アマネさんは、ワインクーラーを取り、氷をドサドサいれて、冷蔵庫で冷やしていたシャンパンを持ってくると、私が用意した伝票を持って、エレベーターの方に向かった。入れ違いに吉田さんが帰ってきた。
「ハイ、ただいま。もう、客も引けたな?」と吉田さんが言った。「あと、テーブル席で1グループがおられるだけです」「そうか、もうちょっとしたら伝票を持っていって」「わかりました」「アマネはどこに行った?」「お客様の部屋にシャンパンを届けに行っています」「あいつが帰ってきて、客が引き上げたら、一杯やるか?」「洗い物は済んでいます。後はテーブル席のお客様の分だけです」
15分待って、私はテーブル席の最後のお客さんに伝票を渡し、勘定を終えた。いつも通り、店が引けた後の一杯をやって、アマネさんはガブガブとウィスキーを飲んだ。私は、カナディアンクラブを軽く飲んだ。吉田さんが「さ、お開きだ、明彦、アマネをよろしく」と言った。私はアマネさんを抱えて従業員階に行き、仮眠室でアマネさんを寝かしつけた。シャワーは浴びずに手早く着替えをした。部屋を抜け出し、従業員エレベーターに乗った。1時50分。9階に上がる。
903号室をそっとノックする。ドアが静かにあけられた。隙間から彼女が私を見た。「明彦くん、待ってね」ドアが一端しまり、チェーンをはずしている。ガチャガチャ。「さ、入って」と彼女が言う。何も言わずに私は部屋に入った。
この前と同じで、窓際のテーブルにアマネさんの届けたシャンパンクーラーがおいてあった。
「今晩は、あら?お早うかしら?今回はちょっと早かったわね?」
「やれやれ、洋子さん・・・」
「洋子でいいわ」
「じゃあ、洋子、ああいう禅問答はですね・・・」
「面白かったわね。明彦のとぼけて澄ました顔は可愛いわよ」
「意地が悪いんだから」
「ゲームよ、ゲーム」
「あのですね、ホテルには規定があって、ホテルの従業員はお客様と私的な関係を結んではいけないんですよ」
「あら?これはルームサービスと思っていたけれど?明彦は、こういうことをしないの?他の女性と?」
「しませんよ。洋子さんが最初で最後です」
「あら?なぜ?私みたいに誘ってくる女性っていないの?」
「今日もいましたよ。よくあることです。でも、それは波風を立てないように、丁重にお断りしています」
「あらあら?じゃあ、なぜ私とは?」
「え?なぜでしょうかね?洋子がイタズラっぽく言ったからかな?とてもキュートな大人の女性だと思いましたよ」
「答えになってないぞ?」
「うん、なぜかピンと来たんです」
「何がピンと来たのよ?」
「この女性は、ホテルの従業員を部屋に誘い入れたがる他の女性とは違うぞ、と」
「どう違うのよ?」
「洋子さん、知的だったから」
「そういうのがわかるの?」
「わかるんですよ。ちょ、ちょっと、私ばかり攻めますが、洋子だって、こんな誘いをよくするんですか?」
「あら、去年のイブが初めてよ。それで最初で最後。キミと同じ」
「じゃあ、なぜ?私なんです?」
「明彦と同じ。ピンと来たのよ。この男の子は私と長い付き合いになるって」
「まさか?」
「じゃあ、試してみる?長い付き合いになるか、どうか?」
「まったく・・・」
「さ、シャンパンを開けてちょうだい。待っていたのよ」
「ハイハイ」
私はシャンパンのメタルの包装を破った。ワイヤーを反時計回りに捻ってはずす。ゆっくりとコルクを押し上げ、少しずつひねり出す。小さな「ポン!」という音がしてコルクが外れる。パーティーじゃないのだから、コルクは飛ばさないのだ。部屋にノンビンテージのクリュッグの香りが満ちる。シャンペングラスにみたし、洋子に手渡す。
「アリガト」と、洋子が言う「さ、座って。乾杯しましょう」と、洋子は自分が座っているベッドの左横をパンパンと叩いて、グラスをあげた。私は彼女の隣に座り「じゃあ、洋子の幸福を祈って」と彼女と乾杯した。
「私の幸福かぁ~」と、洋子が言った。
「え?」
「長年留学していて、日本の弁護士資格も取得して、三十路に近い女に幸福なんてくるのかしら?」
「来るでしょ?信じていれば幸福なんて、そのシャンパンの泡の数ほど降ってくるものですよ」
「ふ~ん、気の利いたことをいうこと。でも、現実問題として厳しいのよ、私」
「そうなんですか?」
「ま、いいわ、私の話は。そういえば、この前、明彦、私が彼女いるの?と訊いたら『いません』と答えたけど、あれ、ウソでしょ?」
「スミマセン、彼女、います」
「ウソつきねえ。で、キミには彼女がいて、6才年上の私と真夜中に二人ホテルの部屋に二人でいて、キミはどう感じているの?」
「素敵な女性と同じ部屋にいる、という感じしかしませんが?」
「この浮気者め!」
「違うんですよ、どうなんでしょう?肉体関係ってなんですか?私たちはキスしかしていませんが、キスしたからといって、私たちの関係が変わりますか?私と私の彼女の関係が変わりますか?変わらないでしょうに?」
「キミは変わっているわね?男と女はね、セックスしたら、変わるのよ、お互いの関係が。お互いの感情が」
「そうかなあ。私は彼女に自分の行動の話をします。私と他の女の子の話もします。でも、私たちの関係に変わりはありませんよ」
「キミも変わっているけれど、その彼女も変わっているわねえ。そう、じゃあ、たとえば、私と明彦が今晩セックスしたとしたら、その話もする?」
「これは微妙だなあ。つまり、この状態というのは、他人から見れば、ホテル従業員と宿泊客の情事にしか見えないでしょ?私と洋子がいくら『ピンと来たから』と言っても」
「確かにそう。まったく、なぜ、私とあなたが初めて会ったのがホテルのバーなのかしら?他の場所で別のシチュエーションでなぜ会えなかったのかしら?癪だわね」
「仕方のない話でしょう。過去はテイクバックできませんから」
「そうね・・・そう、じゃあ、私の話は、明彦は彼女にはしなの?」
「それはわかりません。でも、たぶんするでしょうね」
「ふ~ん、そう?それで、私、今、『たとえば』と言ったけど、それが『たとえば』じゃないことになったら?」
「なにが?」
「鈍い!私と明彦が今晩しちゃうってことよ」
「洋子、したいの?」
「え?・・・」洋子はうつむいて考えている「ええ、したいわ」
「私とでいいんですか?」
「私は明彦、あなたとしたいのよ。もう、これ以上言わせないでよ」
「ハイハイ、じゃあ、もう黙りましょう、お互いに」
私は洋子の左の脇の下から右手を背中に回して、洋子の頭の後ろに手をやった。左手で洋子の右肩をそっとつかむ。私の方に洋子の顔を向けさせ、軽く唇を重ねた。それから、洋子の唇を舌でなぞり、下唇を軽く噛んだ。洋子に舌を入れる。洋子が私の舌を吸う。私たちは、お互い舌を出し入れして、長いキスをした。
「う~ん、まいったわね」と、洋子が言う。
「この前はここまででしたね?」と私が言った。
「それで?これからどうするの?」
「シャンパンを飲むんですよ。気を落ち着けるために。私はドキドキしていますから」
「ウソばっかり」
「本当ですよ、ほら」と、洋子の手を私の左胸の心臓の上においた。「ね?」
「あら?本当だわ。私も」と、洋子は私の手を彼女の左の乳房の下においた。洋子の胸のぬくもりが伝わってくる。「もう、何年も前の忘れてしまった昔みたい・・・」「さ、シャンパンを飲みましょう」
私はシャンパンをグラスにみたし、洋子に手渡そうとした。
「飲ませて、明彦」
「え?ああ」私はシャンパンを口に含み洋子にキスをして、シャンパンを彼女に飲ませた。
「おいしい。もっと欲しい」と洋子が言う。さらに飲ませる。「さあ、それから?」
「洋子、黙って」
私は洋子のボタンダウンシャツを脱がせる。ジーンズのベルトをはずし、ジッパーをおろした。腰をあげさせて、両脚をジーンズから抜く。ベッドシーツをはがして、彼女を横たえ、シーツを彼女の体にかけた。椅子に洋子のシャツとジーンズをたたんでかける。私も服を脱ぎ、たたんで、ソファーの上においた。アンダーパンツだけになって、シーツの中に潜り込む。
「明彦、よくキチンと服なんかたたんでいられるわねえ?」
「癖なんですよ。でも、これから洋子の着ているものはたたみません。脱がして、ベッドの下に落とすだけです」
私は彼女にキスをして、背中に手を回してブラのホックを外す。ストラップを肩から抜いて、ブラをベッドの私の側の下に落とした。お尻をあげさせ、両脚を抜いてパンティーを脱がす。それもベッド脇に落とす。アンダーパンツを私は脱いだ。彼女の唇から、耳たぶ、首筋、胸の谷間と舌を動かしていく。乳首の周りから先端に向かって舌を這わす。脇腹、乳房の下、おへそと移動して、彼女の股間に私は体をずらしていく。
「明彦、私、今日シャワーを浴びていないのよ」と、洋子は私の頭に手をおいて言いった。
「気にしない。私も急いできたので浴びていませんよ」
私は、内股からふくらはぎ、つま先まで舌を這わせ、また、内股の方に移る。内股を愛撫して、洋子のものの周りに舌を這わせる。しばらくじらして、それから洋子の周りから洋子そのものを愛撫した。洋子は私の髪の毛をかきむしっている。彼女が上体を起こすのがわかった。
「明彦・・・」と洋子が言う「もう、ダメ」
「まだですよ、まだ」と私は彼女をじらせた。
「クッ・・・ダメ、もうダメ・・・」と彼女は体を震わせる。
私は彼女の股間から頭を上げて、「洋子、まだだったら」と言った。洋子は私の頭をつかんで状態を起こしてキスをしてきた。私はそのまま洋子の上体に体をあずけ、体をずりあげた。私は私をつかんで、洋子に押しつける。しばらく上下させる。「明彦・・・」と洋子が懇願するように言った。私は挿れた。
「ア、アア・・・」
4時になっていた。洋子があえいでいる。私は洋子の上から体を投げ出して、ベッドに仰向けになった。洋子の贅肉のないお腹が上下している。ベッドから起き上がると、バスルームに行ってタオルを取ってきた。タオルで、洋子の体の汗を拭き取った。洋子にタオルを投げかける。洋子のグラスをとって、シャンパンをつぐ。私はそれを飲んで、洋子に口移しで飲ませた。
「明彦・・・」と、洋子が私の髪をさすった。
「洋子、よかったですよ。気持ちよかった」
「明彦、キミって・・・」
「何も言わない・・・まだ、4時ですから、私たちには1時間近く時間がある」
「もっとくれるの?」
「だって、洋子だから。もっとあげたい・・・」
ホテルの窓から梅雨空が見えた。空は一面の重苦しい雲が重なっていた。私が洋子の右手を握ってキスをしようとした時、窓の外が光り、雷鳴が聞こえた。洋子の手を握った手のひらが、ピリピリ、バチッとした。私も洋子もびっくりして手を離した。
「え?なにが起こったの?」
「雷のせいで静電気が溜まったのかな?洋子もバチッとした?」
「したわ」
「大丈夫?」
「ええ、痛くもなんとも・・・」
「痛くもなんともないんですか?」
「ええ、痛くはないのだけれど、エエッと、ちょっとヘン」
「ちょっとヘンとは?」
「脳内記憶がヘンなの」
「記憶がヘンというのは、もしかしたら、知らない人とか思い出したとか?」
「そんな感じかな。私とあなたと、もう一人知らない男性がいて、私達は白衣を着ていて工事用みたいなヘルメットをかぶっていて、何メートルもの高さのあるトンネルの中にいるの。そのトンネルの中いっぱいに円筒形で金属製の光る構造物があって、電気のケーブルとかパイプが複雑に入り組んで円筒形を囲んでいて、私はあなたと知らない男性にその設備を説明しているの」それは洋子、CERN(セルン)のアトラスの搬入口の光景だよ、と私は思った。
「洋子、洋子、円谷映画の特撮?」
「ううん、もっとリアル。なんなのかしら?私、まるで・・・」「まるで?」
「・・・科学者みたいで・・・あなたとその知らない男性も・・・海外なの・・・どこなのかしら?」
「それは潜在記憶とか小説の場面が具現化したとか・・・」
「そうじゃないわ、私もあなたもリアルで実際に体験したのよ、そこを、その場所を」
「デジャブ(既視感)とか?洋子がそういう工事現場にいたことはないですよね?」
「ないわ。何が起こったのかしら?雷の静電気がバッチとしたせいなのかしら?」
「まあ、ゆっくり考えて」怪訝な顔しながら洋子は考えていたが、キスをするとニコッとして返してきた。しかし、こめかみを押さえて「だけど、頭が割れるように痛いわ。熱もあるみたい」という。
洋子の額に手をやるとかなりの熱が出始めていた。38℃くらいはあるかな?と思った。シャンパンクーラーに残っている氷を洗面器に移した。バスルームにあったハンドタオルとボディータオルを氷水に浸す。よく絞って、ボディータオルを洋子の頭の下にあてがい、ハンドタオルで額を冷やした。
「洋子、かなり熱がある。今日は仕事を休んだほうがいいと思う」
「偏頭痛もする。頭が割れるように痛いの。でも、今日は10時からアポがあるのよ。」
「大丈夫かなあ」
「仕事はできると思う」
(絵美の時よりも症状が軽いかな?このまま仕事に行かせて大丈夫だろうか?)
何度かボディータオルとハンドタオルを冷やして取り替えた。6時半になっていた。熱は多少下がってきていた。偏頭痛はまだ続いているようだ。これなら絵美のような急激な記憶の結合、解凍、展開は起きないだろう。徐々に、大脳皮質で記憶情報が展開されると思う。展開が終わるのが今日中なのか明日なのか、それは個体差があるからわからない。
そろそろ仮眠所に戻らないとアマネさんが起き出すかもしれない。今日は9時から大学の講義があり、必修科目なので欠席するわけにも行かない。今日の講義が終わるのは5時だ。洋子には一人で乗り切ってもうほかはなさそうだ。部屋に備え付けのデスクの引き出しを開けた。ホテル備え付けの便箋がある。洋子に手紙を書いた。熱で朦朧としている洋子に「洋子、そろそろ行かないといけないんだ。心配だけどごめんなさい。デスクに手紙を置いておいたから読んでください」と言った。洋子は「大丈夫よ。早くお帰りなさい。ホテルの人に気付かれちゃうわよ」と弱々しげに手を振った。私は洋子の額にキスをすると、部屋を出た。
仮眠所に戻ると、幸いなことにまだアマネさんは寝ていた。手早くシャワーを浴びて着替えた。ホテルの従業員出入り口を出たのが7時15分だった。受付係が「おや、宮部くん、今日は遅い退出じゃないか?」と言う。私は「寝過ごしてしまいまして。大学に遅れてしまいますよ」と答えてホテルをあとにした。雨が降り続いていて、湿気がものすごい。私は新橋の駅に急いで行った。
* * * * * * * *
8時にベッドのサイドテーブルのアラームが鳴った。私はセットしていないのに。ああ、明彦がセットしてくれたのかな?同時に部屋に備え付けの電話が鳴った。「お客様、フロントでございます。ご指定のモーニングコールです。8時になりました」と言う。「ありがとう」と言って電話を切った。(明彦は手回しのいいことだ)
まだ熱がある。偏頭痛も消えていなかった。アポは10時。起きなければいけない。私は無理に起き上がった。フラフラする。バスルームに行った。鏡に映る自分の顔はひどかった。目の下に隈ができている。ファンデで隠すしかない。軽く冷たいシャワーを浴びた。
部屋を見渡すとキレイに片付いていた。シャンパンの空き瓶とシャンパンクーラーは廊下のドアの脇に出してあった。彼に脱がされて床に落ちた下着も丁寧にたたまれて、昨日着ていた服と一緒にデスクの上にたたんでのせてある。服の上にホテルの便箋が折りたたまれて置かれていた。
(まったく、明彦は私と違ってキレイ好きだわ。彼、手紙を書いたとか言っていたわね。これがそうか)
髪を乾かして梳きながら手紙を読んだ。手紙はきれいな字でこう書かれていた。
(洋子さん、アポが10時ということで、モーニングコールを手配しておきました。熱は下がりましたか?偏頭痛はどうですか?心配でしたが帰ってしまいまして申し訳ありません。さて、熱と偏頭痛ですが、それは原因があってのことです。今日、洋子さんにおかしなことが起こるかもしれません。今まで行ったこともない場所のことを思い出す、会ったこともない人間を知っている、金沢の実家の異なる電話番号を思い出す。今の東京ではない風景、知らないファッション、などの記憶が頭をよぎるかもしれません。なぜ、そんなことが起きるのか、私にはあなたに説明ができます。今日、大学で講義があって、終わって家に帰ってくるのが、夕方の5時半頃になります。5時半以降に私の家に電話をかけていただけますか?今日、私はバーを休みます。電話番号は以下。では。)
(どういうこと?変な手紙。『私にはあなたに説明ができます』ですって?なんのことかしら?まさか、変な薬でもシャンパンに混ぜて盛られた?まさか。彼に限ってそんなことはない。第一、一緒に飲んでいたもの。まあ、いいわ。夕方電話をかければわかること)
後頭部が痛い。後頭部が熱い。しかたがない。今日の打合せの書類を確認してカバンにつめた。今日は被告側の弁護士と原告側の私の和解調停の打合せだ。順番で、相手の事務所に行かなければいけない。渋谷の類弁護士事務所。数回訪問しているので場所はよく知っている。クライアントとは渋谷駅で待ち合わせだ。服を着て化粧を済ませると9時15分前だった。電車に乗る気もしない。私はフロントに電話してタクシーを呼んでもらった。
・・・打合せは散々だった。熱と頭痛で集中力が失せていた。おまけに、焦点の合わないおかしなイメージが頭に浮かんでは消えた。時間が経つにつれてイメージの焦点が合って来たような気がしたが、まだ明確じゃない。そんなイメージが浮かぶものだから、こちらの原告側主張の論点も強調できなかった。ただでさえ、女性の弁護士というめったにいない立場の人間で、白い目で見られることがある。私は孤独だ。
・・・昼食を挟んで2時半まで、被告側弁護士に押し込まれた。失点だ。打合せの後、クライアントに謝罪した。「今日は申し訳ありません。体調不良でした。理由にはなりませんが。すみませんでした」と言うと、「島津さん、まだ二回目の和解調停ですから大丈夫ですよ」と言ってくれた。私は負けるのが嫌いなのだ。
電車を使う気にもならず、渋谷からタクシーでホテルに戻った。タクシーの中でも幻覚のようにイメージが浮かんでは消える。ホテルに戻ると3時半になっていた。部屋に入って、ルームサービスにアイスバケットとナッツ、ロックグラスを注文した。服を脱ぎ捨てて、熱いシャワーを浴びる。体を拭いているとルームサービスが注文した品を持ってきた。500円札を渡す。買っておいたワイルドターキーを開け、氷を入れたロックグラスになみなみとついで、半分ほど飲み干してしまう。やっとひと息つけた。
体にタオルを巻きつけたまま、ソファーに座ってため息をついた。今日は失敗しちゃったな、と思う。それで、ぼんやりしていると、おかしなイメージに注意が向く。午前中よりも午後よりもイメージの焦点が鮮明になってきた。フラッシュバックのように過去の(?)未来の(?)イメージが脳内に浮かび上がる。
私はジュネーブ空港にいる。今まで見たこともないような飛行機に乗り空港につく。空港では入国審査がなかった。(そんな馬鹿な)私は空港に迎えに来てくれた私の部署のスタッフにありがとうと言っている。(誰なの?彼は?)
場面は代わって、私が講義をしている。黒板にチョークで偏微分方程式を書きなぐっている。(偏微分方程式?私が?)「ヒッグス粒子の存在の発見のためにも・・・」「われわれCERN(セルン)のアトラス計画がホーキング輻射の範囲を超えるわけでもなく、ブラックホールが生成されたとしても、それはすぐ消滅するのであって」・・・
人々が2001年宇宙の旅のモノリスみたいな扁平の板を耳に押し当てて喋っている。あれは何?トランシーバー?イメージに出てくる人たちのファッションもおかしい。奇抜なファッションだ。電車に乗る時にモノリスをかざすと改札口の扉が開く。駅員がいないわ。
私は、高エネルギー加速器研究機構にいる。「KEK、高エネルギー加速器研究機構との協力の下、われわれのアトラス、アリス計画の実現が目前に迫ってきました」「宮部教授、明彦、LHCのヘリウム流出による熱暴走は・・・」(え?宮部教授?明彦?)・・・
「アイーシャ、私と小平先生の共通の知り合いで『バージニア州のエドワード』なんていないのよ。それにうっかり先生の小平さんが『回線は念の為に切っておこう』なんてセキュリティーの指示を普通はするはずがない。咄嗟に『元気だと思いますよ』と言ったけれど、エドワード?バージニア?と思ったのよ。それで思いついたの。エドワードは、エドワード・スノーデンのこと、バージニアはペンタゴンのこと、回線を念の為切るというのは、通信傍受されているかもしれないってこと・・・」
・・・
・・・
・・・
(あ!ここは第一ユニバース!)
(1979年6月)
(この体は・・・私の、島津洋子の類似体?)
(明彦は、宮部博士?)
(2010年にマルチバース間記憶転送装置で記憶転移をして)
(ガンマ線バーストによる種の絶滅)
・・・
・・・
・・・
「あ!」私は、今、すべてを思い出した。
思い出した。急に、今まで開かれなかった記憶の扉があいた。
今、何時かしら? 6時半?部屋に戻ってから、すでに3時間経ったということ?あれ?明彦の今朝の手紙はどこかしら?私はハンドバックをゴソゴソと探した。見つけた。部屋の電話で外線番号のゼロを回し、明彦の家の電話番号を回した。
「もしもし、宮部ですが。」明彦が言う。
「明彦!宮部博士!私よ、島津洋子よ!」と電話口に私は叫んだ。
「洋子!私を宮部博士と呼ぶということは、記憶の転送がほぼ済んだということだな?」
「思い出したわ。私・・・」
「ちょっと、待って。今、45分後に外出できる?」
「できるけど・・・」
「じゃあ、45分後にホテルの正面玄関で待ってて。車で迎えに行く。詳しい話はその後で」
私は、慌てて身繕いをした。下着をつけ、服を着る。まだちょっと熱と頭痛が残っているが、大丈夫だ。軽く化粧をした。ハンドバックを持って、1階におり、正面玄関に立った。
タイミングを測ったように黒の日産スカイラインが私の前に停車した。リアの扉が開いた。私の知らない・・・いや、知っている女性の若い姿が降りてきた。加藤恵美博士。
「ハイ、島津博士、洋子さん、お久しぶり。乗った、乗った」と彼女は言うと、私をリアシートに押し込んだ。隣りに座っていたのは、森博士、絵美だった。絵美さんがそっと私の手を握る。恵美さんが私の肩を抱く。恵美さんが乗り込んでドアを閉める。「明彦、オッケー、おウチに帰ろう!」と運転席の明彦に言った。
ちょっとハイになった感じで恵美さんが喋る。絵美さんは冷静に聞いていて、ところどころでコメントした。明彦は、恵美さんの喋っていることの訂正をしていた。原宿のアジトまでのドライブは短時間だったが、今、私のおかれている現状はだいたい理解できた。
明彦は、原宿のアジトの玄関にスカイラインを乗り付けた。恵美さんが玄関ドアを開ける。ドアを大きく開いた。「さあ、洋子、おかえり、そして、いらっしゃい。チームへの帰還、おめでとう」と言って、家に招き入れた。
(そう、私は、もう、孤独ではない)
A piece of rum raisin(カクヨム)
目次ー小説一覧
https://kakuyomu.jp/works/1177354054934387074
A piece of rum raisin(note)
目次ー小説一覧
https://note.com/beaty/m/mc0c2a486fc74
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