30.

 「気を付けろ。」


 フィリップに言われるまでもなく、既にシャラの足は震え、腰が引けている。


 上りより、下りの方がよほど怖いということをすっかり忘れていた。


 フィリップがシャラの手を引きながら先に降り、足元を照らしてくれてはいるが、握られた手も階段の壁に這わせた手も、じっとりと汗ばんでいる。一歩ずつ、慎重に足を運んだ。


 それにしても、フィリップは横向きに螺旋階段を降りている。大丈夫なのだろうか?


 と、視線を僅かにずらした途端、シャラの右足が階段を滑り落ちた。


 「ひっ!」


 ガシャン!と金属の音がして、辺りは闇に包まれた。シャラの体は、辛うじてフィリップに受け止められている。


 下からギルバートの声が聞こえた。


 「陛下!ご無事ですか!?」


 「ランタンを落とした!灯りを持て!」


 シャラの頭上でフィリップが叫んだ。


 フィリップの胸に収まりながら、下へ伸びた右足と、膝で折れて階段に残った左足、という不安定な体勢を直そうと、身動ぎをする。


 「動くな!」


 シャラは頭の上から𠮟られた。


 不格好なままフィリップにしがみ付いていたシャラは、ふと気付き、顔を動かしてフィリップの胸に耳を当てる。


 少し速いフィリップの心音が聞こえた。


 不思議なことに、その音を聞いていると、シャラの気持ちは落ち着き、新たな力が湧いてくるようにさえ思えた。


 この音を信じ、この音を頼りに、見えない闇の中でもまた強く進んで行ける。そんな気がした。


 シャラを抱くフィリップの腕に力が籠もり、頭上で掠れた声がした。


 「今宵はお前の部屋で過ごしたい。嫌か?」


 生まれたばかりのシャラの自信は、あっという間に消え去った。言うべき言葉が、喉の奥に詰まって出て来ない。


 その硬い胸に頭を押し付けながら、シャラは返事の代わりに、しがみ付いた手を強く握った。


 階段を駆け上る騎士達の足音が聞こえて来た。







 背後で寝室の扉が閉まった途端、シャラはもう出て行きたくなった。


 (見ないでくれと言ったのに!)


 食事中、フィリップがニヤけた顔で見つめ続けるので、堪らず、食べ物が喉を通らない!と怒ったばかりだ。


 今もフィリップは寝室のソファでワインを手に、夜着に着替えたシャラを見つめている。アルテアで見たのと同じ、獣のような目をして。


 扉の前に立ったままのシャラは、左膝の擦り傷が気になった。階段を落ちた時に擦り剥いたのだ。


 (このような傷をお見せするわけにはいかない…治ってからにしていただこう。)


 ようやく言い訳が決まった時には、フィリップは既にシャラの目の前に立っていた。


 ふとフィリップが笑みを浮かべる。


 「そんなに怖がるな。お前が嫌なら、何もせん。傍に居られるのも嫌なら、私は自分の部屋へ戻ろう。私が欲しいのは、お前の心だ。お前が嫌がることをするつもりは無い。」


 フィリップはシャラを抱き寄せ、髪にそっと唇を寄せた。


 が、シャラはフィリップの胸を両手で押し返し、体を離した。


 「嘘です。陛下の仰ることは、信用出来ません。」


 「何だと?」


 「陛下はアルテアで、嫌がる僕に無理強いをしたではないですか。」


 「あっ、あれはだな!」


 フィリップの余裕は消え失せ、頰に朱が差した。


 「あれは、我を忘れたというか…どうにも我慢がならなかったのだ!」


 フィリップの狼狽えぶりに、シャラの口元が緩む。


 「では、今宵は我慢が出来るのですね。」


 「してやったり!」と、シャラは俯き、笑みを忍ばせる。


 フィリップの目に、焚き火に当たり、はにかむ幼いシャラの面影が浮かんだ。


 「気が変わった。」


 「…ひっ!」


 小さく悲鳴をあげたシャラに構わず、フィリップはシャラを横抱きにすると、ベッドへと運ぶ。


 「お前の気持ちなぞ、私の知ったことではない!お前は私のものだ!」


 シャラをベッドに下ろし、自分も腰掛けると、フィリップはシャラの瞳を覗いた。


 「良いな?」


 躊躇いつつも微笑むシャラとフィリップの唇が重なった。

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