第一楽章

 春風香る四月。

 俺は、水風学園高等部に、幼馴染で小さい頃から一緒にサッカーをしてきた友人、水本犀ミナモトサイと入学した。真新しい制服に身を包み、桜の舞う校門をくぐり抜け、期待に胸を膨らませ、「ここがこれから通う学校か」というセリフを吐く──はずだった。しかし現実はどうだろう。せっかく例年よりも早く桜が咲いたというのに、その花を叩き落とすかのごとく、雨が桜の花びらを叩きつけている。真新しい制服ではなく、いつもよりもキッチリとした新品の洋服は、雨水を含んで色濃くなっている。「桜の花びらが舞うこの良き日」という校長の祝辞は、まるで説得力に欠けていた。



 「なぁ、焔……入学式のイメージって何色?」


 「桜色とか?」


 「だよな、少なくとも、灰色ではないよな」



 どんよりとした厚い雲が、この日俺たちをスポットライトのように輝かせるはずの太陽を隠しているせいで、せっかくの満開の桜は台無しだった。目の前の風景は鈍色。桜色に彩られた最高の風景を絵に収めようと楽しみにしていたであろう美術部の重いため息が聞こえてきそうだ。

 空の色と同じような澱んだ心のまま、俺たちは入学式を終えた。これからこの学校で過ごしていくことに、少しだけ不安を感じている新入生の心をそのまま映したような空を仰ぎ見た、そのとき


 ──ポロンッ


 微かにハープの音が聞こえた。その音色を聞いたことがある気がした。



 美しく咲く花を憎む雨


 どうしてあなたはここで泣く?


 独り寂しく泣く雨を


 舞い踊る花は知らず


 ただ光を待ち侘びる


 生命を照らす太陽を


 花もあなたも待ち侘びて


 想いは七色に彩られ


 舞い踊る花は咲き


 流れる雨は泣き止み


 春風となる



 ハープの音色と微かなメゾソプラノの独唱が終わった頃、澱み灰色になっていた俺達の心も晴らすかのように、雲間から光が差した。この日、ここにいるほとんどが見たかった風景がそこにはあった。雨に濡れて色濃くなったソメイヨシノが、気持ちよさそうに春風の流れに身を任せて踊っていた。雨も光を浴びて虹となり、先ほどの気持ちは雨とともに流れていった。


 俺たちは、校庭からこれから過ごすことになる教室へ、先生の先導に従って行った。先ほどまで雨が降っていたせいか、雨の日特有の匂いに一瞬顔を顰めた。



 「あれ?お前の後ろの席のヤツ、今日来てねぇのか?」


 「いや、入学式にはいたはずだぜ。綺麗な声した女子だったはずだ」


 「いいなぁ、女子か。俺の周り花がねぇんだけど」


 「学校に慣れてねぇ女子かよ、お前は」



 まぁ、周り全部男に囲まれている状況は、なかなかハードだとは思うが、これも出席番号順と定められたが故に起こったものだ。こればかりは避けようもない。そのうち席替えをするのだから、今は我慢しておけと言いたいが、これ以上は余計にテンションを下げてしまいかねないので、言わないでおく。



 「皆、着席しろ」



 まだ初日だからか、ザワザワしていても先生は怒鳴ったりしない。怒鳴った瞬間嫌われることを悟っているからだろう。



 「皆、揃っているか?」


 「先生、黎ちゃんがまだです」



 俺の二つ後ろに座る女子が言った。「黎」という女子なのか。教室内がざわざわ騒ぎ立て始めた頃、静かに教室の後ろの扉が開いた。コツコツという硬質の靴音が一定のリズムで刻まれる。



 「すみません、トイレに行っていたら列を見失ってしまいまして」



 教室に入ってきた少女に、クラスメイトのほとんどが息を飲んだ。肩まで伸ばされた夜を映したような髪と、色素の薄い黒い瞳をしていた。軽い身のこなしで、俺の後ろの席に座った。



 「まだ人数確認だけだったから、問題ない」


 「そうでしたか」



 俺の背後から心地のいい声が聞こえてきた。この澱んだ教室を浄化してくれるような、いわゆる美声だ。歌手でも目指しているのだろうか。



 「黎ちゃん」


 「なんだい、恋ちゃん?」


 「校庭でハープ弾いてたんでしょ?」


 「うふふっ、そうだよ」



 トイレに行っていたわけではなかったらしい。校庭で夢中になっていたら周りに誰もおらず、慌てて教室を探して来たというわけだろう。席が後ろだったからか、先生には聴こえていなかった。



 「それでは、まず自己紹介をしようか」



 そうして、安曇という女子から順番に周り、二列目の列に来た。



 「金桐光紀カナキリコウキです。これから一年よろしくお願いします」



 なんか、周りがキラキラしたものが飛んでいるが、見なかったことにしよう。

そして、俺の番だ。



 「剣崎焔です。サッカーが好きです。よろしくお願いします」


 「え?キミ、焔くんなの?」



 俺の後ろの「黎ちゃん」と呼ばれていた女子に声をかけられた。近くで見てもかなり可憐な顔立ちだ。浮世離れしているレベル。俺のことを知っているのか、この人。



 「あ、えっと言ノ葉黎コトノハレイです。演奏と歌が好きです。よろしくお願いします」



 どこかで聞いたことのある響きだ。「言ノ葉」遠い記憶じゃない。一、二年前の記憶の中にある記憶だ。



 「冴木恋サエキレンです。中学の頃は弓道部でした、よろしくお願いします」



 俺の頭の中では、とにかく黎さんのことを思い出そうとしていた。とても大切な記憶だった気がする。いや、そのはずだ。でなければ、ここまで気にならない。



 「恋ちゃん」


 「どうしたの?」


 「えっと……焔くんと犀くんとはわたし、出逢ってる気がするんだよね」


 「え、うそ。焔だっけ?覚えてる?」



 覚えていない、とはさすがに言えなかった。確かにどこかで見たことも、聞いたこともある声なのだ。



 「あの日も雨の日だったね」


 「雨の日……歌……?あっ!」



 俺と犀はそこで思い出した。闇夜の天の涙を拭ったあの時の少女だ。そう、確か「言ノ葉黎」と名乗っていた。あの日も雨の中ハープを奏で、美しい声で歌っていた。そう、今日のように。なぜ思い出せなかったんだろう。



 「コンチェルト……」


 「おぉ、覚えていたのだね」


 「コンチェルト……ってことは、運命ってこと?」


 「そういうこと」



 恋という子も、その言葉が黎さんが運命を喩えた言葉であると知っているのか。



 「コンチェルトって言った人、これで何人?」


 「きみを含めて三人目。まだ三守聖トリオだね」


 「なぁ、犀。トリオってなんだ?」


 「トリオっていうのは……音楽用語で三重奏って意味だよ」



 犀の代わりに黎さんが答えてくれた。二年前にも思ったけど、この人物事を音楽用語で喩えるの好きだな。



 「まぁ、わたしの言うトリオは、ちょっと違うんだけどね」


 「ちょっと違うって?」


 「少なくとも、ここで言える内容ではないのだよ。ね、恋ちゃん」


 「うん。学校では言えないわね」



 どんな内容なんだろうか。ここでは言えないなんて。本当に俺たちは、運命的な出逢いをしていたということなのか。



 「どこかで集まった方がいいかな?黎ちゃん」


 「う~ん。君たちと初めてあった場所は?外は嫌だよねぇ」


 「俺ん家は?」



 ほぼ初対面の人間を家にあげることはないが、黎さんはかなり親しみやすいし、その隣の恋という子も、警戒する必要もなさそうだ。俺はどこかの戦士とかでもないので、人の心は読めないが、この二人は悪い人間ではない気がする。



 「そういえば、晴らしてくれたの、黎さん?」


 「黎さんなんて。黎とかでいいよ?」



 なんとなく、それは躊躇われる。同い年どころか年下にも見える風貌なのに、雰囲気は俺たちの倍生きているような、洗練された空気を感じる。



 「じゃあ、黎」


 「さっそく下呼びかい?いいねぇ」



 ……犀、お前すごいな。

 さっきまでこの人の近く来て顔真っ赤にして、静かにしていた奴が、突然呼び捨てかよ。しかも名字ではなく名前。



 「えっと……焔くんの質問に答えるけど、雨を晴らしたのはわたしだよ。わたし、雨は歌が思い浮かべやすくて好きなのだけど、こういう時に降られるとさすがのわたしも凹む」



 つまりは、先ほどの美しい歌も思い付き。さらに、テンションが下がっていたなかであの歌を歌ったのだ。ハープも美しく奏でながら。



 「言ノ葉」


 「は、はい。先生」


 「それはハープか?」


 「はい」


 「ここは学校なんだぞ。あまりそういうのを持ってくるな。盗まれるぞ」



 ……え、そこなのか?

 学校に不必要なものは持って来るなではないのか、普通。注意の仕方若干おかしくないだろうか。ふと、黎を見てみた。先生に向かって上目遣いをしていた。美女にされるとほとんどの男子が堕とされるという、あれだ。それだけ言うと、先生は教壇に戻った。



 「上目遣いするなよ、黎」


 「してないよ。先生をただ下から見ただけさ」



 無意識の行動がこれだけ恐ろしいとは思わなかった。この人は多分、無自覚に人を堕とす人だ。無意識は時に武器になる。それを今まさに見ている状況だった。



 「そのハープ、イヤラシイ話になるけど、高いのか?」


 「特注だからね」


 「マジか」


 「わたし専用の楽器を作ってくれる楽器屋さんがいてね。そこで作ってもらうんだ。素材もいいし、いい音なるの」



 母親が子どもを愛でるかのような優しい眼差しでハープを見つめ、それを撫でていた。それが盗まれたら一大事だ。でも、ハープがいい音を鳴らすのは、黎の、楽器に対する優しさや想いに、楽器が答えてくれているからじゃないか、と俺は思う。



 「他に弾ける楽器とかあるのか?」


 「楽器は全般弾けるよ。ピアノとか貸してもらえないかな」


 「焔の家行く時、なにか持ってきてくれよ」


 「そういえば、また会えた時新しい曲弾くって言ってたもんね。いいよ、じゃあバイオリン持って来る」



 バイオリンは、高いイメージがある。この人のバイオリンが特注だとしたら、一体いくらする?家一つ分は難くないはずだ。



 「ついでに、いくら?」


 「値段はつけられないかな」



 俺たちは、三人して目を剥いた。楽器はどれも高いというが、付けられないほど高いのか



 「楽器はね、決してお金では買えないほどの価値があるんだ。奏者によって、無価値になる楽器もあるの」



 少なくとも、この人の前では楽器は何よりも価値のあるものに変わる。この人の奏でる旋律は、何よりも美しい想いをこの世界のどこかに届ける。それがこの人の力なんだろう。



 「わたしの職人さん、お前が奏でればそれがわたしにとっての報酬だって言っていた。楽器にとっての報酬は、愛し奏でてあげること。始めてくれたときに言ってくれたんだ」


 「だから、黎の楽器は綺麗なんだな」


 「え?」


 「俺さ、初めて黎のハープを見た時、お前を映してるみたいだなって想ったんだ。お前があげる楽器への愛は、確かに楽器に届いてるんだ」



 自分で言っておいて、すごく恥ずかしくなったが、黎が若干顔を赤らめてありがとうと言うのを聞くと届いてはいたようだ。ほとんど顔色を変えないように見えた黎は、どうも褒められるのが弱いようだ。



 「わたしの友だちね、この子たちしかいなかったんだよ」


 「楽器のことか?」



 黎は、楽器をまるで人間のように言う。それは、この人のそばに誰かがいなかったからなのか。



 「いつもわたしのそばにいた」


 「家族は?」


 「知らないんだ。わたし、どこで生まれたのか誰の家に生まれたのか。物心ついた三歳くらいの頃に楽器職人さんに出会って、初めて触れた楽器がこの子とは別のハープだった。」



 どこか儚く、悲しげに微笑む黎は、静かにそう言った。ハープは初めての友達で、今黎が所有する楽器はすべて友人ということだ。寂しい生活を送っていたのだな、と想う。俺は兄がいて何不自由ない生活をしてきた。でも優しく、周りと自然と接する黎は、決して普通の生活の中にはいない。なんとなく、そんな気がした。これまで友だちじゃなかった人は、黎のことを知らなかったからだ。



 「しんみりしちゃったね」


 「下校時間だぞ、お前たち。初日から仲いいな」



 先生に言われ、俺たちは話しすぎていたことに気がついた。もうホームルームは終わっていたことを思い出した、俺たちは、慌てて荷物を持ち、教室を出た。黎は、窓のそばにいた。



 「言ノ葉、鍵閉めるぞ」


 「あの、燕が怪我をしていて」



 再びあの無意識下の上目遣いをした。もう一度言おう、無意識だ。黎の腕には、翼が折れた燕がいた。優しくハープを巻いていた布に包んで抱いていたのだ。黎は、すぐに教室を出た。ハープは恋に持たせた。よほど信頼しているらしい。



 「お前、黎のなんなんだ?」


 「ボディガードよ」


 「は?なんだよそれ」


 「あの子見てたらわかるでしょ、無防備なの」



 恋の言葉に、俺たちは今一度黎を見た。そして、納得した。無自覚のうちに相手をその気にさせてしまいそうだ。これは、守る人間が必要な気がする。



 「ただのボディガードじゃないのよ」


 「え?」


 「それも含めて、アンタの家で説明されると思うわよ。黎ちゃん、いい子でしょ?」


 「いい子通り越して、良すぎだろ」



 怪我をした燕を、大切なハープを守る布に包んで守ってあげているあたり、優しくないわけがない。俺たちは、校門を出るとすぐに燕の様子を見た。すると、黎がハープを取り出した。

 ……何をするんだ?

 雨を晴らす旋律とは異なる美しい音色。ハープの弾き方によって、音色や波長も変わるのだ。



 「よし、これでどうかな?」



 黎は、燕を守る布ごと優しく持ち上げ、天に掲げた。そうすると、動くのも辛そうだった燕が飛び立ったのだ。そして、黎の周りを飛び回っていた。飛べたことが嬉しいようだ。



 「もう勢いのまま教室に入ってきちゃダメだよ」



 燕は、黎の言葉に応えるように大きく羽ばたかせた。この人、動物とでも言葉を交わせるのか。もはや何者かわからない。バイバイと告げると、その燕は青空を羽ばたいて行った。あの空は、さっきまでどんよりとした鈍色だったのだ。それが、透き通るような青になっていた。



 「あれ、そういえば」


 「どうしたの?」


 「二年前、目の色青じゃなかったか?」


 「あぁ、そういうことも含めて、後で説明するよ」



 そうしてもらえると有難い。



 「じゃあ、また後でね。というか、キミの家どこ?」



 初めて来るはずの俺の家なのに、一人で来る気でいたのか、この子。結局着替えてからこの校門のまえに集合することになった。


 

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