第3話新しい丘
自治会長の政宏に呼び出された副会長の井村由起子は、予想していたとおり自治会館の前の家の田所のことだったので暗澹たる気持ちになった。
すぐに怒鳴り込んでくる田所のことは自治会館を利用している人ばかりではなく、緑ヶ丘住宅全体に噂が広がっていた。
「いちど田所さんとちゃんと話さなければならないと思っているんだけど、どう思いますか」
政宏は暗い表情だった。
「それは間違いではないと思います」
多分賛同してくれるっだろうと思っていた政宏は少し表情が明るくなった。
「あなたも一緒に行ってくださいますか」
井村はこの手のトラブルは過去にも経験していた。
町のなかにある近隣センターの前に住む男とのトラブルを思い出した。
「ご存知だと思いますけど、近隣センターのトラブルのときのことを思い出しますわ」
「ええ、近隣センターの窓を開けると前の家が覗かれるとかなんとかで何度も自治会や近隣センターを使う人と喧嘩になったことがあったんですね」
「近隣センターの会議室の窓を開けるとベランダがあって、そこに人が出ると、正面の家が丸見えになっていたんです。それでその家のご主人が怒りまして、何度も怒鳴り込んできて、あるイベントのときにとうとう暴力沙汰になったんです」
確かにその話は覚えていた。5年ほど前の話だったが、今でも語り草になっている。
「イベントに参加している役員さんが、そのご主人を柔道の技を使って投げ飛ばしたんです。警察が呼ばれて大騒ぎになりました」
「私はそのとき所要でいなかったので見てはいないのですけど」
「そもそもそのご主人は近隣センターが自分の家の前に建ったことが不満だったそうなんです」「確かに人や車の出入りがうるさくなりますよね」
「その事件以来、近隣センターの会議室の窓は決して開けないようになったんです」「そうみたいですね」
「だから田所さんも、自治会館がこの場所に建ったことが原因じゃないかと思います」
「それは分かりますが、このままではそのうち大きなトラブルになることもあり得るのではないかと心配しているのです」
確かに政宏の言うとおりだった。
近隣センターの再来が起こる可能性は高い。
だが、自治会館が建ったことが不満だったら、いくら話し合っても解決できないような気がしないでもある。
「田所さんは、どういう人なのでしょうか」
井村は相手がどんな人物か分からない相手と対峙することに不安だった。
「会社員だということは聞いています。私の隣の家の人が田所さんの娘さんと同じ学年で、小学校のイベントなどで一緒だったんですが、ごく普通の人だという話です」
「あの人は心の病気だと言う人もいますよ」
「そう決め付けるのはどうかとも思いますけど」
「いずれにしろ、もし春田さんが田所さんとお会いするということになれば、ご一緒したいと思います」
井村は不安な気持ちが残ってはいるものの、大きなトラブルになる前に話し合うということは必要ではないかと思い始めていた。
4丁目に住んでいる目黒弘は、毎朝の散歩が日課だった。
自宅を出て、大きな公園を2週して、駅まで歩き、その後自宅まで帰るのがいつものルートだった。
バスが通れるくらい幅の広い駅までの道から小学校を超えて1本目の道を曲がると住宅が整然と続く道に出る。
家に向かう道を曲がろうとしたとき、角の家の前を通り過ぎようとしたときだった。その家の玄関のドアが開け放しになっているのが見えた。
ドアを開け放している家はあるが、ちらっと見たとき、玄関のなかが普通ではないと感じた。
靴が散乱し、傘たてが倒れて数本の傘が放り出されていた。
何かそこで乱闘とか一騒ぎあったような乱れた感じだった。
思わず立ち止まった。
そのとき、向かいの家から人が出てきた。
ごみ袋を持っている主婦だった。
呆然として立ちすくむ目黒に主婦は違和感を覚えた。
目黒は主婦の顔を見た。
「この家おかしくありませんか」
「杉原さんですか」
主婦はその家の名前を言った。
「ドアが開け放しになっていて、玄関がぐちゃぐちゃになっている」「奥さんがごみ出しに行っているんじゃないですか」
「何かあったような感じですよね」
主婦はその家のチャイムを鳴らした。
「この家はひとり暮らしの人が住んでいるのですか」
「奥さんひとりです」
誰も家のなかから出ては来なかった。
しばらくその家の前で動かなかったが、20分ほどして誰の気配もしないし、誰も帰ってこなかったので、主婦はごみを捨てにいってから家に戻り夫を連れてきた。
「やはりおかしいですね」
「どうしましょうか」
「なかで寝ているかもしれないぞ」そう言って、夫は玄関のなかに入っていった。「杉原さん」
大きな声で呼びかけた。
なかから返事はない。三人は顔を見合わせた。
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