3
登りの坂道をのそのそと懸命にバスがやってくる。
そのバスはバス停の椅子で踏ん反り返る私の前に停車して、「フシュー」と一息ついて乗車口の扉を開く。乗車口から見える乗客たちは通勤通学で死人のように顔から血の気が引いていた。
そんななか、やはり私は動くことをしない。
学校になんて行きたくない。このバスになんて乗りたくなかった。
なかなか動くことをしない私に呆れてか、バスは「フシュー」と大袈裟な溜息をついて扉を閉めた。重そうな車体をゴロゴロ押して発進した。
過ぎ去るバスの後ろ姿を私は眺めて「フシュー」と一息つく。
この日も学校に行くことなく、あのバスに乗る事もなく済んで、──安堵した。
それにしても、昨日はとても不思議な体験をした。
自称「半透明人間」の杉浦さんのことだ。だけど、やはりあれは具合が悪くて変な幻覚を見てしまったのだろう。この日は杉浦さんは現れなかった。
「バスに乗らないのですか?」
でもやっぱり違った。
「あ、杉浦さん。いつの間に……」
「それはこちらの台詞です。いつの間に貴女が横に座っている」
「お言葉を返しますが、それこそそれは、こちらの台詞です」
私がふんぞり返っていた横の椅子にはいつの間にか自称「半透明人間」の杉浦さんがいた。
「それにしても、学校へは行かないのですか? 遅刻しますよ?」
「いいんです。もう行くつもりないから」
杉浦さんは何かを察したか、優しい声をしてこう言った。
「……そうですか。行きたくないなら行かないのが、正しい判断です。無理をして体を悪くしたら元も子もないですから」
恐らくどんなに偉いカウンセラーの人が言うよりも、それはある意味で深みのある言葉だろう。
「でもそういえば、前に貴女をバスで見かけたことがあります」
「一年生の頃は普通に通っていましたから」
「いえ、最近のことです」
「え、最近ですか?」
そんなことあったのかと、思い返してみれば、前に一度だけ思い切って学校へ向かおうとこのバスに乗ったことがある。一本後のバスになるのでその時にでも見かけたのだろう。ただ結局、途中で引き返したので学校へ行くことはなかったけど。
「学校に行こうと頑張っていたのは偉いですよ。まあ、でも、気が向いたら行く程度でいいと思います。貴女は貴女の身体を労わった方がいい」
半透明人間の杉浦さんは彼なりに私を気遣っているようだ。普段は他の人にこんなこと言われても煩わしいだけだけど、この人から言われれば悪い気がしなかった。
それが何故かは分かっている。
だって、この人の方が私よりもとんでもない状態に陥っているから。
「杉浦さんこそ、お体を大事にされてください」
「これは、ありがとう。こんな身体になったけど、体調は全く悪くないんだ。暑くもなく、寒くもなく、お腹も減らず、眠くもならない。不思議な感覚ですよ」
「それは、そうでしょう。ご冥福をお祈りします」
杉浦さんはうっすら透けた腕を組んだ。
「でも、ずっとこのままも良くないと思うんです。せめて妻には会っておくべきかと……」
「その方がいいでしょうけど、きっと奥様は驚きますね」
「うん。どうにかして元の身体に戻らないと。これでは妻に会せる顔がない」
杉浦さんがそう言うので、私は見えないけど元は杉浦さんにもあったであろう足の辺りを指差した。
「顔が無いより、足が無いの間違いでは?」
「おや、それは面白いことを言う」
別にそんなつもりで言ったわけではないけど、そんなことを言われては、私は照れるしかない。
「でもこれは無いのではなくて、見えないだけです。見えていないだけで足はあるのです。なにせ僕は『半透明人間』ですから」
ただ杉浦さんは、自身を「ゆーれい」であると頑なに認めない。
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