2


 冬も近いというのに、卓哉は大学の志望校を決めれずにいた。卓哉の胸の中には、得体の知れないものが棲みついており、心が熱く燃えているのだった。


 日曜日だった。午後の勉強を終えると、気分転換のため境内に出ていった。枯葉は円熟しきった果実のように匂っている。それでいて、甘いというより、寒く冷たいという感覚が先にくるのであった。


 夕風だった。

 時子が下駄をカタカタ鳴らしながら境内を歩いてきた。

「卓哉さん、山本さんのお家、知っているでしょう」

「白樺の林道を行けば、三十分ぐらい」

「法事のお知らせに行くの。一緒に行ってくれない?」

 時子はいつもの和服を着ていた。髪も大きく古風に結っている。


 白樺の林道は、まるで生きている白い感情の流であった。

 卓哉には、時子という年上の女性が、遠い未来に輝く灯のように思えた。生きているこの世のものとは思えなかった。それほど淡く儚いものに見えたのだった。


 白樺の樹皮は白く、雪の流のようで、しかも遠い山脈は仄かにに夕日に煙っていたので、枯葉に覆われたこの林道は、しぃーんと静けさが鳴っていた。

「卓哉さんの瞳、冷たくて、凍っているようで、怖い」

 時子がぽつんと言った。卓哉は立ち止まった。彼は何も聞かなかったふうに、両手をポケットに突っ込んで遠い山脈を眺めた。


「あなたに好きな人がいるなんて、信じられない。おかしいでしょう、こんなこと、言って」

「本当のことだから……」

「でも嬉しい、それが分かって」

「どうして……」

「あなたが、孤独に閉じこもっているのを見るのは、辛いの」

 卓哉には理解できない言葉だった。時子は穏やかに微笑んでいた。


「孤独って、何?」

「わたしには、うまく言えない。でも、分かる。心が知っているの」

「知っている……」

「そうね」

「愛も知っている?」

「あなたが、素直になれば、分かるわ。あの人に抱いている感情、それが愛」

 時子はそう言って夕空に顔を上げた。

「理屈じゃないの。自信を持ちなさい」


 卓哉は自分の感情がひどく幼稚に思えて苦笑した。時子は強張った顔をしていたが、卓哉が笑顔でいるのを見ると、小さな吐息をもらして、微笑を浮かべた。

 白い満月に赤みがさしてくると、雲は金色に輝き、白夜のごとく光りだした。


 二人は月明りの林道を歩いて行く。

 風が突風となって時子の体を通りすぎると、なにか、すっと抜けていくような涼しい姿が残った。

 

「あの子は、あなたに恋しているわ」

 時子がぽつりと言った。卓哉には、その言葉の真意が分からなかった。確かめようと。時子に視線を向けたとき、彼女の小さな唇が、蛭のごとく伸びているところだった。

「でも、悲しいことに、あの子は甘いロマンを夢見ているだけだから……」

 卓哉は時子の瞳を見続けた。

「あの子は、それで満足している、きっと」


 そうかもしれない。

 卓哉は歩き出した。

「あーあ、また、やっちゃったみたい。余計なおせっかいを」

 背中に、時子のため息が聞こえた。


 卓哉は有子に対する感情が虚しい徒労にも思え、一方では遠い憧憬のようにも感じられた。この夕風の中に、身も心も溶かしてしまいたかった。


 帰り道、まだ白樺の林道は月明りに照らされていたが、西の空には黒い雨雲が低くたちこめてきていて、徐々に金色の雲を呑み込んでいくのが見えた。静かな夕闇の中から、色彩を失った枯葉がぽおっと目の前に浮かんでくる。静かな嘘のようだった。

 二人は無口のまま歩き続けた。



 遅い夕食をとって、卓哉は自分の部屋に籠り、机に本を広げた。落ち着かなかった。勉強を諦めて布団を敷き、潜り込んだ。時子の眼差しが目の前に浮かぶ。それは、遠くで輝く灯に似て、冷たく儚かった。


 目を閉じた。瞼の中に夜空が広がる。月明りに有子の姿が浮かび上がった。長い髪が揺らいで安らかだった。大空の月が有子の顔の向こう側を流れ過ぎ、月光と彼女の瞳が重なってぼうっと明るくなったとき、卓哉はなんとも言えぬ美しさに胸が震えた。


 うとうとして目を覚ますと、雨戸が微かに鳴っていた。卓哉は立ち上がり、雨戸を開けた。闇の中から、冷たい風に乗った雨粒が顔に当たった。


 サンダルを履き、庭に下りた。

 物置から自転車を引っ張り出し、跨った。父の代から使っているくたびれた自転車だった。振動がじかに手や足にくるので、雨あがりの泥道をこの自転車で飛ばすのが好きだった。


 自転車は風の中を進み、境内を通り過ぎた。自転車の灯火に照らされて、林道が幻のごとく浮かび上がっている。瞼や口の中に、まだ布団の温かさが残っていて、それが顔をほてらせている。瞼を見開き、口を大きく開けて、冷たい夜の風を体の中に吸い込んだ。


 右のペダルを踏むと自転車は右に片寄より、左のペダルを踏むと左に片寄った。雨はハンドルを濡らし、手を濡らした。枯葉はしっとりと濡れていて、車輪がスリップして流れると、優しくも悲しい声で泣いた。


 卓哉には夜の暗さというものが分からない。どうにもならない無力の悲しさにも思えるし、ぼんやりした悪魔の微笑みにも思える。太陽のもとで赤く燃えていた自我の炎が、この夜空の中で、こんなにも儚く消えてしまう。

 

 気がついたとき、卓哉は白樺の森の中で立っていた。夜がじーんと鳴っている。小石を拾うと、森の奥に投げた。石が黒い弧を描きながら森の中に消えていく。


 卓哉が境内に戻ってきたとき、全身ずぶ濡れだった。体全体にどっしりと重さが加わって、自転車を降りたときは、立っているのが精いっぱいだった。何も考えていなかった。それでいて、涙が頬を伝って流れた。

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