0.-②

 「収穫なし…か。」


 馬上のフィリップは、溜め息をついた。


 久しぶりに狩りへ来たというのに、今日は鳥も獣も全く姿を見せない。チチチッと、森の奥から聞こえる小鳥の声を忌々しく思った。


 (陽が傾いてきたな。残念だが、そろそろ帰るとするか。)


 フィリップは、教育係のふくふくとした赤ら顔を思い浮かべた。


 教育係のルミエールは気働きの利くい男だが、小言が多い。そして長い。


 今朝も出かける際に捕まりかけたが、逃げるように城を出た。


 (今宵は新月か…。あまり遅く帰ると、小言が長くなるな。)


 最近、フィリップは友人達と連れ立つよりも、独りでいることを好む。そういう年頃なのだ。おかげで心配するルミエールの小言も多くなる、と。


 父王は、フィリップのすることには殆ど口を出さない。「勇猛果敢」が売り文句のログレスだ。王子の多少の無茶くらい、むしろ「武勇の内だ。」と誉められもする。


 その上、フィリップは文武共に極めて優秀と評されていた。15歳の今では、並みの兵なら5、6人は軽くなぎ払える。「次期国王」の期待を裏切ってはいなかった。


 フィリップが馬の向きを変えようとした時、何かが視界に入った。木立の奥に目を凝らす。


 「白鹿だ…。」


 それは悠々と木立から出て来て、小道の前方で立ち止まった。


 木洩れ日にキラキラと輝く真っ白な毛並みと、天に向かって力強く広がる見事な角。


 白鹿はチラリとフィリップを見ると、軽やかに小道を駈けて行く。


 「待てっ!」


 思わず後を追った。白鹿は森の神の化身。狩るのは禁忌タブーだ。だがフィリップは、その美しい生き物をもっとよく見たかった。


 白鹿は誘うように走った。時々後ろを振り返り、フィリップが追って来ているのを確かめて、また逃げて行く。


 (?)


 不思議に思ったが、フィリップは誘われるままに馬を走らせた。


 しばらく走ると、川の流れる谷底へ出た。白鹿は川の浅瀬を軽々と渡って行く。


 フィリップは馬を止めた。


 (この川は…アルテアとの国境の川だな。)


 フィリップの方向感覚に間違いがなければ、この対岸の崖の上のどこかにアルテア国の砦があるはずだ。


 王子は躊躇う。万が一、敵国アルテアの兵に見つかれば、面倒なことになる。


 白鹿は川の向こう岸で立ち止まり、こちらを見ている。まるで、フィリップの度胸を試しているかのようだ。


 フィリップは意を決して、川を渡った。


 追いかけっこは、まだ続いた。どんどんアルテア領の奥深くへと入り込む。森がぼんやりと暗くなり始めた頃、ようやくそれは終わった。


 白鹿が、ふと深い木立の中に入り、姿が見えなくなったのだ。フィリップは僅かに開けた場所に馬を止め、近くの木に馬を繋いだ。


 (どこへ行った?)


 辺りを探すが、暗い木立の陰に白鹿の姿は無い。


 ガサガサッと、近くの藪で音がした。


 (獣か。)


 反射的に腰の剣を抜き、身構える。


 音は徐々に近付いてきて、藪の中から獣が顔を出した。


 (…えっ!?)


 出て来た小さな獣…いや、人間の子供も驚いたようだ。ポカンと口を開けて、フィリップを見上げている。


 だが、王子が右手に持った剣を目にすると、小さく「ひっ!」という悲鳴をあげて、木立へ向かってヨタヨタと走り出した。


 「まっ、待て!」


 だが、すぐに子供は何かにぶつかったようで、いきなりドスンと尻餅を付いた。


 座り込んだ子供が見上げる目の前には、あの白鹿が居た。


 「ひっ!」


 見知らぬ大きな生き物に驚いて、子供は四つん這いになり、その場から逃げようとした。


 白鹿は子供のズボンの腰辺りを器用に咥えると、宙に浮いた子供を運び、フィリップの側にゆっくりと歩み寄る。子供は恐怖で固まっている。白鹿は、唖然としているフィリップの足元に、子供をそっと置いた。


 王子は、足元の子供と白鹿を交互に見つめた。


 「この子を俺に託す、ということか?」


 白鹿はフィリップをジッと見ている。


 王子と鹿が見つめ合っている隙に、性懲りもない子供は、そろそろと立ち上がってまた逃げようとした。が、それは白鹿に阻まれた。


 子供の背中に白鹿は鼻面を押し付け、フィリップの方へと押しやった。子供はフィリップを見上げると、また「ひっ!」という悲鳴を上げて逃げようとしたが、再び白鹿に押しやられる。


 遂に観念して、子供は地面にへたり込んだ。


 フィリップは子供を抱き上げた。


 「判った。確かに俺が預かろう。」


 白鹿は、ゆっくりと木立の中へ消えていった。

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